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『現代思想の時代 〈歴史の読み方〉を問う』 普遍性と特異性

2014.08.13 23:09|社会学
 社会学者・大澤真幸と歴史学者・成田龍一の対談本。巻末には『現代思想』のこれまでの特集総覧が載っていますが、この対談は雑誌『現代思想』の40周年企画として計画されたもののようです。

現代思想の時代 〈歴史の読み方〉を問う



1 「理想」の終焉、「虚構」の胎動:1973‐1995
2 回帰する不可能な“歴史”:1995‐2011
3 3・11以後と“世界史”の哲学:2011‐


 これまでの『現代思想』の歴史を振り返ることで「現代思想」の展開を検証するということがテーマですが、目次を見るとわかるように、大澤真幸の「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」という区分に引き寄せた分析がなされていますし、第3章では現在『群像』で連載中の「〈世界史〉の哲学」に関して、これまでを振り返り今後の展開について触れられています。そういう意味で『現代思想』についてはよく知らなくても、大澤真幸の熱心な読者には親しめる内容になっているかもしれません。

 『現代思想』という雑誌は知っていても、僕自身は特集によって立ち読みするくらいでしたが、「現代思想」を勉強しようという学徒には違っていたようで、80年代を中心にした黄金期には『現代思想』が「現代思想」のアジェンダ・セッティングをしていたと一般的には考えられているようです。しかし、その後はちょっと様子が違ってきます。
 こうした変化を自分がわかる言葉で要約すれば、「大きな物語」が失われ「小さな物語」が乱立するという状態ということかと思います。90年代に入ってマルクス主義的な言説の有効性が疑われるようになって、そのあとには世界全体を説明するような「大きな物語」が現れなくなります。あらゆる言説が相対化されることになるというわけです。
 この対談では、浅田彰が97年の講演で『構造と力』(1983年)の解説をしていたというエピソードが登場しますが、別に浅田彰がその後の現代思想の展開を知らなかったというわけではなく、浅田彰にとってそれ以後はすべて相対化された「小さな物語」のひとつに過ぎないという判断があったからなのでしょう。

 この対談ではそういったことは「普遍性」「特異性」という言葉でも言い換えられています。西洋の思想が普遍的なものと考えられていた時代ではなくなったということが、「大きな物語」が失われたということだと思います。そうすると「みんなそれぞれ」ということになって、特殊=個別のほうが重要になってきます。そんな潮流にあったのが、たとえばカルチュラル・スタディーズのようなものなのでしょう。
 柄谷行人「特殊性(particularity)」に対する「単独性(singularity)」というものの重要性を説いたわけですが、大澤もその議論を受けています(大澤の場合、singularityは「特異性」と記されます)。そして柄谷行人『世界史の構造』「世界史の通時的な運動の前提となっているような、共時的・論理的な構造」を取り出すことに重心があるのに対し、大澤は「歴史のなかで起きている出来事の持っているまったくの偶発性が宿す普遍性にこだわっている」のだと整理しています。
 

 これまでの、例えばカルチュラル・スタディーズが出てきてさまざまな歴史の相対化がなされたときには、それぞれの歴史の特殊性だけを言い合いながら、「みんなそれぞれだよね」と確認していただけでした。しかし、それだけだと「普遍」が失われてしまう。私は「普遍」というものを見るためには、「特殊以上の特殊としての特異」にまで遡行していかなければならない、という直観があるのです。 (p171‐172)


 ここで特異な出来事として考えられているのが、「〈世界史〉の哲学」でも何度も取り上げられているキリストの殺害です。『群像』の連載(9月号)でも、映画『愛と追憶の日々』と絡めてキリストが取り上げられています。今後の「〈世界史〉の哲学」の展開では、最後に日本というある意味でかなり特殊な場所が論じられることになるようで、これからも楽しみです。

