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『ある世捨て人の物語: 誰にも知られず森で27年間暮らした男』 人類からの難民

2019.01.05 17:33|その他
 著者はマイケル・フィンケル。翻訳者は宇丹貴代実
 原題は「The Stranger in the Woods:The Extraordinary Story of the Last True Hermit」となっています。
 まずは著者のことについて触れておきますと、マイケル・フィンケルはジャーナリストで、ニューヨーク・タイムズで記事を書いていた人物です。しかし、ある記事が捏造であったことが判明し、ニューヨーク・タイムズを解雇されてしまいます。
 その後、彼はクリスチャン・ロンゴという殺人犯が逮捕されたときに“マイケル・フィンケル”と名乗っていたことを知り、そのロンゴとのインタビューによって『トゥルー・ストーリー』という本を書き、この本は映画化もされています。この映画版は日本では劇場公開されていませんが、NetflixやAmazonビデオなどで観ることができます。この映画は著者と取材対象との関係性がテーマとなっていて、『ある世捨て人の物語』を読む上でも参考になるかもしれません。

ある世捨て人の物語: 誰にも知られず森で27年間暮らした男



 “世捨て人”というのは翻訳者が選んだ言葉ですが、うっとうしい社会から逃れて自由に過ごしたいと思うのは当たり前のことで、“世捨て人”に魅力を感じる人は多いのかもしれません。僕自身もそこに興味を抱いてこの本を手に取りました。
 この本のタイトルには“物語”とありますが、実際にはノンフィクションであり、副題にもあるように森のなかで27年間も過ごした男についての話となっています。その男、クリストファー・トーマス・ナイトは、アメリカのメイン州の森で社会から背を向けて生きていたのです。ナイトがどうやって生計を立てていたかと言えば、彼が暮らしていた森の近くにある別荘に侵入して、食料や生活に必要な細々としたものを盗み出していました。
 ナイトが暮らしていたノースポンドという湖の周辺は、夏場の別荘地として知られる場所とのこと。メイン州はカナダとの国境に接する場所にあって、かなり寒い場所。冬場はマイナス30度にもなる場合もあるのだとか。そんな場所だから多くの人は森に住む隠者の存在を伝説として受け止めてはいても、本当に森のなかに暮らしているとは思っていなかったようです。

 著者のマイケル・フィンケルが興味を持ったのは、長きにわたって盗みを繰り返していた盗人としてのナイトではなく、隠者(hermit)としてのナイトのほう。なぜ社会に背を向けて孤独に生きていたのかという部分です。
 宗教における隠者は、キリスト教や仏教などでも過去に多く存在しましたし、東洋では仙人という存在がそれに近いイメージを持つのかもしれません。こうした隠者は深遠なる真理に近いところにいるのかもしれない。そんな思いもあって著者はナイトという人物に接触を試みます。
 実際のナイトは宗教とは縁遠い人物で、森のなかにこもることになった明確な理由はないとのこと。それでも寒さで凍え死にそうになりながらも決して社会と接触しようとはしなかったというのは、余程の覚悟がなければできないことにも思えます。ちなみにナイトは家庭に問題を抱えていたわけではありません。人付き合いが得意ではない内向的な人物ではあるように思えますが、これほどの長い間孤独で過ごすのはかなり異常とも言えます。
 ナイトが27年の間に人と直接的に接触したのは、偶然に森で遭遇してしまった2回のみであって、そのほかは一切誰とも接触していないのです。著者は刑罰において死刑以外で最もつらい刑罰が独房拘禁だと言います。そして孤独の状態が長く続くことは狂気を呼び寄せる場合があることに関しても、いくつかの例を挙げています。ナイトはそんな孤独のなかで過ごしつつも精神を病むこともなく、森での生活を再び望んでいるようでもあります。
 ナイトは読書をすることを好み、盗みに入った別荘で手に入る本を片端から読んでいましたが、それ以上に何をしていたかと言えば、瞑想というかあれやこれやを考えていて、それで飽きるということがなかったということです。

