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『ドキュメンタリーは格闘技である』 今は亡き大物監督との対談

2016.05.07 12:44|映画
 『ゆきゆきて、神軍』などのドキュメンタリー映画監督の原一男の対談集。

ドキュメンタリーは格闘技である: 原一男 vs 深作欣二 今村昌平 大島渚 新藤兼人 (単行本)



 この本は原一男氏が主催していた「CINEMA塾」での対談をもとにしています。対談相手は深作欣二今村昌平大島渚新藤兼人といった大物監督たち。しかし、「なぜ今さら?」という気がしないでもないのは、大物監督たちがすでに鬼籍に入られてしまっているから。出版が遅れたのは、対談のテープ起こしはすでに済んでいて本にする準備中だったのに、原氏が誤ってそのファイルを消してしまったからだとか。本当か嘘かはわかりませんが……。
 ドキュメンタリーは記録映画などとも呼ばれ現実そのものを捉えたものだという考えもありますが、実際にはそんなことはありません。たとえば『A』などを撮った森達也氏は『ドキュメンタリーは嘘をつく』という本を書いていますし、フィクションである劇映画とドキュメンタリーの違いは曖昧なのかもしれません。
 そんな意味では、ドキュメンタリー映画監督である原氏が教えを乞う対談相手が劇映画を撮っている監督であることも特段不思議なことではないのかもしれません。ちなみに今村監督は『人間蒸発』を、大島監督は『忘れられた皇軍』というドキュメンタリー作品を撮っていますし、劇映画でもドキュメンタリーでも監督の意識に違いはないのかもしれません。
 大島監督は『忘れられた皇軍』(動画サイトで観ることができる)においてクライマックスとなる場面に関して、「メイク・ア・シーン」という言い方をしています。たとえば『戦場のメリー・クリスマス』で言えばデヴィッド・ボウイが坂本龍一にキスするシーンみたいなものだろうと思いますが、劇映画でもドキュメンタリーでもそうした瞬間が捉えられていなければダメだという意識ではまったく同じということなのでしょう。

 個人的には大島渚監督の作品が好きなので、大島監督との対談を興味深く読みました。大島氏には「劇映画は役者のドキュメンタリーである」(p.178)という名言もあるようで、この対談でも下手な役者はヘタに映ればいいと言い切っていますし、うまい役者がやった作品のほうがかえってインチキな作品になるとも言います。
 原氏は大島監督に役者に対する演出のつけ方について質問していますが、これは原氏がこの対談当時(1998年)劇映画を撮ろうと考えていたからで、それは実際に2005年の『またの日の知華』という作品に結実します。初めての劇映画のために先輩の大島監督から何かを引き出そうとして喰らいつくように質問をしていくあたりは、原監督が過去のドキュメンタリー作品でも見せていたしつこさにも思えました。

 『またの日の知華』は60年安保あたりから連合赤軍事件を経て、三菱重工爆破事件に至る時代のなかでひとりの女性の人生を描いていきます。独特なのは4章からなるこの映画のそれぞれの章の知華を演じるのが4人の女優だということでしょう(ブニュエルに似た趣向の作品がありましたが)。4人の女優がいれば、年齢的にもさまざまに違いがありますし、その演技の巧拙もいろいろです。原氏は大島監督の言葉をそのまま受け取ったように、ヘタな女優さんはヘタに映しているようにも思えました。そんな意味では劇映画というのは役者に影響されるところが大きいのだなあと改めて感じました。

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『映画は絵画のように――静止・運動・時間』 アントニオーニと抽象絵画

2015.09.23 21:00|映画
 著者は以前に『黙示録――イメージの源泉』でも取り上げた岡田温司
 題名は「詩は絵画のように」というホラティウスの言葉をもじったもの。