『二千年紀の社会と思想』 ソフィーの選択と偽ソフィーの選択

2014.04.30 23:44|社会学
 見田宗介大澤真幸の対談本。

二千年紀の社会と思想 (atプラス叢書01)


第一章 現代社会の理論と「可能なる革命」
第二章 名づけられない革命をめぐって
第三章 「自我」の自己裂開的な構造
第四章 未来は幽霊のように


 第三章は見田宗介の『自我の起原』出版時(1993年)の対談で、その後の大澤真幸の連載『社会性の起原』にも通じる対談となっています。第一章と第二章は、「ロジスティクス曲線」とか、「三代目という生き方」などおもしろい議論を含みますが、見田宗介の本(『定本 見田宗介著作集』)が出版された時期(2011年)の対談で、その本が前提となっている部分は、それらの議論を知らないとやや難しいようにも感じました(逆に言えば、『定本 見田宗介著作集』を読みたくなります)。

 第四章はそれまでの対談の議論を踏まえての大澤真幸の論文となります。ここでは東日本大震災後の原発廃止運動を論じています。大澤がまず取り上げるのは『災害ユートピア』という本の議論です。これによれば「革命と災害は、しばしば、不可分である」(p.180)のだそうです。たとえば1985年のメキシコシティ大地震。この地震はその後20年以上も続く長い民主化のプロセスを開始させたのだとか。それでは日本においてはなぜ同様の革命的なこと(原発の廃止)が起きないのでしょうか。
 次に大澤は『ソフィーの選択』の有名な議論を提示します。映画化もされたこの作品は、倫理学などでも盛んに取り上げられてきました。「ソフィーの選択」とは、ユダヤ人の強制収容所で、ソフィーがナチにふたりの子供のどちらかを犠牲にすることを迫られるという究極の選択です。これは選択不能な問題であり、ソフィーは精神的に変調を来たすことになります。これに大澤が付け加えるのは「偽ソフィーの選択」というものです。
 もしソフィーの手持ちにあるものが子供とエアコンだったら……。ナチは子供とエアコンのどちらかを選べと迫ります。すると途端に問題は簡単なものになります。大切な子供の命のどちらか選ぶことはできませんが、子供とエアコンなら簡単です。当然、子供を選び、エアコンをナチに差し出します。
 ここでのエアコンとは、原発をあきらめられない立場を指しています。エアコンは暑い夏には重宝するかもしれませんが、それを子供の命と引き換えにはできないのは明らかです。それなのに、なぜか「ソフィーの選択」と同様の難しい問題と考えてしまっているのです。つまり冷静に考えれば原発廃止は当然の帰結なのに、「どうして、人は、必ずしもこの自明な結論に到達しないのか」(p.195)というのが大澤真幸の疑問です。
 大澤はそれを「第三者の審級」と関連で論じていきます。ここでは具体的な方策を提示するまでには至っていませんが、脱原発を表明した菅首相がなぜ脱原発派に指示されないのかという分析には、なるほどと思わされました。

『動物的/人間的 1.社会性の起原』と大澤真幸の新連載

2014.01.31 23:58|社会学
 『ゆかいな仏教』で質問者役を務めていた大澤真幸氏が、<人間とは何か?>という大きな問いに迫る本です。
 この本はおととしの夏に出版されたものですが、大澤氏が今年から始めた新連載が似たようなことを扱っているようなので、慌てて手に取りました。

動物的/人間的 1.社会の起原 (現代社会学ライブラリー1)



 人間とは何か? 動物との関係において、人間とは何か? これは、すべての知を支配する中心的な問いである。私の考えでは、この問いを十分な深みにおいて捉えると、その探求は、必然的に、最も広い意味での社会学――動物の行動までをも視野に入れた大きな社会学――になる。(p.145)


