『死者との邂逅 西欧文学は死をどうとらえたか』 ラムジー夫人の死の場面でウルフが意識していたのは?
2015.06.28 15:26|文学|
著者は専修大学文学部の教授とのこと。これまでの研究の成果を素人にもわかりやすく解説してくれています。

序文に引用されている印象的な詩です。この詩のイメージがこの本の通奏低音のようになっているようにも思えます。これはバーナード・オドナヒューという人の「テル・コナートゥス(三たび試みて)」という詩ですが、この題名がラテン語なのは、この詩が古代ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネーイス』を踏まえているからです(実はその『アエネーイス』もさらに前のホメロスの『オデュッセイア』を模倣したもの)。
『オデュッセイア』や『アエネーイス』は、冥界で愛する人と遭遇し、愛しさゆえに抱擁しようとすると、その腕は愛する人の身体をすり抜けてしまいます。バーナード・オドナヒューの詩は、現代の農村が舞台で、共に酪農を営む姉弟の死別が描かれます。病に蝕まれていく姉に弟は手を貸そうと三たび試みるわけですが、「そんな仕草に慣れていなかったので」手を引っ込めてしまうという情景が悔恨の念を誘います。
『オデュッセイア』や『アエネーイス』の場合は生者と死者の邂逅の場面ですが、「テル・コナートゥス」の場合は死別する前の場面です。著者は「現代においてはもはや、生きて肉体を備えた者同士でしかコミュニケーションは成り立たないことを示している」(p.8)と言います。この本は西欧文学史のなかに繰り返し登場する死別の場面に注目して、それぞれの時代の死生観の違いを考察したものです。
取り上げられる作品は、古代・中世ではダンテの『神曲』やボッカッチョ、近代では『ハムレット』『クリスマス・キャロル』、現代ではウルフ『灯台へ』やジョイスやプルーストなどです。
『オデュッセイア』の時代には死後の世界は存在するものの、「死者は等しく空しい存在となる」(p.19)と考えられていたようです。『アエネーイス』や『神曲』の時代には冥界がもっと具体的なイメージで描かれているように思えます。特に中世のカトリックの教えである煉獄というものの存在がそうです。著者によれば、煉獄の特徴は「現世との結びつきの強さ」にあり、「現世の人々の助力により、浄罪の期間を短縮されたり、その苦痛を軽減されたりすると考えられ、それゆえ死者は生者とひとつの聖なる共同体をなしているとされた」(p.108)のだとか。
それが近代の『ハムレット』のころになると、変わってくるようです。ハムレットの前に姿を現す亡霊は煉獄から出現するものとされていましたが、宗教改革を経てイギリスではカトリックの教えである煉獄の存在も否定されます。そうなると最後の審判が下るまでは、「眠っている」という考え方も登場します。
こんなふうにハムレットにとっては死後の世界は明確ではありません。来世は「未知の国」となったというわけです。『ハムレット』は主人公の死で終わります。死後の世界への言及はほとんどありません。中世においては、死後魂が救われるかどうかが問題だったと言いますが、近代では死そのものが悲劇的と捉えられるようになったようです。著者は「死の終局性によって、近代悲劇は誕生した」(p.130)と記しています。
さらに現代のヴァージニア・ウルフの『灯台へ』では、来世そのものがないような世界観になっていきます。『灯台へ』のラムジー夫妻はウルフの父と母がモデルとなっています。父レズリーは不可知論者として死者の復活に慰めを見出したりせず、その悲しみを引き受けることを潔しとしました(これは逆に言えば、復活に慰めを見出さない分、死別のショックともろに向き合うことにもなったようです)。
この時代は、ダーウィン『種の起源』も登場するなどして、神がすべてを創世したとか、死者の復活を素朴に信じられるほど人々も無知蒙昧でなかったわけですが、一方で様々な病を根絶するほど医療が進歩していたわけではありません。その分、抵抗力のない子供たちは簡単に死んでいくような時代だったわけで、不可知論者として生きていくことはきついことだったと思われます。ウルフが創造したラムジー夫人も不可知論者として、何げない日常の家族の交流の瞬間に永遠性を見出すほかありません。
僕は『灯台へ』が好きで何度か読んでいるのですが、現代のわれわれもそうした死生観のなかにいるわけで、共感させられる部分があるのかもしれません。ちなみに著者によれば、ラムジー夫人の死の場面や、ラムジーが三たび靴ひもを結び直すという場面に『アエネーイス』の影響が見られるということです。登場人物がウェルギリウスを読んでいるあたりにも仄めかされているわけで、なるほどと納得させられました。著者・道家英穂氏の20年来の成果とのことで学ぶことの多い本だと思います。
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三たび、そんなふうに、弟は手を差し伸べようとした。
だけど、そんな仕草に慣れていなかったので、
三たびとも手は下ろされて元の位置に戻り、
