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『ほんとうの法華経』 法華経はなぜ「最高の経典」なのか?

2015.11.12 20:37|宗教
 サンスクリット原典から法華経を現代語訳したという仏教思想研究家・植木雅俊と、社会学者・橋爪大三郎の法華経を巡っての対談。
 『ゆかいな仏教』などでは橋爪氏が独自の仏教論を展開していましたが、この『ほんとうの法華経』では橋爪氏は聞き役に徹しています。橋爪氏は聞き役とはいえ、時折しつこくツッコミを入れて自分の納得のいかない部分に深く切り込んでいきます。この本は法華経の基礎知識から始まって、各章ごとに重要な部分を読んでいく形で、とても丁寧に法華経を教えてくれる本となっています。植木氏のほかの本は読んだことがないのですが、ほかの本も読んでみたくなりました。

ほんとうの法華経 (ちくま新書)



 法華経は「最高の経典」であると言われます。そのくらいはどこかで聞いたことがあったような気がしますし、法華経に関する解説本も読んだような気もするのですが、なぜ「最高の経典」であるのかという問いに具体的に答えるとなると詰まってしまいます。植木氏は法華経が「人間は誰でも差別なく、一人残らず、成仏できると説いているから」(p.17)だと答えます。この考えを「一仏乗」と言います。
 原始仏教のころは女性出家者もブッダの教えを成し遂げたとされていたのに、小乗仏教では釈尊は神格化され男性出家者ですらブッダになることができないと考えられるようになりました。大乗仏教では成仏をあらゆる人に解放しましたが、そのなかには例外もあって小乗の出家者である声聞と独覚の二乗は成仏できないとされました(二乗不作仏)。法華経はそんな小乗と大乗の対立を克服して、普遍的な平等思想を打ち出したということになるのだそうで、それが「一仏乗」という考えになっていきます。
 ほかにも涅槃経に説かれた「一切衆生悉有仏性」という思想や、勝鬘経にある「如来蔵」思想なども法華経に内包されていたものだと指摘されています。それだけでも法華経がいかに重要な経典であるかがわかります。

 法華経のなかでは「提婆達多品」とか「観世音菩薩普門品」などの話は僕も覚えていましたが、植木氏はあまり重視されてこなかった「常不軽菩薩品」を重要なものと考えています。
 不軽菩薩は教理の解説もせず、自分自身のための聖典の学習もせずに、ただ人びとに向かって「私は、あなたがたを軽んじません。〔中略〕あなたがたは、すべて菩薩としての修行を行ないなさい。あたながたは、正しく完全に覚った尊敬されるべき如来になるでありましょう」とだけ言い続けます。すると、そう言われた人びとはなぜブッダでもないのに勝手な嘘を言うのかと怒り出したりもするわけで、不軽菩薩はかえって危害を加えられたりもします。
 この「不軽菩薩」という名前は、サンスクリットでは肯定と否定、受動と能動の組み合わせを多重に表す言葉になっているとのこと。だから正確にそれを訳すとなると「常に軽んじない〔のに、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる〕菩薩」という意味合いが込められているようです。
 そんな不軽菩薩が臨終間際になったとき、法華経の法門が天から聞こえてきて寿命を延ばし、それから法華経の教えを説き始めるようになります。なぜ聖典を読むこともなかった不軽菩薩にそうしたことが可能だったか。植木氏はその回答にたとえば「人間を尊重する根源に、仏性を見る」(p.394)といった言葉をあてたりもしていますが、とにかく「経典読誦などの仏道修行の形式は満たしていなくても、誰人をも尊重する行ないを貫いているならば、それが法華経を行じていることになる」(p.399)のだと解釈しています。
 この部分には聞き手の橋爪氏も大きく同意を示していますし、読んでいても納得させられる部分でした。僕自身は仏教の教えを実践するような生活とは無縁ですが、釈尊の教えであるとされる「誰でも差別なく、一人残らず、成仏できる」という思想を、法華経という形で真剣に考えてくれていた人がいるということは何だか感動的なことだと思えました。

『輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語』 死では終わらない物語について

2015.10.22 19:57|宗教
 著者の竹倉史人は現代宗教やスピリチュアリティなどに関心を持っている研究者とのこと。

輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語 (講談社現代新書)



 生まれ変わりの物語は現代においても広く世界中で支持されているのだといいます。日本では42.1%の人が輪廻転生を信じていると回答していますし、意外にも仏教圏以外の国でも輪廻転生を信じている人は少なからずいるそうです。この本では、著者は「生まれ変わり」を3つの類型に分類しています。

① 再生型
② 輪廻型
③ リインカーネーション型


 日本は3つの型のすべてが混在しているような状態で、「再生型」というのは自然の循環のようなものです。季節が巡るように人も順繰りに巡っていくという考えで、柳田國男『先祖の話』で書いたものに代表されるものだと思います。この場合は生まれ変わりの範囲は共同体の内部に限られているようです。次の「輪廻型」は古代インドが発祥のもので、仏教を通じて日本でもよく知られているものです。
 そして最後のものが「リインカーネーション型」ですが、日本では70年代以降のニューエイジの流れで入ってきたようです。この「リインカーネーション(reincarnation)」という言葉は、実はそれほど古い言葉ではないようです。この言葉が今のような意味合いで使われたのは1957年にカルデックという人が出版した『霊の書』という本が初めてとのこと。カルデックは「受肉(incarnation)」という言葉を拡大解釈しました。「受肉」とは、キリスト教では神がイエスという人間として地上に生まれたことを指す言葉ですが、これは一度限りのものです。その言葉を元にカルデックは複数回可能な「リインカーネーション(reincarnation)」という言葉を生み出したわけです。
 著者によれば「リインカーネーション」の考えは、何度も生まれ変わることで人が進歩していくというところに独自性があるようです。それまでのキリスト教の世界観は〈退歩史観〉が基調でした。「神による世界創造の時点が絶頂期であり、それ以降、人類は堕落の一途をたどっていく」(p.125)というものです。物が古びていくように、世の中も悪くなっていくというイメージが一般的だったわけです。しかし啓蒙主義の考え方はその考えを逆転させるような力があったわけで、「リインカーネーション」という考えもそうした時代のなかで生まれたものです。

 こうした3つの類型のなかで「輪廻型」はちょっと異質なもののように僕には思えました。というのは「再生型」も「リインカーネーション型」も生まれ変わることが人の救済になっているように思えるのに対し、「輪廻型」ではそれが苦として捉えられ、仏教の教えでは輪廻転生から抜け出すことこそが救済となるわけですから。
 ちょっと前に読んだ『死では終わらない物語について書こうと思う』(著者:釈徹宗)では、「理想の死のモデル」として「往生伝」が取り上げられます。ここでは浄土に往生することが目的のように考えられています。本来の仏教の教えでは、浄土で阿弥陀仏から説法を受けて解脱するという次の段階があるはずですが、解脱よりも浄土へ生まれ変わるほうが救いになっているようにも見えるのです。「浄土願生者とは、帰る世界のある人生を選んだ人にほかならない」という言葉も、それを証明しているように思えます。「死では終わらない物語」というのは「生まれ変わりの物語」とも言えるわけで、死ですべてが終わってしまうのが耐えられないからこそ「再生型」「リインカーネーション型」も生まれてきたのかもしれません。
 だからこそ「輪廻型」の物語が例外的なものに感じられます。インドに行くと世界観が変わるみたいな言葉はよく聞きますが、インドはあまりに雄大で、時間の単位も悠々としているからでしょうか。弥勒菩薩が現れるのが56億7000万年後とかいう途方もない時間を考えるわけですから、さすがに嫌気が差すのかもしれませんが、僕にはまだ来世があったほうが慰めに感じられるような気がします。

死では終わらない物語について書こうと思う


キルケゴール 『愛について』 神が愛の媒介である

2015.10.18 17:57|宗教
 この『愛について』(新潮文庫版)はキルケゴール『愛と生命の摂理』のなかの最初の5章とのこと。文庫用に編集されたものと思われます。また、『愛と生命の摂理』とは『愛のわざ』とも呼ばれる著作のことです。

