『現代思想の時代 〈歴史の読み方〉を問う』 普遍性と特異性
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1 「理想」の終焉、「虚構」の胎動:1973‐1995
2 回帰する不可能な“歴史”:1995‐2011
3 3・11以後と“世界史”の哲学:2011‐
これまでの『現代思想』の歴史を振り返ることで「現代思想」の展開を検証するということがテーマですが、目次を見るとわかるように、大澤真幸の「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」という区分に引き寄せた分析がなされていますし、第3章では現在『群像』で連載中の「〈世界史〉の哲学」に関して、これまでを振り返り今後の展開について触れられています。そういう意味で『現代思想』についてはよく知らなくても、大澤真幸の熱心な読者には親しめる内容になっているかもしれません。
『現代思想』という雑誌は知っていても、僕自身は特集によって立ち読みするくらいでしたが、「現代思想」を勉強しようという学徒には違っていたようで、80年代を中心にした黄金期には『現代思想』が「現代思想」のアジェンダ・セッティングをしていたと一般的には考えられているようです。しかし、その後はちょっと様子が違ってきます。
こうした変化を自分がわかる言葉で要約すれば、「大きな物語」が失われ「小さな物語」が乱立するという状態ということかと思います。90年代に入ってマルクス主義的な言説の有効性が疑われるようになって、そのあとには世界全体を説明するような「大きな物語」が現れなくなります。あらゆる言説が相対化されることになるというわけです。
この対談では、浅田彰が97年の講演で『構造と力』(1983年)の解説をしていたというエピソードが登場しますが、別に浅田彰がその後の現代思想の展開を知らなかったというわけではなく、浅田彰にとってそれ以後はすべて相対化された「小さな物語」のひとつに過ぎないという判断があったからなのでしょう。
この対談ではそういったことは「普遍性」と「特異性」という言葉でも言い換えられています。西洋の思想が普遍的なものと考えられていた時代ではなくなったということが、「大きな物語」が失われたということだと思います。そうすると「みんなそれぞれ」ということになって、特殊=個別のほうが重要になってきます。そんな潮流にあったのが、たとえばカルチュラル・スタディーズのようなものなのでしょう。
柄谷行人は「特殊性(particularity)」に対する「単独性(singularity)」というものの重要性を説いたわけですが、大澤もその議論を受けています(大澤の場合、singularityは「特異性」と記されます)。そして柄谷行人『世界史の構造』が「世界史の通時的な運動の前提となっているような、共時的・論理的な構造」を取り出すことに重心があるのに対し、大澤は「歴史のなかで起きている出来事の持っているまったくの偶発性が宿す普遍性にこだわっている」のだと整理しています。
これまでの、例えばカルチュラル・スタディーズが出てきてさまざまな歴史の相対化がなされたときには、それぞれの歴史の特殊性だけを言い合いながら、「みんなそれぞれだよね」と確認していただけでした。しかし、それだけだと「普遍」が失われてしまう。私は「普遍」というものを見るためには、「特殊以上の特殊としての特異」にまで遡行していかなければならない、という直観があるのです。 (p171‐172)
ここで特異な出来事として考えられているのが、「〈世界史〉の哲学」でも何度も取り上げられているキリストの殺害です。『群像』の連載(9月号)でも、映画『愛と追憶の日々』と絡めてキリストが取り上げられています。今後の「〈世界史〉の哲学」の展開では、最後に日本というある意味でかなり特殊な場所が論じられることになるようで、これからも楽しみです。