『増補 日本人の自画像』 なぜ自国の死者が先だったのか?
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加藤典洋氏の『敗戦後論』が1997年に出版された時には大いに話題になりました。加藤氏がこの本で書いたことが批判を呼び論争になったからです。僕自身もちょっと遅れて『敗戦後論』を読みましたが、よくわからないままになってしまったことも多かったように思います。というのも、加藤氏も自戒して語っているように、加藤氏の著書は晦渋で論旨を追いにくいところもあるからです。
加藤氏は『敗戦後論』において日本社会の「ねじれ」について論じていました。このねじれは戦争に負けたことによって生じたものです。戦争に負けた側は自分たちが義のために戦ったと信じていたとしても、それを否定せざるを得なくなるからです。
加藤氏が指摘したのは、日本は負けた時にその「負け点」をうまく引き継げなかったということです。きちんと負けを認めてから前に進むべきところをうやむやにしてきてしまったのです。そのことがねじれにつながっています。ねじれには占領国から押し付けられた「憲法9条」の問題や、「天皇の戦争責任」の問題などがあります。そして、一番議論を呼んだのは「二様の死者」の問題です。
「二様の死者」とは、義のない戦争に駆り出されて無意味に死んでいった「日本の三百万人の兵士たち」と、日本軍が行った侵略戦争によって殺された「アジアの二千万人の死者」のことです。このことに関して加藤氏はこんなふうに書いています。「日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、死者の謝罪にいたる道は可能か」。
こうした記述は、アジアの死者に対する謝罪が先なのではないかとの批判を招くことにもなりました。加藤氏は自国が先で、他国は後という後先の問題を言いたかったわけではなかったようですが、読者にはそう受け止められることになったのです。
加藤氏は同書の中で「日本が他国にたいして行ったさまざま侵略的行為の責任を、とらず、そのことをめぐり謝罪を行っていない」とも書いています。それにも関わらず自国の死者を先に置くということを論じたわけです。
ちなみに『敗戦後論』は3つの論文からなっています。議論を呼び起こした「敗戦後論」と、それに対する反論を受けて書かれた「戦後後論」と「語り口の問題」です。「戦後後論」と「語り口の問題」では、反論に対して答えているわけですが、僕にはそれがうまくつかめていなかったような気がしています。しかし、今回紹介する『増補 日本人の自画像』(2000年)という加藤氏の本は、『敗戦後論』の原論のような形にもなっていて、『敗戦後論』の加藤氏が言わんとしていたことが少しはクリアになったような気がします。
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◇『敗戦後論』の原論
『増補 日本人の自画像』の宣伝文句には「私たちは自分たち自身を、どのように描いてきたのか。」とあります。自画像というのは肖像画とは異なるということです。どこが違うかと言えば、自画像は他人から見た自分だけではなく、自分にしか見えない自分を含んでいるということになるでしょう。この本は荻生徂徠、本居宣長、福沢諭吉、柳田国男、吉本隆明たちの自画像制作の試みを追うことになります。
松岡正剛氏は「加藤のお手並みや包丁さばきにおもしろいものを感じた」として、この本の詳細な要約を「松岡正剛の千夜千冊」にアップしています。その要約はそちらを読んでもらうとして、この本を僕がおもしろいと感じたのは『敗戦後論』の原論的な意味合いの部分です。
『敗戦後論』の最初のエピソードにこんなことが書かれていました。小学校の頃に加藤氏の学校と他校とで相撲の勝負があった時のことです。この勝負の結末は、加藤氏の学校の代表が土俵際に追い詰められ、最後はこらえきれずに腰を落としてしまいます。ところがうまい具合に足が相手の腹にかかり、巴投げの形になります。加藤氏の学校の生徒は一斉にこれを囃し立てたそうです。相撲の勝負がいつの間にか柔道になったわけです。突然ルールが変わってしまったのです。
日本が戦争に負けた時に起きたこともこれと似ています。それまで鬼畜米英と叫んでいたのが180度転換してアメリカべったりになり、天皇は現人神から人間になります。こうしたことは戦争に負けたから生じたわけですが、この転換はいつの間にか行われています。
新聞などもそれまでは「撃ちてし止まん(敵を撃破したら戦いをやめよう)」と言っていたのに、とりあえず「終わってよかった」「喧嘩はいけない」といった論調になります。負けたということを認めるべきところだったのに、それをうやむやにした形で戦後が始められたために「ねじれ」が生じています。「ねじれ」は戦争に負けたことから生じたと上述しましたが、『日本人の自画像』ではその点についてもっと大きな視点から見て、それを補足しているようにも感じられました。
『敗戦後論』の冒頭のエピソードにあった「ルール変更」について、『日本人の自画像』では別の言い方をしています。加藤氏は『日本人の自画像』で日本の思想家たちを取り上げるわけですが、彼らはその多くが同じ過ちを犯していると指摘しています。加藤氏はそのことを「内在」の思想と「関係」の思想というキーワードで示していきます。
◇「内在」の思想から「関係」の思想へ
