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『増補 日本人の自画像』 なぜ自国の死者が先だったのか?

2022.02.06 22:12|社会批評

敗戦後論 (ちくま学芸文庫)


◇『敗戦後論』について
 加藤典洋氏の『敗戦後論』が1997年に出版された時には大いに話題になりました。加藤氏がこの本で書いたことが批判を呼び論争になったからです。僕自身もちょっと遅れて『敗戦後論』を読みましたが、よくわからないままになってしまったことも多かったように思います。というのも、加藤氏も自戒して語っているように、加藤氏の著書は晦渋で論旨を追いにくいところもあるからです。
 加藤氏は『敗戦後論』において日本社会の「ねじれ」について論じていました。このねじれは戦争に負けたことによって生じたものです。戦争に負けた側は自分たちが義のために戦ったと信じていたとしても、それを否定せざるを得なくなるからです。
 加藤氏が指摘したのは、日本は負けた時にその「負け点」をうまく引き継げなかったということです。きちんと負けを認めてから前に進むべきところをうやむやにしてきてしまったのです。そのことがねじれにつながっています。ねじれには占領国から押し付けられた「憲法9条」の問題や、「天皇の戦争責任」の問題などがあります。そして、一番議論を呼んだのは「二様の死者」の問題です。
 「二様の死者」とは、義のない戦争に駆り出されて無意味に死んでいった「日本の三百万人の兵士たち」と、日本軍が行った侵略戦争によって殺された「アジアの二千万人の死者」のことです。このことに関して加藤氏はこんなふうに書いています。「日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、死者の謝罪にいたる道は可能か」。
 こうした記述は、アジアの死者に対する謝罪が先なのではないかとの批判を招くことにもなりました。加藤氏は自国が先で、他国は後という後先の問題を言いたかったわけではなかったようですが、読者にはそう受け止められることになったのです。
 加藤氏は同書の中で「日本が他国にたいして行ったさまざま侵略的行為の責任を、とらず、そのことをめぐり謝罪を行っていない」とも書いています。それにも関わらず自国の死者を先に置くということを論じたわけです。
 ちなみに『敗戦後論』は3つの論文からなっています。議論を呼び起こした「敗戦後論」と、それに対する反論を受けて書かれた「戦後後論」と「語り口の問題」です。「戦後後論」と「語り口の問題」では、反論に対して答えているわけですが、僕にはそれがうまくつかめていなかったような気がしています。しかし、今回紹介する『増補 日本人の自画像』(2000年)という加藤氏の本は、『敗戦後論』の原論のような形にもなっていて、『敗戦後論』の加藤氏が言わんとしていたことが少しはクリアになったような気がします。

増補 日本人の自画像 (岩波現代文庫)



◇『敗戦後論』の原論
 『増補 日本人の自画像』の宣伝文句には「私たちは自分たち自身を、どのように描いてきたのか。」とあります。自画像というのは肖像画とは異なるということです。どこが違うかと言えば、自画像は他人から見た自分だけではなく、自分にしか見えない自分を含んでいるということになるでしょう。この本は荻生徂徠、本居宣長、福沢諭吉、柳田国男、吉本隆明たちの自画像制作の試みを追うことになります。
 松岡正剛氏は「加藤のお手並みや包丁さばきにおもしろいものを感じた」として、この本の詳細な要約を「松岡正剛の千夜千冊」にアップしています。その要約はそちらを読んでもらうとして、この本を僕がおもしろいと感じたのは『敗戦後論』の原論的な意味合いの部分です。
 『敗戦後論』の最初のエピソードにこんなことが書かれていました。小学校の頃に加藤氏の学校と他校とで相撲の勝負があった時のことです。この勝負の結末は、加藤氏の学校の代表が土俵際に追い詰められ、最後はこらえきれずに腰を落としてしまいます。ところがうまい具合に足が相手の腹にかかり、巴投げの形になります。加藤氏の学校の生徒は一斉にこれを囃し立てたそうです。相撲の勝負がいつの間にか柔道になったわけです。突然ルールが変わってしまったのです。
 日本が戦争に負けた時に起きたこともこれと似ています。それまで鬼畜米英と叫んでいたのが180度転換してアメリカべったりになり、天皇は現人神から人間になります。こうしたことは戦争に負けたから生じたわけですが、この転換はいつの間にか行われています。
 新聞などもそれまでは「撃ちてし止まん(敵を撃破したら戦いをやめよう)」と言っていたのに、とりあえず「終わってよかった」「喧嘩はいけない」といった論調になります。負けたということを認めるべきところだったのに、それをうやむやにした形で戦後が始められたために「ねじれ」が生じています。「ねじれ」は戦争に負けたことから生じたと上述しましたが、『日本人の自画像』ではその点についてもっと大きな視点から見て、それを補足しているようにも感じられました。
 『敗戦後論』の冒頭のエピソードにあった「ルール変更」について、『日本人の自画像』では別の言い方をしています。加藤氏は『日本人の自画像』で日本の思想家たちを取り上げるわけですが、彼らはその多くが同じ過ちを犯していると指摘しています。加藤氏はそのことを「内在」の思想「関係」の思想というキーワードで示していきます。