 ここでの愛というのは、恋愛のことではありません。キルケゴールの言う愛は、神への愛ということになります。キルケゴールによれば愛の源泉には神への愛があり、それがなければ人間の恋愛などもないということになります。
 まず、キルケゴールは愛を語る詩人を批判します。詩人は寂しさが好きであり、「所詮詩人の歌わんとするものは己れ自らの生命の謎であるあの「かなしさ」を有ったものでなければなりませぬ故。花咲かねばならず、ああ、そして凋落せねばならぬ、もの」(p.16)だからだと言います。これは自然な状態を再確認することであり、それを美しく謳い上げることでカタルシスを得るようなものだからかもしれません。
 たとえば日本の和歌などもそうした詩人的なものでしょう。もしかすると創唱宗教ではない自然宗教だけの状態ならば、人間は詩人的なものに留まるのが普通なのかもしれません。しかし、キルケゴールは詩人を批判します。キルケゴールは「キリスト教の教え」「世間の教え」とは違うということを強調していますから、「キリスト教の教え」はごく自然の状態ではないというのは織り込み済みのことなのでしょう。
 また、人と人との恋愛を「自然のする愛」などとも呼んでいますから、人間の恋愛がごく普通のものであることは認めているわけですが、それに留まることもありません。キルケゴールは『反復』『誘惑者の日記』のような本を読めばよくわかるように、詩人のような文章を書くこともできるわけですが、ここでは教化的なものを意図しているようです。

 キリスト教の教えには「隣人愛」というものがあります。キルケゴールはこの教えに深く切り込んでいきます。「自然のする愛」が永遠のものとなるのでしょうか。そうではないというのがキルケゴールの考えです。「もし人が恋人か、友を探し求めるために、世の中に出かけて行きます、と多分彼は永い道を行かねばなりますまい。――徒らに行かねばなりますまい。全世界を歩きまわり、いや、徒労に歩き廻らねばならぬことでありましょう。」(p.90)人が誰かを愛するというときに、それが正しい選択なのか自分でもわからないし、不安に思うこともあるでしょう。「隣人愛」の教えはそうではありません。神に祈ったあとに戸を開けて初めて出会った人こそが隣人であり、隣人は人間全体のことだからです。
 「自然のする愛」は自分とその恋人に対する愛情であったり、さらにその家族への愛情などのことを指します。世間的には自らの周囲の人間を大切にする人は愛情に溢れた人間ということになるのかもしれませんが、結局は自分の範囲がちょっとだけ拡大しただけで、人間全体からすれば狭い範囲に留まるわけですから、キルケゴールからすれば利己的な愛に過ぎないことになります。
 かと言って「自然のする愛」を否定するわけではないようです。ただその方向性というか、その順序が異なるのかもしれません。

 神はこの様に単に全ての恋愛の関係に於いて第三者であるばかりでなく、本来はその唯一の恋の対象であること、従って妻の愛人は夫ではなく、神であり、妻は夫を通じて、神に対する愛に導かれてゆく。……(中略)……全ての恋愛の関係は三重の関係であることを思わねばなりませぬ。即ち、愛人と、恋人と、愛と。――愛とは即ち神に他なりませぬ。それ故に、「或る人を愛すること、」即ちその人を神に対する愛にみちびいてくることであり、「愛せられる」ことは即ち神に対する愛に於いて捧げられることなのであります。(p.208)


 夫も妻も神の方向を向いているわけです。そんなふうにして神への愛へと導かれていくことがキルケゴールの考える愛ということであり、神への愛が「自然のする愛」の媒介となっているということです。
 この部分を読んで、以前、大江健三郎氏がどこかで話していたことを思い出しました。「信仰を持つ者というのは同じ方向を見ている」というものであったように記憶しています。何となく印象に残っている言葉だったのですが、大江氏が意識していたのは、「神が愛の媒介である」と言うキルケゴールのことだったのだろうと、今さらながらに発見したような気持ちにもなりました。

キルケゴール著作集〈第16巻〉愛のわざ (1964年)