映画は絵画のように――静止・運動・時間



 第Ⅰ章は総論になっていて、以降「影」「鏡」「肖像画」「彫刻」「活人画」などのテーマごとに論じられます(ちなみに第Ⅰ章にはアンドレ・バザンの名前が登場していて、ここでもバザンの影響を知らされます)。映画がいかに多くのことを先行芸術から学んできたかということがわかります。著者の専門は西洋美術史ということですが、かなり幅広い映画作品に関して触れられています。ただ古い作品も多いので、近所のレンタル店などでも見つけにくい作品が多いことが難点かもしれません。
 この本を読むと様々な映画監督が絵画から多くのことを学んで、それを映画に取り入れているということがわかります。たとえばヒッチコック『めまい』において、映像で肖像画を再現しているのだと言います。
 カメラが登場人物のマデリンの横顔を捉えると、それが静止画のようになるあたりのシークエンスがそうです。美術史のなかではプロフィールの肖像画はルネサンスのイタリアで盛んだったようで、それはコインの浮き彫りを模範としていて、そのモデルに記念碑的な性格を与えることができると評価されていたからです。ヒッチコックは肖像画への挑戦を映画のなかで行っているというわけです。

 個人的に興味深く読んだのは第Ⅶ章「さながら抽象画」です。というのも、ここではミケランジェロ・アントニオーニ監督の作品が取り上げられているからです。著者はアントニオーニの作品を抽象絵画との関連で論じています。『情事』のラストシーンは画面の半分が壁で遮られていて、確かに抽象絵画のような雰囲気があります。また、『砂丘』のラストの爆発シーンは、ジャクソン・ポロックの絵画と関連させられます。爆発で粉々に飛び散っていく破片が、ポロックのドロッピングに譬えられているのです。
 それから『太陽はひとりぼっち』という作品の有名なラストのシークエンスついて(僕はこの作品がお気に入りの1本なので)。正直に言えば、この作品のラストがよくわかるかと言えばそういうわけでもないのですが、なぜか惹かれるものがあります。わからないけれど惹かれるという言い方では何の説明にもなりませんが、たとえば吉田修一の小説『東京湾景』でのこの作品の解釈にも違和感があります。
 ふたりが「いつもの場所で」と待ち合わせたあとで、延々とふたりが登場しない「いつもの場所」が映し出され、結局ふたりは会わないままで終わる。もちろんこれでも間違いではないのでしょうが、妙に狭い解釈のような気がします(もちろん『東京湾景』は小説ですから、作者の解釈とは違っているのかもしれませんが)。
 著者の岡田氏が『東京湾景』について触れているわけではありませんが、アントニオーニの作品に関して「あまりにももっともらしく聞こえるような読み込みは禁物である、すべては開かれたまま宙吊りにされている」(p.259)と記しています。それからある美術史家の言葉を引いています。「抽象絵画の特徴は、単に表象再現から解放された表現のみにあるのではなくて、解釈への抵抗、言語化の拒絶のうちにある」(p.269)のだということです。そんなわけでやはりアントニオーニ作品は一筋縄ではいかないようですが、もう一度アントニオーニ作品を観直してみたくなりました。

ミケランジェロ・アントニオーニの映画

アンドレ・バザンに関しての鼎談

2015.09.14 19:56|映画
 現在書店に並んでいる「キネマ旬報」の最新号に、『アンドレ・バザン:映画を信じた男』刊行記念座談会という記事が掲載されています。