◇「内在」の思想から「関係」の思想へ

 二つの違いを取り出すために、一、いまいる自分の場所から、自分の考え、価値観を作り出し、それに照らしてものごとを考えてゆくあり方と、二、それとは逆に、自分の考えはさておき、他との関係から価値を割り出してくる考え方の間に、線を引き、前者を「内在」の思想と呼び、後者を「関係」の思想を呼んでおく。  (『増補 日本人の自画像』 p.218-219)

 日本の思想家たちが躓いたのは、日本には「関係」の思想というものがなかったからです。日本において「関係」の思想が発見されたのは開国を迫られた時代になります。それまで日本は鎖国状態にあり、内に閉じこもった自分だけの「内在」の思想だけでやっていけたわけです。しかし、開国によってそれではダメだと気づかされます。「内在」の思想は国際社会では通用しないことが明らかになったからです。
 西洋諸国は日本に「関係」の思想を押し付けてきたとも言えるわけですが、彼らがその「関係」の思想というものを獲得するまでには大きな犠牲を払っています。その犠牲というのが「三十年戦争」だったとされます。
 「三十年戦争」ではカトリックとプロテスタントは自分たちが正しいと信じて戦い続けた結果、大きな犠牲を出すことになりました。Wikipediaの記載によれば「「最後で最大の宗教戦争」ともいわれ、ドイツの人口の20%を含む800万人以上の死者を出し、人類史上最も破壊的な紛争の一つ」とされます。
 自分たちは正しい。それは理解している。しかしながらそれをそのまま推し進めると犠牲が大きいことも、「三十年戦争」で痛いほど理解したわけです。だからとりあえずの「次善の策」として、つまり妥協として選ばれるのが「関係」の思想ということになります。
 こうして制定されたのがウェストファリア条約で、これが国際法というものにつながることになります。西洋諸国もそれぞれの国がそれぞれの「内在」の思想で突き進んだわけですが、そこで痛い目に遭うことになり「関係」の思想というものを学んだというわけです。

◇日本における関係の発見
 日本の開国はペリーの黒船来航(1853年)から始まるとされていますが、加藤氏は幕末という時代はアヘン戦争(1840年)を機に始まるとしています。それまでの中国文明下における朱子学の世界とは別の世界に、日本が投げ入れられることになったわけです。そこで日本が初めて知ったのが、国際法というものになるわけです。これこそが「関係」の思想ということになります。そこでそれまでのルールが通用しないことに日本は驚いたわけです。
 そして、同じようなことは1920年代にも起きているとされます。西洋諸国のルールではそれまでの植民地獲得は当然のものとなっていました。ところが獲得するべき植民地には限りがあるわけで、次第に問題が生じてきます。すると今度は植民地などまかりならんということにルールが変わることになります。日本はそんなルールの変化に対応できずに孤立していきました。その孤立は1945年の敗戦へとつながるわけです。脱亜入欧をスローガンとして西洋諸国の仲間入りをしようとしていた日本は、突然のルール変更にぶち当たったということになります。
 加藤氏が言わんとしていることは、西洋諸国のルール変更が酷いという点ではなく、「内在」の思想は必ず「関係」の思想にぶつかるということです。日本の思想家たちが躓いたのも、この点だったということになります。