『親鸞 往還廻向論の社会学』 親鸞に関する論点整理に

2015.07.23 21:48|宗教
 著者の八木晃介は新聞記者だった人で、部落問題など反差別論を専門にしているとのこと。



 この本はテーマごとに親鸞の思想を論じていきますが、どれもが現代の問題と絡めて論じられています。著者が新聞記者だったからなのかもしれません。テーマに関しても賛否が分かれる場合、その両論を丹念に追っているのもその影響なのかもしれません。親鸞の文献は当然ですが、専門的な文献まで参考にされていますし、それらを細かく整理してかなりの分量が引用されます。親鸞の主著とされる『教行信証』がそれまでの経典などからの「引用の集大成」として出来上がっているからなのかもしれません。
 僕自身は親鸞については吉本隆明の本を通して学んだだけの素人ですが、著者の八木氏はそんな吉本の親鸞論に対しては批判的です。それは吉本の視点に違和感を覚えているからでしょう。たとえば『最後の親鸞』では吉本はこんなふうに記しています。

 〈知識〉にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに〈非知〉に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。 (『最後の親鸞』 ちくま学芸文庫 p.15より)


 吉本自身はそんなつもりはなくても、やはり知識人として大衆を導くような振舞いにも見えます。吉本は同じ本で「〈衆生〉は、専修念仏によって釣り上げるべき与しやすい存在でもなかった」などと記していて、こうした表現に著者はかなり辟易しているようです。反差別論の著作も多い八木氏からすれば、もってのほかというところなのだろうと思います。八木氏からすれば、親鸞は「具縛の凡愚・屠沽の下類」などと呼ばれる衆生と触れ合うことでその思想を深化させてきたということになるわけで、〈知〉を極め〈非知〉に向かって着地するという吉本の見方はまったくの正反対なわけです。

 それから吉本が引用ばかりの『教行信証』ではなく、弟子・唯円の聞き書きである『歎異抄』などを重視するのに対し、八木氏は親鸞の考えと唯円の考えを厳密に弁別して捉えようとしています。八木氏は、聞き書きはインタビュアーの視点が大きく影響するとして、唯円が聞き書きしたとされる『歎異抄』に関しては批判的です。
 そして、特に問題があると著者が考えるのは、『歎異抄』の第十三章です。著者が要約した大意をちょっとだけ引用すれば次のようになります。

 弥陀の本願は不思議にも全衆生を救済してくださる、とそう言って悪を恐れないのは本願ぼこりなので往生が不可能であるということ自体、本願を疑っていることであり、善悪の宿業を理解していないことである。よい心がおこるのも宿業が起因するからであり、悪事をおもうのも悪業のはからいである。故親鸞聖人の仰せによれば、兎や羊の毛の先につく塵ほどの罪も宿業によらぬものはないと知るべきだ、と。(p.330)


 「悪人正機説」とは、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という有名な言葉にあるように、善人よりも悪人こそが阿弥陀仏の本願により救済されるという考えです。そうするとわざわざ悪事を働こうとする者も出てきます。それは「本願ぼこり」もしくは「造悪無碍(造悪は往生の妨げにはならないという考え)」と言って非難されるわけです。しかし上記の文章では、その非難自体がさらに否定されています。最終的に「本願ぼこり=造悪無碍」は肯定され、悪事を働くことが推奨されるような形になっていると著者は解釈しています。
 この文章で「宿業」という言葉が使われているところにも問題があるようです。「宿業」とは過去生の業が現在の生を決定するということですが、親鸞には「業」という考えはあっても「宿業」という考えはなかったようです。「宿業」が持ち出されると、たとえば差別されるような立場にある者の生も、過去の業の結果として肯定されることになってしまうからです。
 また、著者は親鸞の「造悪無碍」に対する態度は曖昧だと言います。肯定的なときもあるし、否定的なときもあるようです。それを著者は、親鸞には二種の「造悪無碍」があると解釈してみせます。一つは権力に反対するような「造反有理」的なものであり、もう一つは盗みや殺しのような「放逸無慚(勝手気まま)」なレベルのものです。親鸞は前者のみを肯定的に捉えますが、唯円は後者まで含めてすべての「造悪無碍」までも肯定しているわけで、それは間違いだというのが著者の独自の論点になるのだろうと思います。
 親鸞の思想がテーマごとに様々な文献が引用され、素人にはかなり手ごわい内容ですが、色々な論点が整理されている部分があって読み応えがありました。

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)


『不安の概念』 悪魔的なるものとは何か?