そのまま脇から動かなかった。
序文に引用されている印象的な詩です。この詩のイメージがこの本の通奏低音のようになっているようにも思えます。これはバーナード・オドナヒューという人の「テル・コナートゥス(三たび試みて)」という詩ですが、この題名がラテン語なのは、この詩が古代ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネーイス』を踏まえているからです(実はその『アエネーイス』もさらに前のホメロスの『オデュッセイア』を模倣したもの)。
『オデュッセイア』や『アエネーイス』は、冥界で愛する人と遭遇し、愛しさゆえに抱擁しようとすると、その腕は愛する人の身体をすり抜けてしまいます。バーナード・オドナヒューの詩は、現代の農村が舞台で、共に酪農を営む姉弟の死別が描かれます。病に蝕まれていく姉に弟は手を貸そうと三たび試みるわけですが、「そんな仕草に慣れていなかったので」手を引っ込めてしまうという情景が悔恨の念を誘います。
『オデュッセイア』や『アエネーイス』の場合は生者と死者の邂逅の場面ですが、「テル・コナートゥス」の場合は死別する前の場面です。著者は「現代においてはもはや、生きて肉体を備えた者同士でしかコミュニケーションは成り立たないことを示している」(p.8)と言います。この本は西欧文学史のなかに繰り返し登場する死別の場面に注目して、それぞれの時代の死生観の違いを考察したものです。
取り上げられる作品は、古代・中世ではダンテの『神曲』やボッカッチョ、近代では『ハムレット』『クリスマス・キャロル』、現代ではウルフ『灯台へ』やジョイスやプルーストなどです。
『オデュッセイア』の時代には死後の世界は存在するものの、「死者は等しく空しい存在となる」(p.19)と考えられていたようです。『アエネーイス』や『神曲』の時代には冥界がもっと具体的なイメージで描かれているように思えます。特に中世のカトリックの教えである煉獄というものの存在がそうです。著者によれば、煉獄の特徴は「現世との結びつきの強さ」にあり、「現世の人々の助力により、浄罪の期間を短縮されたり、その苦痛を軽減されたりすると考えられ、それゆえ死者は生者とひとつの聖なる共同体をなしているとされた」(p.108)のだとか。
それが近代の『ハムレット』のころになると、変わってくるようです。ハムレットの前に姿を現す亡霊は煉獄から出現するものとされていましたが、宗教改革を経てイギリスではカトリックの教えである煉獄の存在も否定されます。そうなると最後の審判が下るまでは、「眠っている」という考え方も登場します。
生か死か、それが問題だ。
どちらが気高いと言えようか、
心のなかで、暴虐な運命の投石や矢にじっと耐えることか、
押し寄せる苦難に武器をとって
立ち向かい、けりをつけることか。死ぬ――眠る、
それだけのことだ。
(中略)
眠る、おそらくは夢を見る――そこだ、つまずくのは。
この世のしがらみを脱ぎ捨てても
死の眠りのなかでどんな夢を見るかわからない。
こんなふうにハムレットにとっては死後の世界は明確ではありません。来世は「未知の国」となったというわけです。『ハムレット』は主人公の死で終わります。死後の世界への言及はほとんどありません。中世においては、死後魂が救われるかどうかが問題だったと言いますが、近代では死そのものが悲劇的と捉えられるようになったようです。著者は「死の終局性によって、近代悲劇は誕生した」(p.130)と記しています。
さらに現代のヴァージニア・ウルフの『灯台へ』では、来世そのものがないような世界観になっていきます。『灯台へ』のラムジー夫妻はウルフの父と母がモデルとなっています。父レズリーは不可知論者として死者の復活に慰めを見出したりせず、その悲しみを引き受けることを潔しとしました(これは逆に言えば、復活に慰めを見出さない分、死別のショックともろに向き合うことにもなったようです)。
この時代は、ダーウィン『種の起源』も登場するなどして、神がすべてを創世したとか、死者の復活を素朴に信じられるほど人々も無知蒙昧でなかったわけですが、一方で様々な病を根絶するほど医療が進歩していたわけではありません。その分、抵抗力のない子供たちは簡単に死んでいくような時代だったわけで、不可知論者として生きていくことはきついことだったと思われます。ウルフが創造したラムジー夫人も不可知論者として、何げない日常の家族の交流の瞬間に永遠性を見出すほかありません。
僕は『灯台へ』が好きで何度か読んでいるのですが、現代のわれわれもそうした死生観のなかにいるわけで、共感させられる部分があるのかもしれません。ちなみに著者によれば、ラムジー夫人の死の場面や、ラムジーが三たび靴ひもを結び直すという場面に『アエネーイス』の影響が見られるということです。登場人物がウェルギリウスを読んでいるあたりにも仄めかされているわけで、なるほどと納得させられました。著者・道家英穂氏の20年来の成果とのことで学ぶことの多い本だと思います。
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