◇二様の死者
 ここから先は加藤氏が明示的に書いているわけではない部分も含みますので、僕の勝手な解釈ということになります。
 『敗戦後論』で一番議論を呼んだのは、「二様の死者」という「ねじれ」でした。これに関して加藤氏は『日本人の自画像』で直接触れているわけではありません。ただ、「内在」の思想と「関係」の思想というアイディアを提出し、「関係」の思想の必然を論じつつも、同時に「内在」の思想の重要性を説いている部分には『敗戦後論』とのつながりを感じました。加藤氏が福沢諭吉の「瘦我慢の説」に準拠しつつ論じていることは、「内在」の思想をおろそかにすると大切なものが脱落するということです。
 加藤氏は『敗戦後論』の後に書いた『日本の無思想』『戦後的思考』という著作においても、ハンナ・アーレントの議論などを通じて「公」と「私」の関係性や、私利私欲に基づいた「公共性」というものを論じています。これを『日本人の自画像』の議論と関連させれば、「内在」の思想は「私」というものに通じるでしょうし、「関係」の思想は「公」や「公共性」というものに通じているでしょう。
 『日本の無思想』や『戦後的思考』での議論でも、加藤氏は「公」よりも「私」というものの方が大きいとします。そして、「公共性」というものは、本来対立すると思われている「私」とか私利私欲といったものに基づいて構築されていかなければならないとしました。そうでなければ現実に即したものにならないと考えていたからなのでしょう。加藤氏がこんなふうに「公」と「私」の関係性を考え続けていたのは、『敗戦後論』において自国の死者を先に置くと論じたことともつながっているように感じてしまうのは考えすぎでしょうか。
 実は加藤氏はすでに亡くなられたのだそうです。昨年『日本人の自画像』を初めて読んだ時にはそれを知りませんでした。最後は憲法9条に関して詳しく調査しておられたようで、意志を受け継いだ人たちによって9条関係の著書がいくつも出版されたようです。これは『敗戦後論』で展開していた、憲法9条を選び直すということを、さらに精緻に進めることになるんじゃないかと推測しています(まだ時間がなくて読めてませんが)。加藤氏の代表的な著作とされる『敗戦後論』ですが、その後の加藤氏の著作も『敗戦後論』に書きつくせなかったことを考え続けてきたもののようにも感じました。

増補改訂 日本の無思想 (平凡社ライブラリー)


戦後的思考 (講談社文芸文庫)


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『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンII』 慈悲はどこから?

2020.04.29 19:39|宗教
 ふたりの禅宗の僧侶(藤田一照氏と山下良道氏)と、哲学者である永井均氏が鼎談したのが『〈仏教3.0〉を哲学する』でした。この本はその続編のような位置づけとなっています。

〈仏教3.0〉を哲学する バージョンII



 本書は前著の議論を受け継ぎつつ展開していくことになりますから、なるべくなら前著を読んでおいたほうがわかりやすいかもしれません。ちなみに、「〈仏教3.0〉とは何か」ということを、本書でのまとめ方から説明しておくと、まずは〈仏教1.0〉は本来的なことばかり言っている仏教ということになります。本来的に人間は仏になれる云々といったものですが、悟りに至るための方法論が欠けているようです。
 次の〈仏教2.0〉というのはアメリカなどで実践されてきたもので、プラグマティックと言っていいのかもしれません。ここでは本来的云々の話はなく、現実社会で役に立つものとして、瞑想の方法論が確立されています。「マインドフルネス」と言われるものがそのいい例だとされます。
 〈仏教1.0〉は本来的なことばかりに偏り、〈仏教2.0〉は現実的なことだけになってしまっている。どちらも忘れていることがあるんじゃないか、というのが本書のふたりの僧侶の考え方で、これまでの仏教を乗り越えるような新しい仏教を〈仏教3.0〉と名付けたということになります。

 前著でもいまひとつ理解できなかった部分が本書によってすんなりわかるようになるというわけではありません。というのも自分は瞑想というものを実践しているわけでもないので、その辺の理解が足りないのかもしれません。それでも何となく興味だけはあってこの本にも手を出したわけですが、個人的に「慈悲の瞑想」を巡ってのふたりの僧侶の考え方の違いが興味深いものに感じました。
 「慈悲の瞑想」というのは、「ヴィパッサナー瞑想」をする際に、セットとして行われることになっているようです。「ヴィパッサナー瞑想」が物事をあるがままに観察するという意味合いで、瞑想らしいものと感じられるわけですが、それとセットになっている「慈悲の瞑想」というものが、「私は幸せでありますように」から始まって「生きとし生けるものが幸せでありますように」と唱えるものであることが不思議にも感じました。瞑想というよりは、祈りの言葉のようにも思えるからです。
 もともと悟りというものは個人的なものなのでしょう。だからこそそれを他人に伝えることは途轍もなく難しい。「梵天勧請」のエピソードにもあるように、最初はゴータマ・ブッダも悟りを広めることを躊躇ったともされています。本書では永井氏が触れていることですが、「沈黙の仏陀」と言われる「パッチェカブッダ」の存在もあるわけですが、そんななかでゴータマ・ブッダだけは人々にそれを伝道することを選択したことになるわけですが、そこに関わってくるのが「慈悲」ということになるのだと思います。