 森のなかで自分の身に起きたことは説明しがたい、とナイトはきっぱりと言った。だが、まやかしの知恵や禅宗の公案もどきになる不安を脇へおいて、やってみると言ってくれた。「複雑なんだ。孤独は貴重なものを増大させる。それは否定できない。孤独は自分の知覚を増大させてくれた。だが一筋縄ではいかない。その増大した知覚を自分に向けたら、アイデンティティーが消えた。聴衆、つまり何かをやってみせる相手はひとりもいない。自己を規定する必要がない。自分は無意味になったんだ」
 自分自身と森を分かつ線が消滅したように感じた、とナイトは言う。孤独はいわば霊的な交わりのようなものだ。「願望が消え去った。何ひとつ欲しいとは思わなかった。自分の名前すらなくなった。ロマン派的な表現をするなら、完全に自由だったんだ」 (p.163)


 上記の文章を読むと仏教の悟りの境地にいるようにも感じられます(ナイト本人はそれとは異なると考えていたのかもしれませんが)。とはいえ、ナイトはそうしたことを誰かに知らせようとしたり、何か物を書いたりといったことはしていませんし、そんなことをする必要を感じていません。こうした文章が世に出るのもマイケル・フィンケルという著者がしつこくナイトに問いかけて引きずり出してきたからです。
 結局、ナイトは盗人として逮捕され、実家に戻され、保護観察という社会の監視下に置かれることになります。徹底的に世のなかから背を向けようとしても、どうしても人は独りでは生きられないということなのでしょう。仏教は地域社会からのお布施で修行することになっていますし、そのほかの隠者が居たとしても誰かの助けを借りなくては生きていけません。ナイトは最後に著者に自殺を仄めかしたことも書かれていますが、面倒な社会でやっていくことも大変ですが、世を捨てることもやはり簡単ではないようです。
 著者はナイトのことを“人類からの難民”(p.207)とも呼んでいます。“世捨て人”が捨てるのも、世の中というよりも人との交わりのほうであるわけで、そういう人間が避難するべきところはこの世界にはないのかもしれません。

トゥルー・ストーリー (字幕版)


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『文章が一瞬でロジカルになる接続詞の使い方』 基本的だがためになる

2017.07.04 20:40|その他
 著者の吉岡友治氏はシカゴ大学でロジカルな文章の書き方を学んできた人とのことで、企業などでライティングの指導などを行っているのだとか。

文章が一瞬でロジカルになる接続詞の使い方




 接続詞というものが文章のなかで重要な役割を果たしていることくらいは何となくわかりますが、それについてきちんと系統立てて学ぶこともなかったわけで、「順接」「逆接」といった違いのほかは、何となく感覚でものを書いていることも多かったわけですが、この本ではそのあたりがとても整理整頓されています。
 この本にも引用されていますが、谷崎潤一郎『文章読本』という本で接続詞を「無駄な穴埋めの言葉」と言っています。しかし、それは小説の文章のことです。それ以外の文章、たとえばこうしたブログの文章だってその一種ですが、情報や意見を伝える文章を書くときには接続詞というものが読者の道しるべになってわかりやすい文章になるのだと著者は言います。
 わかりきったことと言えばそうなのかもしれませんが、改めて整理されると「なるほど」と思う部分もあります。たとえば「一方……他方……」「それに対して」という接続詞にも違いがあって、前者は「似たものを比べる」ことで、後者は「比べることで両者の違いを強調する」のだそうです。これだけではわかりにくいですが、例文が具体的で理解の助けになります。辞書を引いてもこういった差異までは詳しくは載ってないんじゃないでしょうか。
 ロジカルに書くことについての本だけにとてもわかりやすく、接続詞の違いがまとめて一覧になっている部分もあったりしてためになります。自らの文章力のなさを痛感したりしている僕のような人は一度読んでみてもいいかもしれません。


【その他、最近読んで印象的だった本】

意志と表象としての世界〈1〉 (中公クラシックス)


意志と表象としての世界〈2〉 (中公クラシックス)


意志と表象としての世界〈3〉 (中公クラシックス)