 上記は「あとがき」に記された言葉です。大澤氏は以前からそうした構想を持っていて、その端緒となるはずの本がこの『動物的/人間的 1.社会性の起原』です。この本は「現代社会学ライブラリー」というシリーズのひとつらしく、社会学者たちが中心となってつくりあげる予定の第一弾として登場したものです。この本に「1.」という番号が振られているのは、『動物的/人間的』と題するシリーズの序章になるということ。以降、「2 贈与という謎――霊長類の世界から」「3 社会としての脳――認知考古学と脳科学の教訓」「4 なぜ二種類(だけ)の他者がいるのか――性的差異の謎」が予定されています。
 この本自体は序章ですから、これから大澤氏の議論を展開する前の準備段階という位置づけになっています。だからこの本だけでは、特段の結論めいたものはありません。ページ数も150ページを切るという程度ですが、内容は密度の濃いものとなっていると思います。
 そして、大澤氏の本のよりよい読者ならば、「社会性の起原」という題名を見ただけで、大澤氏の師匠筋にあたる見田宗介真木悠介)氏の『自我の起原』を思い起こすかもしれません。実際に、この本の第3章「動物の社会性」では、「生物の個体の圧倒的な利己性といくつかの例外的な利他性とを統一的に説明する理論基本的な枠組み」について、『自我の起原』から多くの助けを得ています。また、85ページの脚注には「この論考は、真木悠介の『自我の起原』への応答としての側面をもっている。」と記されています。正面切ってこんなふうに記すということで、大澤氏の並々ならぬ意欲が感じられるようです。

自我の起原―愛とエゴイズムの動物社会学 (岩波現代文庫)


 さて、冒頭に触れた大澤氏の新連載ですが、講談社のPR誌『本』で今年から始まったばかりです。連載タイトルは「社会性の起原」であり、『動物的/人間的 1.社会性の起原』の続きを思わせますが、特に連続性はありません。ただこの本と同様の問いを扱っています。冒頭は、20世紀で最も影響力が大きかった哲学者ジャック・デリダが最後に探求していたのが、「動物、あるいは、人間と動物のあいまいな境界」についてだったというエピソードから始まっています。『本』の新連載と、この現代社会学ライブラリーのシリーズの関係性はわかりませんが、どちらも楽しみです。

大澤真幸 『生権力の思想――事件から読み解く現代社会の転換』 管理型権力が奪うものは何か?

2013.07.17 22:21|社会学
 権力とは、従わなければ「死ね」という、むりやり他者の命令に従わせるようなものだったわけですが、フーコーによれば近代の権力は、生への権力となったのだとか。そして生権力のあり方は規律訓練というものに表れます。規律訓練型の権力は、パノプティコンに象徴されるように、個人の身体への持続的な監視を媒介にして、個人の内省(告白)を促して、個人を主体化します。
 一方、管理型権力は、保持するカードなどによって出入りできる場所を制限されたり、監視カメラなどで映像情報がデータベース化されたりするような形になります。人々は知らないうちにアーキテクチャーによって管理されるわけです。たとえば、大手外食チェーンでは、イスは硬いプラスチック製で、夏などしばらく読書でもしようものなら寒くて震え出すほどの冷房で、客の回転率を上げています。管理型権力では、服従動機を経由せずに、いつの間にか人々を従わせることに成功していることになります。
 そして生権力が規律訓練型のものから、管理型のものへと転換しつつあるということは、ドゥルーズをはじめとする多くの論者によってかねてより指摘されてきました。どうしてその転換が起こったのか? また、管理型権力が奪うものは何か? こうした疑問こそが、大澤真幸氏がこの本で考察している問題です。

生権力の思想: 事件から読み解く現代社会の転換 (ちくま新書)