 本書でふたりの僧侶(藤田一照氏と山下良道氏)の見解が分かれるように見えるのは、瞑想における慈悲との関わりです。本書では内山興正老子というふたりの師匠筋に当たる人が書いた「自己曼画」というものが前作に続いて参照されています。「自己曼画」は内山興正老子の著作『進みと安らい: 自己の世界』に詳しく掲載されているようです。

第一図 屁一発でも貸し借り,ヤリトリできぬ自己の生命
第二図 各々のアタマはコトバによって通じ合う
第三図 コトバによって,通じ合う世界がひらかれる
第四図 アタマが展開した世界の中に住む人間
第五図 アタマが展開する世界の根本には「わが生命」があったのだ!
第六図 「ナマの生命体験」と,「ナマに生命体験される世界」と,それぐるみの自己


〔新装版〕進みと安らい??自己の世界



 この言葉だけを見てもわかりづらいわけですが、通常の現実世界は第四図のことを指しています。ここでは人々は欲望に駆られ、何かを追ってみたり何かから逃げようとしたり、主義や主張によってグループを形成しようとします。しかしこの状況はキツいわけで、そこから瞑想によって抜け出すことが仏教の教えということになります。そして、そこから抜け出した段階が第五図と言えるかもしれません。ここでは第四図の状態が虚妄であり、頭が作り出した幻想だと気づくことになります。
 この第四図から第五図への移行の部分が何度も議論に上がるところで、良道氏は第五図はメタの位置に立つのではなく、別の世界へと出ることなのだと言いますが、一照氏は「出る」というのは言い過ぎなんじゃないかと反論します。
 ふたりの違いは永井氏の整理によれば、超越的でプラトン的なのが良道氏で、哲学者として超越論的でカント的なのが永井氏、現実の大地から離れない一照氏はアリストテレス的ということになります。
 良道氏は第五図の位置には慈悲が備わっているのだと主張するのですが、なぜ突然慈悲が出てくるのかと一照氏は問いかけます。しかし、ここでも永井氏の助けによってふたりの見解の相違が整理されることになります。
 第四図では人間たちは欲望に駆られ何かを追い求め、他人に対して常に嫉妬を覚えるような状態にあります。しかし瞑想によって第五図に到達することができれば、そうした欲望や嫉妬からも自由になることができます。今まで第四図の時にネガティブな状態にあったものが、第五図に至りそれが消えると、他者に対してもっとフラットに向き合えることになり、それが慈悲のように感じられるということではないだろうか。永井氏がそんなふうにまとめると、一照氏も、「自己中心性、自己愛のようなものが消えている状態が慈悲だと言われるのなら受け止められます。(p.243)」と語り、ふたりの僧侶の間に生じていた溝が解消されたようです。僕自身も「慈悲の瞑想」が「ヴィパッサナー瞑想」とセットとして実践されている意味合いがようやく理解できたようにも感じられました。

『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』 真理は自分で見つける?

2019.02.26 20:43|哲学
 著者はイェール大学の教授のシェリー・ケーガン
 ちなみに原書はもっと大部なもののようで、日本版はその後半部分を訳したものとのこと。前半の形而上学の部分は飛ばして、後半の価値論の部分のみとなっています。

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義



 タイトルにあるように「死」とは何かということについての講義録です。講義録だから語りかけるように書かれていて平易な文章となっていますが、その一方では厳密な書き方になっていると思います。
 著者は自分が考える死というものを説明し、読者に納得してもらおうと試みています。そこで著者の立場を整理しておけば、著者は魂のような存在を認めてはいません。われわれは身体がすべてであって、良くも悪くも死んでしまえば一巻の終わりということになります。また、ごく一般的に言えば死は悪いものとされていますが、では逆に不死が良いものであるかと言えばそうではないだろうというのが著者の見解です。