 ショーペンハウアー「仏陀、エックハルト、そしてこの私は、本質的には同じことを教えている」と言っていたそうで、その辺が気になって手に取ったもの。
 かなり分厚い本で一度通読しただけではまともに読みきれているとも思えませんが、ニーチェやフロイトなどにも影響を与えたというだけあって独特な論を展開しています。われわれが見ている「現象」とその背後(?)にあって認識できない「物自体」とをカントは区別したわけですが、ショーペンハウアーはその「物自体」を「意志」と捉えます。
 生きとし生けるものすべてが「意志」ですし、宇宙の物理法則まで「意志」ということになります。われわれは個人として個体として生きているように考えていますが、僕という存在も、ほかの誰かも、その辺の動物なんかも「意志」を分有しているということになるのだろうと思います。「苦しみを与える者と、苦しみを受ける者とは同一である。」『意志と表象としての世界Ⅲ』p.107より)という部分に惹かれました。

『キェルケゴールの日記――哲学と信仰のあいだ』 日記という創作

2016.05.31 20:03|その他
 セーレン・キェルケゴールの日記について、鈴木祐丞氏が編集し翻訳したもの。

キェルケゴールの日記 哲学と信仰のあいだ



 キェルケゴールは「世界中でもっとも多量のインクを使った人」と称せられうるほどに多作な人だったとのことですが、そのなかの3分の1ほどが日記に費やされているそうです。この本はその膨大な日記のなかのほんの一部を抜粋したものです。編者は1884年の宗教的転機ということを中心に据えてこの本を整理しています。そして、それぞれの章ごとに日記と同じくらいの分量の詳細な解説がなされます。
 というのもキェルケゴールの日記は独自な言葉が使われていたりするために、キェルケゴールの研究者でもない素人が手当たり次第に読んでもわからないところがあるからです。その意味では解説を先に読んでから、日記に戻ったほうが最初はわかりやすいのかもしれません。
 たとえばこの日記には『誘惑者の日記』にも書かれていた「大地震」に関してより詳しく書かれている部分があります。

[…]大地震が起こったのはそのときだった。それは、すべての現象を解釈するための新たな誤ることのない法則を突然私に押し付けた、恐るべき変動であった。そのとき私が感づいたのは、父親の高齢が聖なる祝福ではなくてむしろ呪いであるということ、また、われわれ家族の者の例外的な精神的能力は、ただお互いを傷つけあうためだけに存在したのだということだった。父親の中に、われわれの誰よりも長生きしなければならない不幸な人を見たとき、彼が持っていた希望の墓の上に立つ墓標の十字架を見たとき、死の沈黙が私の周りに深まりゆくのを感じた。責めは家族みなに及ぶに違いない。神の罰は家族みなに降りかかるに違いない。私たちの家族は、神の全能の御手によって、消し去られてしまうことだろう。(p.43)


 これだけでは何が語られているのかよくわかりませんが、解説のほうにはキェルケゴールの父親ミカエルが少年時代に生活苦から神を呪ったというエピソードが示されているので、キェルケゴールの言う「大地震」というものが具体的に何を意味するのか明確になります。
 そのほかにも『誘惑者の日記』に登場するレギーネとの関係についてや、信仰のあり方についての葛藤などが追われていきます。ただ、キェルケゴールの日記は「ありのままの事実の記録とみなされるべきではない」(p.242)のだというのでちょっと混乱します。日記には通常なら書いた人の本心なり悩みなりが嘘偽りなく赤裸々に書かれるものと思いますが、キェルケゴールの場合は違うようです。
 日記ですから完全なフィクションではないようですが、キェルケゴールは出来事をリアルタイムでは書きつけてはいないようで、日記は彼によって再解釈され脚色された創作物ということになるようです。だからレギーネとのエピソードにも嘘が含まれているようですし、『死に至る病』の解説に書かれているようなキェルケゴールがせむしだったというような記載はどこにも見当たりません(「肉中の刺」という言葉はこの本にも出てくるのですが、それは「ルカによる福音書」に出てくる言葉として処理されています)。日記にはそうした自らの弱みについて書きそうなものですが……。
 そんなわけで創作として読むべきなのか日記として読むべきなのか迷ってしまうところもあるのですが、この日記に書かれている宗教的転機というものが何かしらドラマチックな構成をしていたとしても、キェルケゴールがそうした葛藤にあったことは事実なのだろうと思います。また、この本自体はキェルケゴールの特殊な用語――たとえば「反省のあとの直接性」「精神」「憂愁」などが丁寧に解説されてあったりもするので、キェルケゴールのほかの本の理解にも有用な本であると思います。

『性と進化の秘密』 生物の若返りの方法?