 大澤氏はそれを身体論から読み解いていきます。
 太陽王と呼ばれたルイ14世を描いた映画は、『王は踊る』という題名です。王の権力は、王の身体が人々の前に華々しく現前することによってこそ確保されました。見られることが最大の威信を担ったわけです。そして、「体育は、舞踏がかつてヨーロッパの文化のなかに占めていた位置に、舞踏を代替するものとして出現したのではないか」(p.83)という三浦雅士氏の議論から、大澤氏は次のような考察を導きます。
 体育とはもともとは兵士を鍛えるためのものでした。体育の身体は、きわめて多数の身体を一挙に捉えうるような視線に対して、自らが見られることを想定しています。理論上それは無限遠の上空に存在します。かつては「踊る王」という具体的な存在が威信を集めたわけですが、今では抽象的な視線によって見られることを想定しているわけです。これは大澤氏の独特な用語で言えば、「第三者の審級」の抽象化と言えるでしょう。
 「第三者の審級」とは、ごく簡単に言ってしまえば、信仰者にとっての神のようなものです。それがなぜ抽象化していくのかと言えば、「第三者の審級」の力が及ぶ範囲を拡大していこうとすれば、次第に普遍的なものにならざるを得ないからです。新興宗教が力を発揮できる範囲はごく限られています。普遍的な世界宗教になるに従って、「第三者の審級」の示す規範は緩いものにならざるを得ないのです。ユダヤ教はユダヤ民族のための宗教であり、その他の民を救うことは考えませんでした。キリスト教では人類すべてが対象ですが、普遍的になった分、ユダヤ教にあった律法は廃棄されることになるわけです。

 規律訓練による権力は、個人を主体化します。つまりパノプティコンの奥に隠れた見えない視線を感じ続けることで、「第三者の審級」が良しとするような価値観へと自分を導くように誘導されるわけです。「第三者の審級」の示す規範が失われた管理型権力ではどうでしょうか? 管理型社会では個人情報は知らないうちに収集され、特定の局面のみの断片的な情報によって個人は判断されます。こうした状況下では主体は断片化されていきます。こうした状況を大澤は「客観的な主体化」と呼んでいます。管理型権力によって収集された情報は、ある人が「客観的に何であるか」を示しているというわけです。アマゾンによって収集された情報が、それをもとにお薦めの本などを提示されると、自分の求めていた本だったような気持ちになってしまうようなものです。また、先日のPC遠隔操作事件では誤認逮捕されたなかには、やってもいない犯行を告白する者も出ました。PCに証拠が残っていると客観的な証拠を突き付けられると、そんなことも起こりうるわけです。このあたりが、管理型権力がわれわれから奪っていく何かであり、大澤氏それを偶有性に関連させて考えているようです。

 かなり思い切って一直線にまとめましたが、こんな粗略な要約では到底この本を読んだことにはならないでしょう。新書とは言え、ここでされている議論は多岐に渡るし、内容もやさしいものではないからです。いつものようにかなりアクロバティックな論理展開と感じる部分もあるのですが、何かしら学ぶべきものが多いのも大澤氏の本なのだと思います。

『おどろきの中国』 社会学者3人による中国の見方

2013.05.30 23:50|社会学
 橋爪大三郎大澤真幸『ふしぎなキリスト教』は、2012年の新書大賞を受賞した本ですが、一部では評判が悪いようです。「事実誤認が多い」というのが主な批判点ですが、「キリスト教」に関しては詳しい人が多いからこそ、細かな誤りを指摘する人が多いのでしょう。
 しかし、「中国」に関してはどうか? わが国と歴史的に深いつながりがありながら、あまりにも知られていないのではないでしょうか。中国は日本人にとって西洋以上の謎となっています。『おどろきの中国』ではそんな中国を知り、そこから学ぶための本です。

おどろきの中国 (講談社現代新書)


 今回は宮台真司が加わっての鼎談になっており、日本の代表的な社会学者が三人集まっての本になります。役割分担としては、中国に関する情報は、奥様が中国人で中国に精通する橋爪氏が担当。ほかのふたりからの質問に、橋爪氏が回答するという形式で進みます。宮台氏は社会学理論でそれを整理し、大澤氏は鼎談全体の司会進行を務めます。
 ちなみに大澤氏が群像で長らく連載中の『世界史の哲学』でも、このところ中国についての論考が続いており、『おどろきの中国』で橋爪氏が披露した中国論を大澤氏が独自の興味関心に引きつけて論じています。