 厳密な書き方というのは、あくまで論理的に物事を検討していくというところです。たとえば著者は「誰もが独りで死ぬ」という主張について分析しています。普段の会話のなかでそんな主張がなされたならば、聞かされたほうとしては「まあ、そうだよね」とでも返すほかないような主張かもしれませんが、よく考えてみればこの主張はおかしいことがわかります。
 実際には病院のベッドの上で医者や家族に見守られて死ぬということもあるからです。ただ、この主張は死ぬとき孤独死の状態にあるということを言わんとしているわけでもないでしょう。おそらく「死んでいくのは自分であって、ほかの人ではない」ということを言わんとしているのだろうと思われます。しかし、それは死ぬこと以外だって同じです。自分がお腹が空いたとしたら、自分が食べなくてはならないわけで、隣の人が食べてくれれば空腹が満たされるわけではありません。食べるときだって独りとも言えるわけで、死ぬときだけが特別なことではありません。そんな意味で「誰もが独りで死ぬ」という言い方は、何かを言ったつもりになっているだけだというのです。
 著者はそうした厳密なやり方で死というものを考えていきます。死とはなぜ悪いのか。どんなふうに生きるべきか。自殺が合理的な行動と言える場合があるか、などなど。その結論に関して言えば、最初から「宗教的な権威には訴えない」と断っていたように、まったく突飛なものはありません。著者の論理に沿って進んで行けば、その結論には納得せざるを得ません。それでも真っ当すぎて凡庸なところに行き着いたようにも感じられました。というのも、この本を読み始めて直感的に考えていたところとさほど違いないところだったからです。とはいえ時に脇道に逸れながら、一つ一つ考え得る反論を潰しつつたどり着いたところでもあり、直感的にぼんやりと思い描いていたことよりも明確になったとは言えるかもしれません。
 著者もそうした意見は予想していたのか、最初にこんなふうにも記しています。

大切なのは、みなさんが自ら考えることだ。突き詰めれば、私がやろうとしているうちで最も重要なのは、死をしっかりと凝視し、私たちのほとんどがけっしてしないような形で死と向き合い、死について考えるよう促すことだ。(p.20)


 そんな意味ではとても誠実な本ということも言えるのかもしれませんが、気になることもあります。この本の裏表紙には「余命宣告をされた学生が“命をかけて”受けたいと願った伝説の講義」とあるのですが、この学生は実際に講義を受けてみてどう感じたのでしょうか。本のなかでは彼はイェール大学の学位を授与されて死んでいったともあり(P.213~214)、感動的なエピソードではあります。それでも彼はもっと決定的な答えを期待していたのではないかとも思ってしまいます。これまで先人の誰もが気づいていなかったような何か、たとえば「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」とでも言えるようなことを……。
 ただ冷静に考えてみれば、一言ですべて納得できるような真理なんてものがあったとしたら、かえって眉唾物とも言えるかもしれません。そんな意味ではやはりこの本の結論のように、堅実でありきたりでわかりきった材料で自分なりの納得の仕方を見つけるほかないというところに落ち着くのかもしれません。

『根源への旅: 神話・芸術・風土』 ギリシアに思いを馳せつつ

2019.02.04 20:23|哲学
 著者の立野正裕氏は明治大学文学部名誉教授とのこと。
 この本の出版は昨年の6月ですが、収録されている文章は1970年代から80年代にかけて書かれたものとのこと。

根源への旅: 神話・芸術・風土



 僕はこの本の第一部の「根源の人間」という部分が気になって何度か読み返したのですが、ここで論じられているのはニーチェが発したとされる問題です。それは「人間は存在する。だがなんの意味もない。存在は無である。この無をどのようにして人間は耐えるのか。」(p.29)というものですが、いつの間にかにこの第一部をニーチェの『悲劇の誕生』の注釈のように読んでいました。というのもニーチェが『悲劇の誕生』で書いたことを、より丁寧に言葉を補って書かれているように感じられたからです。
 ニーチェの文章は論理の飛躍があったり比喩的な表現が多用されるために、豊富な知識にも感受性に欠けるごく普通の読者としては煙に巻かれてしまう部分もあります。しかし「根源の人間」には、ニーチェが読者が当然知っているべきこととして書かないような部分も説明されていて、「根源の人間」を読んでから『悲劇の誕生』に戻ると、ニーチェの難解な文章も多少はわかりやすくなるような気がします。
 たとえば「シレノスの叡智」に関することは、僕が読んだ中公クラシックス版の「『悲劇の誕生』(西尾幹二訳)では23pから26pあたりに書かれていますが、「根源の人間」のほうにはこんなふうに説明されています。