キネマ旬報 2015年9月下旬号 No.1698



 『アンドレ・バザン:映画を信じた男』は以前にこのブログでも取り上げたものですが、その刊行記念ということで著者・野崎歓を中心に四方田犬彦中条省平が加わってアンドレ・バザンに関しての鼎談をしています。
 三人は蓮實重彦の教え子とのこと。四方田氏は元弟子というか、蓮實氏とは袂を分かつことになったわけですが、そのあたりの理由も感じさせる部分もあります。バザンに対する態度にもふたりの見解の違いが出ているからです。
 というのも『アンドレ・バザン:映画を信じた男』から四方田氏が読み解くアンドレ・バザンは「映画を介して全世界に憧れた人」ということになるわけで、蓮實重彦が『映画時評2012-2014』「フィルム的な現実」を見よと論じているのとはまったく異なっているからです。どちらが正しい(?)のか僕にはよくわかりませんが……。
 また、中条氏も似たようなことをドゥルーズ『シネマ』を援用してまとめています。ドゥルーズは映画のアングルの採り方にはふたつあると言っています。「ヒッチコックはスクリーンを絵画の枠のように見立てて、その中に必要なものをすべて詰め込んでいく。それは完結した宇宙になっている。その対極にいるのがジャン・ルノワールで、野崎さんはマスクと言っていますが、世界の一部分だけを切り取ることで、その外側にある広がりを示そうとした」
 5ページほどの短い記事ですが、バザンに関してとてもわかりやすく解説されていて、とてもおもしろく拝読しました。

『映画時評2012-2014』 蓮實重彦による最後の映画時評

2015.08.25 19:37|映画
 蓮實重彦の『群像』に連載されていた映画時評の第2弾『映画時評2012-2014』(第1弾は『映画時評2009-2011』)。ちなみに蓮實重彦は「映画をめぐる時評的な文章を書くことは、この一冊をもって終わりとすると決めている」(p.354)とのことで、残念なことですが蓮實重彦の新作映画に対する批評は読めなくなることになりそうです。もっともほかの文筆活動をやめるわけではないでしょうが……。

映画時評 2012-2014



 月に一度の「映画時評」の部分は見逃してしまった作品もあってまだ読んでない部分もあるのですが、ほかの雑誌など掲載された対談をとても面白く読みました。特に関心を持って読んだのが、アンドレ・バザンに関して触れた部分です(対談相手は「週間読書人」で映画時評を担当している伊藤洋司)。というのも、最近バザンの映画批評集『映画とは何か』『アンドレ・バザン 映画を信じた男』といった本を読んだばかりだったからです。
 蓮實重彦のバザン批判はいささか複雑だと言います。「映画について思考するなら、絶対バザンは読んで欲しいと思うと同時に、バザンを批判せずにどうして映画など見てこれたのかという苛立ちをも覚えている」(p.332)からです。世間的なイメージとして蓮實重彦は『カイエ・デュ・シネマ』的な批評の密輸入業者みたいに思われているなどと自ら冗談めかして語っていますが、実は頑固な反バザン主義者だとも言います(それはバザンがジョン・フォードを正当に評価できなかったからだとか)。
 バザンの映画批評はリアリズム論にあります。「写真映像の存在論」がミイラの話から始まっていたように、永遠の命を閉じ込める媒体として映画もあり、写真が示していた客観性を時間のなかで完成させたものが映画だと考えます。ごくわかりやすく言えば、映画は現実の再現としてあるという理念があるのだろうと思います。
 一方で蓮實重彦は『「ボヴァリー夫人」論』でも「テクスト的な現実」ということ繰り返し説いています(「エンマ・ボヴァリー」とテクストに書いてなければそれは存在しない)。それは映画を論じるときもそれは同様です。小説では「テクスト的な現実」ならば、映画では「フィルム的な現実」です。その映画が映像や音として提示するフィクションがすべてであるという原理主義であり、映画は現実を閉じ込めるようなものではなく、フィルムに映し出されているものに向き合えというのがその主張です。バザンの批評とはまったく相容れないものですから、その部分だけでも批判点が生じてくることになるわけで、蓮實重彦のバザン批判はさすがに的を射ていると思います(僕が偉そうに言うことではないわけですが)。

 そのほかにも作家・阿部和重と映画監督・青山真治を迎えての鼎談もあり、ここでは最近のハリウッド映画などを中心に色々と作品が斬られていきます。イーストウッド作品『アメリカン・スナイパー』に関してのイーストウッドの「幽霊化」という論点や、『インターステラー』のクリストファー・ノーランは演出ができないし活劇が撮れないといった真っ当な悪口もやはり読むべき価値があると思います。