2015.12.27 17:57|その他
 この本を手に取ったのは、大澤真幸氏の連載「社会性の起原」に一部が引用されていたからです。大澤氏は以前『動物的/人間的 1.社会性の起原』という本も取り上げましたが、この連載は大澤氏の師匠である真木悠介氏の『自我の起原』を受け継ぎつつ進行中です。
 大澤氏は師匠の真木氏のその著作から、死すべきものであるということは「性的な個であることの宿命である」という箇所を引いています。その言葉を別のレベルで言い換えたものが、この『性と進化の秘密』という本に書かれていることだと思います。
 ただ大澤氏の引用の仕方は脚注のなかに独特な見解として取り上げられていたもので、生物学の一般的な学説ではないのかもしれません。『性と進化の秘密』の著者である団まりな氏は細胞についての専門家ですが、その研究によると細胞が意思を持って行動していないと説明できないことが多々見られるようです(『細胞の意思』という本も参照)。細胞が意思を持っているというような「擬人的考え方」で書くと、科学的でないとして怒られるそうですが……。団氏は未だ実験で明らかとなっていない部分に関しても大胆な推論を示しているところも多いため、通説とは異なる見解とされているのかもしれません。

性と進化の秘密 思考する細胞たち (角川ソフィア文庫)



 細胞には2つの種類があります。原核細胞(細胞膜の内側に核もその他の構造も持たない)と真核細胞(核膜で区分された核を持ち、ミトコンドリアなどを取り込んだりした一種の共生態)です。
 さらに真核細胞はハプロイド細胞ディプロイド細胞に分類することができます。ハプロイド細胞とはDNAのセットが1セットもので、ディプロイド細胞とは2セットのもののことです。ディプロイド細胞となると細胞が協同する能力が上がり、細胞間での役割分担が可能になり、多細胞生物が生まれることになりました。われわれが目にする生物は、人間も含めてディプロイド細胞の多細胞生物ということになります。

 さて、先ほどの性があるからこそ死があるという真木氏からの引用ですが、これはどういうことでしょうか? 団まりな氏によれば、細胞が分裂して一匹が二匹になることが一番原始的な「生殖」なのだと言います。単純な構造であるハプロイド細胞の場合、分裂しながら延々と生き続けることができます。ハプロイド細胞の場合、何らかの原因で消滅することはあっても、分裂した細胞すべてが元の細胞とまったく同じコピーなわけで、その意味では不死ということになるわけです。
 しかしディプロイド細胞の場合は分裂の回数に制限があります。一定の分裂回数を超えると死んでしまうのです。この難問を解決しているのが減数分裂を利用した有性生殖ということになります。

 ディプロイド細胞はDNAが2セットになっています。これはDNAが1セットのハプロイド細胞が合わさってできたものだからです。ディプロイド細胞は分裂回数の限界を乗り越えるために、一度ハプロイド細胞に階層を下げ、始めからやり直すことで分裂回数をリセットするのです(団氏によれば階層性というのは生物において重要な要素だとか)。
 ディプロイド細胞には2種類の分裂の仕方があり、一つは体細胞分裂であり、もう一つは減数分裂と呼ばれます。この減数分裂ではディプロイド細胞のDNAのセットを2セットから1セットに戻すということが行われます。つまりこれが配偶子(精子または卵)です。有性生殖で精子と卵が受精するとDNAが2セットのディプロイド細胞の状態になるわけですが、このときには細胞分裂の回数はリセットされて細胞が若返りを果たしています。
 ハプロイド細胞のときには不死だったのに、ディプロイド細胞となりオスとメスの配偶子での有性生殖をすることになると、親の個体と子の個体はまったく同じものではなくなるわけで、その意味において性があるからこそ死があるということになるわけです。
 また、一般的には精子と卵が持ち寄ったDNAからその組み換えが起きることが重要とされますが、団氏は「減数分裂の本質は、DNAの修復、つまり細胞の若返りであってDNAの組み換えは二次的につけ加えられたものではないか」(p.101)と考えているようです。