 ギリシア人は、シレノス的ペシミズムに圧倒されて打ちひしがれた人生を送るためには、あまりにも生本能の強烈な民族であった。かといってシレノス的認識をなかったものにしてしまうためには、かれらの洞察力はあまりにも透徹しすぎていた。そこから、生きたいという欲求と生の無意味さの認識とのあいだに抜きがたい矛盾が生まれる。この矛盾が募り募って、ついにことがらを逆転させるにいたった。すなわちギリシア人はあろうことか、シレノスの認識を逆転させてしまった。
 「人間にとって最善のこと、それはこの世に生を享けぬことだ。人間にとって次善のこと、それは享けた生をすみやかに捨て去ることだ」というこの定式は、いまや次のように書き換えられる。「人間にとって最悪のこと、それは必滅の運命を免れないということだ」
 ここから生への執着が一挙に正当化される。 (p.84~p.85)


 もちろん「根源の人間」に書かれているのはニーチェの注釈だけではありません。ウィキペディアによれば『悲劇の誕生』は「造形芸術をギリシャの神アポロン、音楽芸術をディオニュソスに象徴させ、悲劇(および劇文学)を両者の性質をあわせ持った最高の芸術(文学)形態であるとした」などと要約されます。
 このアポロン的原理とディオニュソス的原理の対立が、「根源の人間」では様々な別の対立で言い換えられていきます。たとえばこの関係はアポロンの竪琴と牧羊神パーンの縦笛の対立にも表れています。というのもパーンとディオニュソスには密接な関係があり、サテュロスたちと同様にディオニュソスの従者であるからです(先ほどのシレノスも同様です)。さらにドーリス的なものとプリュギア(またはトラキア)的なものの対立、つまりはギリシア的なものと非ギリシア的なものとの対立であることが読み解かれていきます。
 ここで竪琴と縦笛の対立というように音楽の話になっているのは、『悲劇の誕生』も正式なタイトルは「音楽の精神からの悲劇の誕生」だからなのでしょう。それからあらゆる芸術において秀でていたギリシアも器楽だけは発達しなかったのはなぜかという問いに対しては、音楽は魂に直接働きかけるから為政者たちが封じ込めた可能性があると推測するあたりはとてもスリリングだったかと思います。
 立野正裕氏の本は初めてだったのですが、映画の本なんかも書いているようですので、そちらのほうも気になるところです。

悲劇の誕生 (中公クラシックス)


悲劇の誕生―ニーチェ全集〈2〉 (ちくま学芸文庫)


『ある世捨て人の物語: 誰にも知られず森で27年間暮らした男』 人類からの難民

2019.01.05 17:33|その他
 著者はマイケル・フィンケル。翻訳者は宇丹貴代実
 原題は「The Stranger in the Woods:The Extraordinary Story of the Last True Hermit」となっています。
 まずは著者のことについて触れておきますと、マイケル・フィンケルはジャーナリストで、ニューヨーク・タイムズで記事を書いていた人物です。しかし、ある記事が捏造であったことが判明し、ニューヨーク・タイムズを解雇されてしまいます。
 その後、彼はクリスチャン・ロンゴという殺人犯が逮捕されたときに“マイケル・フィンケル”と名乗っていたことを知り、そのロンゴとのインタビューによって『トゥルー・ストーリー』という本を書き、この本は映画化もされています。この映画版は日本では劇場公開されていませんが、NetflixやAmazonビデオなどで観ることができます。この映画は著者と取材対象との関係性がテーマとなっていて、『ある世捨て人の物語』を読む上でも参考になるかもしれません。

ある世捨て人の物語: 誰にも知られず森で27年間暮らした男



 “世捨て人”というのは翻訳者が選んだ言葉ですが、うっとうしい社会から逃れて自由に過ごしたいと思うのは当たり前のことで、“世捨て人”に魅力を感じる人は多いのかもしれません。僕自身もそこに興味を抱いてこの本を手に取りました。
 この本のタイトルには“物語”とありますが、実際にはノンフィクションであり、副題にもあるように森のなかで27年間も過ごした男についての話となっています。その男、クリストファー・トーマス・ナイトは、アメリカのメイン州の森で社会から背を向けて生きていたのです。ナイトがどうやって生計を立てていたかと言えば、彼が暮らしていた森の近くにある別荘に侵入して、食料や生活に必要な細々としたものを盗み出していました。
 ナイトが暮らしていたノースポンドという湖の周辺は、夏場の別荘地として知られる場所とのこと。メイン州はカナダとの国境に接する場所にあって、かなり寒い場所。冬場はマイナス30度にもなる場合もあるのだとか。そんな場所だから多くの人は森に住む隠者の存在を伝説として受け止めてはいても、本当に森のなかに暮らしているとは思っていなかったようです。