2015.04.20 00:51|宗教
 キルケゴールの著作。訳者(斎藤信治)の解説によれば、この本の「悪魔的なるもの」に関する記述は、『死に至る病』の考察につながるものを含んでいるとのこと。
 書かれていることは色々と引用したくなるような含蓄のあるものが多いと思いますが、正直に言うと、難解で歯が立たないという感じでもあります。僕はこの『不安の概念』に何度か目を通したのですが、全体を通すと一体どういうことなのかは判然とはしないような……。もちろん読者である僕の素養の問題が大きいのですが、もう一度読み返せばまた違ったものを感じるだろうし、他の人はまた違った読み方をするんじゃないかとも思います。以下に記すことは、個人的な覚え書きということになります。

不安の概念 (岩波文庫)



 緒 論
 第1章 不安が原罪の前提であり、同時にそれは原罪をその根源の方向に遡って解明するものである、ということ。
 第2章 原罪の結果としての不安
 第3章 罪の意識を欠いているということがそれ自身罪なのであるが、そういう罪の結果としての不安
 第4章 罪の不安、乃至は、個体における罪の結果としての不安
 第5章 救済の手段として、信仰と結びついている不安


 まず第1章では、無垢な人間がなぜ罪あるものとなるのかという点が論じられます。旧約聖書によれば、アダムの罪によって人間は楽園から追放されたことになっています。その前の人間という存在(というか、その前のアダムとイヴ)は善悪の区別を理解しません。したがって「ただ善悪を知るの樹の実は汝これを食うべからず」(創世記)という言葉すらも理解していません。食べるなと言われるものを食べてはいけないということもわからないからです。人間はそんな無垢な状態にありました。
 キルケゴールはそんな「無垢」という言葉を、「無知」とも言い換えています。そしてそのような状態のうちには、争うべき何ものもないわけで、平安と安息があるわけですが、それとともに「無」があるのだと言います。その「無」がどのように作用するかといえば、「不安」をつくりだします(「不安の無」という言葉が出てきますが、このことと同じ?)。こうした「不安」が原罪の前提であり、アダムの第一の罪を通じて罪はこの世に来たったのだと言います(ただ、この世に罪が入り込んでくるところには質的な飛躍があるとのこと)。そしてさらに「自由の可能性」と「不安」との関係についても示唆が与えられます。

 第4章の「悪に対する不安」「善に対する不安(悪魔的なるもの)」という部分は、抽象的に感じられ何度読んでもうまくつかめなかったところなのですが、勝手に自分なりに解釈するとこんなふうに思えました。
 まず「悪に対する不安」ですが、これはキリスト教を信じてはいても、たまに悪に魅入られるようなときがあり、これはそうした不安という意味ではないかと思います。このときの不安は、信教という無限の可能性が開かれているわけで、その人が自由である分まだマシなものです。
 一方で「善に対する不安(悪魔的なるもの)」とは、キリスト教の教えを信じようとはしないで自分のなかに閉じこもってしまっている不安です。こういう場合、その閉じこもっている人は自ら可能性を有限なものにしてしまっていて、聖書のなかでキリストが悪鬼に近づいたとき悪鬼が叫んだように「汝と我と何のかかわりあらんや」という状態にあります。善なるものが手を差し延べてもそれを拒絶してしまうのです。そうした閉じこもった人の「不安」は不自由なものだけにより性質が悪いということになります。
 僕は信仰心を持つわけではありませんが、自分で可能性を限られたものにして、かえって不自由になっているというのはわかるような気もします。とにかくまとまった感想が書けるほど理解に至っていないような感じで、また折に触れて読み返してみたいと思います。