日本の思想家たちが躓いたのは、日本には「関係」の思想というものがなかったからです。日本において「関係」の思想が発見されたのは開国を迫られた時代になります。それまで日本は鎖国状態にあり、内に閉じこもった自分だけの「内在」の思想だけでやっていけたわけです。しかし、開国によってそれではダメだと気づかされます。「内在」の思想は国際社会では通用しないことが明らかになったからです。二つの違いを取り出すために、一、いまいる自分の場所から、自分の考え、価値観を作り出し、それに照らしてものごとを考えてゆくあり方と、二、それとは逆に、自分の考えはさておき、他との関係から価値を割り出してくる考え方の間に、線を引き、前者を「内在」の思想と呼び、後者を「関係」の思想を呼んでおく。 (『増補 日本人の自画像』 p.218-219)
西洋諸国は日本に「関係」の思想を押し付けてきたとも言えるわけですが、彼らがその「関係」の思想というものを獲得するまでには大きな犠牲を払っています。その犠牲というのが「三十年戦争」だったとされます。
「三十年戦争」ではカトリックとプロテスタントは自分たちが正しいと信じて戦い続けた結果、大きな犠牲を出すことになりました。Wikipediaの記載によれば「「最後で最大の宗教戦争」ともいわれ、ドイツの人口の20%を含む800万人以上の死者を出し、人類史上最も破壊的な紛争の一つ」とされます。
自分たちは正しい。それは理解している。しかしながらそれをそのまま推し進めると犠牲が大きいことも、「三十年戦争」で痛いほど理解したわけです。だからとりあえずの「次善の策」として、つまり妥協として選ばれるのが「関係」の思想ということになります。
こうして制定されたのがウェストファリア条約で、これが国際法というものにつながることになります。西洋諸国もそれぞれの国がそれぞれの「内在」の思想で突き進んだわけですが、そこで痛い目に遭うことになり「関係」の思想というものを学んだというわけです。
◇日本における関係の発見
日本の開国はペリーの黒船来航(1853年)から始まるとされていますが、加藤氏は幕末という時代はアヘン戦争(1840年)を機に始まるとしています。それまでの中国文明下における朱子学の世界とは別の世界に、日本が投げ入れられることになったわけです。そこで日本が初めて知ったのが、国際法というものになるわけです。これこそが「関係」の思想ということになります。そこでそれまでのルールが通用しないことに日本は驚いたわけです。
そして、同じようなことは1920年代にも起きているとされます。西洋諸国のルールではそれまでの植民地獲得は当然のものとなっていました。ところが獲得するべき植民地には限りがあるわけで、次第に問題が生じてきます。すると今度は植民地などまかりならんということにルールが変わることになります。日本はそんなルールの変化に対応できずに孤立していきました。その孤立は1945年の敗戦へとつながるわけです。脱亜入欧をスローガンとして西洋諸国の仲間入りをしようとしていた日本は、突然のルール変更にぶち当たったということになります。
加藤氏が言わんとしていることは、西洋諸国のルール変更が酷いという点ではなく、「内在」の思想は必ず「関係」の思想にぶつかるということです。日本の思想家たちが躓いたのも、この点だったということになります。
◇二様の死者
ここから先は加藤氏が明示的に書いているわけではない部分も含みますので、僕の勝手な解釈ということになります。
『敗戦後論』で一番議論を呼んだのは、「二様の死者」という「ねじれ」でした。これに関して加藤氏は『日本人の自画像』で直接触れているわけではありません。ただ、「内在」の思想と「関係」の思想というアイディアを提出し、「関係」の思想の必然を論じつつも、同時に「内在」の思想の重要性を説いている部分には『敗戦後論』とのつながりを感じました。加藤氏が福沢諭吉の「瘦我慢の説」に準拠しつつ論じていることは、「内在」の思想をおろそかにすると大切なものが脱落するということです。
加藤氏は『敗戦後論』の後に書いた『日本の無思想』や『戦後的思考』という著作においても、ハンナ・アーレントの議論などを通じて「公」と「私」の関係性や、私利私欲に基づいた「公共性」というものを論じています。これを『日本人の自画像』の議論と関連させれば、「内在」の思想は「私」というものに通じるでしょうし、「関係」の思想は「公」や「公共性」というものに通じているでしょう。
『日本の無思想』や『戦後的思考』での議論でも、加藤氏は「公」よりも「私」というものの方が大きいとします。そして、「公共性」というものは、本来対立すると思われている「私」とか私利私欲といったものに基づいて構築されていかなければならないとしました。そうでなければ現実に即したものにならないと考えていたからなのでしょう。加藤氏がこんなふうに「公」と「私」の関係性を考え続けていたのは、『敗戦後論』において自国の死者を先に置くと論じたことともつながっているように感じてしまうのは考えすぎでしょうか。
実は加藤氏はすでに亡くなられたのだそうです。昨年『日本人の自画像』を初めて読んだ時にはそれを知りませんでした。最後は憲法9条に関して詳しく調査しておられたようで、意志を受け継いだ人たちによって9条関係の著書がいくつも出版されたようです。これは『敗戦後論』で展開していた、憲法9条を選び直すということを、さらに精緻に進めることになるんじゃないかと推測しています(まだ時間がなくて読めてませんが)。加藤氏の代表的な著作とされる『敗戦後論』ですが、その後の加藤氏の著作も『敗戦後論』に書きつくせなかったことを考え続けてきたもののようにも感じました。
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