 著者のマイケル・フィンケルが興味を持ったのは、長きにわたって盗みを繰り返していた盗人としてのナイトではなく、隠者(hermit)としてのナイトのほう。なぜ社会に背を向けて孤独に生きていたのかという部分です。
 宗教における隠者は、キリスト教や仏教などでも過去に多く存在しましたし、東洋では仙人という存在がそれに近いイメージを持つのかもしれません。こうした隠者は深遠なる真理に近いところにいるのかもしれない。そんな思いもあって著者はナイトという人物に接触を試みます。
 実際のナイトは宗教とは縁遠い人物で、森のなかにこもることになった明確な理由はないとのこと。それでも寒さで凍え死にそうになりながらも決して社会と接触しようとはしなかったというのは、余程の覚悟がなければできないことにも思えます。ちなみにナイトは家庭に問題を抱えていたわけではありません。人付き合いが得意ではない内向的な人物ではあるように思えますが、これほどの長い間孤独で過ごすのはかなり異常とも言えます。
 ナイトが27年の間に人と直接的に接触したのは、偶然に森で遭遇してしまった2回のみであって、そのほかは一切誰とも接触していないのです。著者は刑罰において死刑以外で最もつらい刑罰が独房拘禁だと言います。そして孤独の状態が長く続くことは狂気を呼び寄せる場合があることに関しても、いくつかの例を挙げています。ナイトはそんな孤独のなかで過ごしつつも精神を病むこともなく、森での生活を再び望んでいるようでもあります。
 ナイトは読書をすることを好み、盗みに入った別荘で手に入る本を片端から読んでいましたが、それ以上に何をしていたかと言えば、瞑想というかあれやこれやを考えていて、それで飽きるということがなかったということです。

 森のなかで自分の身に起きたことは説明しがたい、とナイトはきっぱりと言った。だが、まやかしの知恵や禅宗の公案もどきになる不安を脇へおいて、やってみると言ってくれた。「複雑なんだ。孤独は貴重なものを増大させる。それは否定できない。孤独は自分の知覚を増大させてくれた。だが一筋縄ではいかない。その増大した知覚を自分に向けたら、アイデンティティーが消えた。聴衆、つまり何かをやってみせる相手はひとりもいない。自己を規定する必要がない。自分は無意味になったんだ」
 自分自身と森を分かつ線が消滅したように感じた、とナイトは言う。孤独はいわば霊的な交わりのようなものだ。「願望が消え去った。何ひとつ欲しいとは思わなかった。自分の名前すらなくなった。ロマン派的な表現をするなら、完全に自由だったんだ」 (p.163)


 上記の文章を読むと仏教の悟りの境地にいるようにも感じられます(ナイト本人はそれとは異なると考えていたのかもしれませんが)。とはいえ、ナイトはそうしたことを誰かに知らせようとしたり、何か物を書いたりといったことはしていませんし、そんなことをする必要を感じていません。こうした文章が世に出るのもマイケル・フィンケルという著者がしつこくナイトに問いかけて引きずり出してきたからです。
 結局、ナイトは盗人として逮捕され、実家に戻され、保護観察という社会の監視下に置かれることになります。徹底的に世のなかから背を向けようとしても、どうしても人は独りでは生きられないということなのでしょう。仏教は地域社会からのお布施で修行することになっていますし、そのほかの隠者が居たとしても誰かの助けを借りなくては生きていけません。ナイトは最後に著者に自殺を仄めかしたことも書かれていますが、面倒な社会でやっていくことも大変ですが、世を捨てることもやはり簡単ではないようです。
 著者はナイトのことを“人類からの難民”(p.207)とも呼んでいます。“世捨て人”が捨てるのも、世の中というよりも人との交わりのほうであるわけで、そういう人間が避難するべきところはこの世界にはないのかもしれません。

トゥルー・ストーリー (字幕版)