映画時評2009-2011


『テロルと映画 スペクタクルとしての暴力』 テロリスム廃絶のための映画論

2015.08.17 20:01|映画
 著者は『ルイス・ブニュエル』(第64回芸術選奨文部科学大臣賞)などの四方田犬彦

テロルと映画 - スペクタクルとしての暴力 (中公新書)



 著者によれば、「テロリスムが人間に向かって何かを訴えるときには、つねに映像メディアを媒介として、スペクタクルの形態をとる」といいます。戦場における破壊行為や個人的な怨恨による殺人などはテロリスムと呼ばれるには不充分であり、映像メディアを通して不特定多数の目に触れることでテロリストのメッセージを伝達しえたときにテロリスムとして成立するということです。
 そんな意味では、911での世界貿易センタービルの崩壊は世界に強烈なメッセージとして伝わりました。そして、そんなスペクタクルをテレビ画面で見せつけられた多くの人は、それをハリウッド映画で観たようなものだと感じました。映画は「テロリスムが本来的に抱いているスペクタクル性を借り受けることで、産業として発展してきた」のです。
 著者によれば「忠臣蔵」や「新撰組」といった作品は、日本では度々取り上げられる題材もテロリスムということになるようです。「忠臣蔵」は人形浄瑠璃や歌舞伎の演目でしたが、その後は何度も映像化され年末の風物詩のようにもなっていますが、たしかにテロリスムの一種なのかもしれません。この場合どうしても観客はテロリスト側になるであろう赤穂浪士に肩入れして見てしまいますが……。

 著者がテロリスムを描いたフィルムを大雑把に分類したものは以下のようになります。

A 民族国家成立時に実際になされたテロリスムを、〈原初の殺人〉として神話化するフィルム。(例:グリフィス『國民の創生』)
B テロリスムを社会秩序と安全を脅かす悪とみなし、その駆逐と排除の過程をエンターテインメントとして提示するフィルム。(例:ジョン・マクティアナン『ダイ・ハード』)
C 懐古趣味。テロリスムの盛行を時代の背景として用い、政治的イデオロギーが摩滅した後の現在の時点から、ノスタルジアに耽るフィルム。(例:マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ『輝ける青春』)
D テロリスムの不可能性と不可避性を同時に見つめる、きわめて真摯な意図のものに製作されたフィルム。


 この本で取り上げられるのは、主にDに分類されるものです。特に、第4章から第7章までは4人の映画監督について検討しています。ブニュエル若松孝二ファスビンダーベロッキオの4人です。そして終章では「哀悼的想起としての映画――テロル廃絶に向けて」において、映画がテロリスムの廃棄のためになしうることの可能性を探っています。この終章部分はやや抽象的で、僕にはすんなり入ってこないところもあったのですが、4人の映画監督の作品分析はそれぞれ教わるところが多かったように思います。
 4人のなかで唯一未だ精力的に活動しているマルコ・ベロッキオ『夜よ、こんにちは』(2003年)は、イタリアで起きたアルド・モーロ元首相誘拐暗殺事件をもとにしています。しかし事件の正確な再現を目論んだものではありません。事件を引き起こした「赤い旅団」の一人の女性キアラは監禁した元首相の世話係ですが、仲間を裏切って元首相を逃亡させる夢を見ます。加えて、そうした事件のすべてがなぜか彼女が読んでいる脚本のなかにすでに書かれています。
 一般的なテロリズムを描いた映画は事件を正確に後世に伝えることを目的としてきましたが、ベロッキオのアプローチはそれとは異なります。歴史的報道資料と夢や想像的な光景を並置することで、「過去にあったと認識されてきたものとはまったく異なった光景を提示」し、理想的な政治のヴィジョンを問うことになっているのだといいます。以前に『夜よ、こんにちは』を観たとき、事件のすべてが脚本のなかに書かれているといエピソードがいまひとつわからなかったのですが、この分析を読むと腑に落ちるような気もします。

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