 人間の赤ちゃんは成熟した大人の細胞から生まれます。それなりに弱っているはずの大人の細胞も、卵と精子という配偶子を経てから生まれた赤ちゃんは、たしかに古い人間から生み出されたものと思えないくらい若返りを果たしています。これは考えてみれば不思議なことなのかもしれません。
 僕は普段はあまり生物学の本などは読まないのでよく理解できていない部分もありますが、それだけに色々と知らないも多くてためになりました(ハプロイド細胞とディプロイド細胞も初めて知りました)。著者の団氏は昨年亡くなられたそうで、これからの研究で明らかにされる部分も多かっただろうと思われるのに残念なことです。

細胞の意思―“自発性の源”を見つめる (NHKブックス)


『オオカミ少女はいなかった』 心理学におけるガラクタ掃除

2015.07.27 00:14|その他
 心理学は何となく胡散臭いものと感じられるところがあります。実際は否定されているにも関わらず何度も甦ってくる「神話」みたいなものがたくさんあるからです。この本は当の心理学者(鈴木光太郎)がそんなガラクタ掃除を試みたものです。
 軽い読み物ふうの題名となっていますが、中身は学術書寄りの部分もあるのかもしれません。参考文献が多数挙げられていますし、原典を当たることが大切だということを何度も述べていますし……。

増補 オオカミ少女はいなかった: スキャンダラスな心理学 (ちくま文庫)


  僕は「サブリミナル効果」に関しては、不勉強もあって何となくそんな効果があるものと信じていたのですが、どうやら実験自体があやしいものとのこと。ただ、マス・メディアが騒ぎ出して自主規制なんかに走ったりしたものだから、その効果を確認する方向には進まずに、危なっかしい「神話」みたいなものになってしまったようです。一度火がつくとそれを消そうと思っても如何ともしがたくなってしまうようです。
 ただ、そうした「神話」も人々の直観にはまっているからというところもあります。たとえば「なぜ母親は赤ちゃんを左胸で抱くか」という部分では、母親の約8割が赤ちゃんを左胸に抱くという事実に関して触れられています。絵画の聖母子像などを調べても約8割が左胸に赤ちゃんを抱いているそうです(僕はそれすら知りませんでしたが)。こうした事実に関してソークという心理学者が唱えた説は「心音説」というものです。赤ちゃんは胎内で心臓の音を聴いていたから、生まれてからも心臓に近い位置に頭を持っていきたがるというものです。
 これは厳密に言えば実験等で確認できた説ではないということですが、何となく直観的には腑に落ちるものがあるからか、未だに俗説としては広まっているようです。人が感じる直観もあてになる場合とそうでない場合があるのかもしれません。この本のなかでは「なぜ母親は赤ちゃんを左胸で抱くか」ということに対する答えは出ていません。未だ信用に足るような答えを心理学やそのほかの学問も出せていないのです。
 そのほかの題材もその説の胡散臭さに関しては示されますが、はっきりとした答えが提示されるわけではないところが学問的な厳密さということなのかもしれません。有名な「オオカミ少女」の話に関しても、かなり捏造が入っているようですが、真相はあくまでも推測で語られるくらいで、読み物としてはモヤモヤ感が残るかもしれません。

 第8章は心理学の世界では有名なジョン・ワトソンの話になっています。ワトソンについては、学生時代に心理学の授業で習いました。僕の通っていた大学は行動主義心理学の先生が多かったようで、ワトソンの名前も何となく聞き覚えていました。彼は行動主義心理学の始祖とされ、アメリカの心理学学会の会長も務めた人物です。心理学の教科書には必ず彼の名前が載っています。しかし、そんなワトソンもその後は色々とあったらしく、学生との不倫といったスキャンダルもあって、42歳で学会を去ることになったようです。その後のワトソンが広告業界でも成功していたという事実は、この本の主旨とはズレますが「人生いろいろ」といった感じでおもしろいエピソードでした。