 三人の社会学者はこの本を記す前に、橋爪氏の案内で取材のための中国旅行をしています。そして、中国のタクシー運転手のアグレッシブさにおどろいています。まったく自己中心的でゆずりあう意識などなく、日常的にチキンゲームをやっている。それでいて事故が起きないのもおどろきなのですが、「空気を読む」ことが得意な日本人からするとその行動様式は理解しがたいように思えます。
 しかし橋爪氏はこう言います。

個人主義的で、ルールなんかまるで守ってないように見えるけど、それは、日本人がそう見るからなんです。ルールがないと見えるいっぽうで、彼ら相互の、行動予測可能性はきわめて高いでしょう。相手がどう出てくるか、正確に理解し、予測し合っているわけです。(p.41)


 橋爪氏はこうした中国人の行動様式を、個人心理、国民性、文化などに還元してはいけないと言います。そんな「歴史の蓄積のなかで育まれた、中国の人びとの基本フォーマット」を、中国文明の系譜全体として受け止めないと理解しがたいものなってしまうのだと。われわれの考え方で中国を測ろうとせず、中国の物の見方を謙虚に学ぶことが目的となっているのです。
 こうした論理の筋道はほかにもあります。「近代の主権概念vs.東アジアの伝統」という部分。近代の「主権概念」というのは、当然のものとわれわれは考えてしまいます。しかし、その「主権概念」という考え自体が西洋由来のものであり、社会学を含む社会科学の理論も西洋仕様になっているために、それを正しいものと考えてしまっているだけかもしれないのです。
 ここでの「東アジアの伝統」というのは、「朝貢体制」と言われるもので、それは「近代的な主権概念では定義できないもの」です。中央(中国)に皇帝が存在し、その周囲にいる王を認めるという形で成立するシステム。「朝貢」のシステムでは、琉球王国のように明(中国)と日本の両方に従属的であることは可能になるのだとか(これは主権国家にはあり得ないこと)。そのシステムでは朝鮮も日本もチベットも朝貢国のひとつになります。だからチベット問題なども「主権概念」と「朝貢」システムとの論理の違いによる問題とも言えるようです(かなり偏った考えかもしれませんが)。
 社会学とは「社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズムを解明するための学問」であるとされます。そんな社会学が世界人口の約20%を占めるとされる中国人の社会について論じることができなければ、社会学の存立に関わります。社会が存在するのが西洋だけではないのは当たり前ですし、次代の世界の中心的存在となるであろう中国を理解することはいままで以上に重要です。
 ただ、この鼎談はやや中国寄りの主張が多く、特に後半の歴史や政治問題などでは日本人にとっては耳の痛い箇所もあります。しかし、西洋中心の論理は世界を覆っているし、日本に関してはわれわれにとっては日常的なものであるわけで、中国側からの意見に耳を傾けるのも重要なことだと思います。そんな中国論の入門として学ぶところの多い本です。

 最後に「なるほど」と思ったことについて。表音文字はローカルな言語を表記できますが、それだけでは意味がわからない。漢字は絵のようなものです。概念をかたどったものであり、具体的なものならローカルな言語がわからなくても、意味がわかります。中国では地域によって言葉はまったく違います。漢字の読み方も地域で異なりますが、その表記を見れば意味は通じるのです。そのことで昔から漢字が読める人たちの意思疎通が可能だったわけです。
 また中国では漢字の数だけ概念があります。それが一字一音とされます。発音は複雑であり、音を聞いただけでほとんどの漢字を判別できます。日本では音韻システムが中国に比べ貧弱なため、漢字を導入したらたくさんの同音異義語が生まれてしまいました。これでは音だけでは意味がわからないことになるわけです。文章を書く際に日頃から悩まされる同音異義語というのは、こうした原因によるものかと納得しました。