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『正義から享楽へ』 本来、愛は不可能なものらしい……

2017.02.18 21:54|社会学
 社会学者の宮台真司氏の映画本の第三弾。
 宮台氏の映画に関する本としては『絶望 断念 福音 映画 「社会」から「世界」への架け橋』『〈世界〉はそもそもデタラメである』以来のもの。
 『絶望 断念 福音 映画』と『〈世界〉はそもそもデタラメである』は手元にあって繰り返し参考にしている本で、久しぶりのこの本も楽しみにしていました。先の二冊にはあまりなかった精神分析的な視点が導入されたり、定住革命的な視点が付け加わったりしつつ、2015年から2016年にかけて劇場公開された新作映画について論じています。

正義から享楽へ-映画は近代の幻を暴く-



 一応映画批評という形式にはなっていますが、宮台氏のそれにおいては批評の対象となる映画は社会を論じるにあたっての題材にすぎない部分があります。だから作品そのものの出来とは関係ないこともあります。たとえば『絶望 断念 福音 映画』に登場する『マトリックス・リローデッド』など個人的にはその前作に比べて退屈な作品だと思いますが、宮台氏は作品をけなしつつもそこから有意義なテーマを取り出してきて論を展開していきます。だから作品の出来不出来と、宮台氏の書く文章は関係ない部分があって、「重要なことが描かれているらしい」と思ってその作品を見ると肩透かしを食らうということがあるかもしれません。
 それから博覧強記の人だけに、かなり圧縮した文章になっている部分も多いと思います。たとえば『FAKE』(あの佐村河内守氏を追ったドキュメンタリー)のパンフに自身が書いた文章を引用し、それを自らで解説しているのですが、結局それは引用の何倍もの分量になってしまうわけで、僕のように社会学や哲学などの素養に乏しい人には読みづらく感じられるかもしれません。ただ、扱われていることは共通している部分もあって、繰り返し同じことが語られたりもするので、読んでいくうちに次第に理解が深まることも確かです。

 この本で特に強調されているのが、「可能性の説話論/不可能性の説話論」について論じた部分でしょうか。

 映画や小説などの表現には二つの対照的なフレームがあります。第一は、本来は社会も愛も完全であり得るのに、何かが邪魔をしているので不完全になっているとするフレーム。不全をもたらす障害や悪の除去が説話的な焦点になります。
 第二は、本来は社会も愛も不可能なのに、何かが働いて、社会や愛が可能だと勘違いさせられているとするフレーム。そこでは、ベタに可能性を信じて悲劇に見舞われる存在と、不可能性を知りつつあたかも可能性を疑わないかの如く<なりすます>存在が登場します。(p.180~181)


 「可能性の説話論/不可能性の説話論」という枠組みで論じられる作品には、『FAKE』『カルテル・ランド』(社会の不可能性)や『さざなみ』『LOVE 3D』(愛の不可能性)などがあります。これらの作品に共通する部分などないように感じられますが、宮台氏は抽象的なテーマを取り出してきて論じていきます。
 宮台氏の批評は単なる映画の感想ではないわけで、それでは何を目指しているのかと言えば、読者であるわれわれに意識の変革を求めているということになるだろうと思います。宮台氏はかつて革命家を目指していたなどと言っていたりもしますが、革命云々はともかくとしても、エリートとして国のあり方や大衆をどう導くかという啓蒙的な視線があることは確かでしょう。
 「可能性の説話論/不可能性の説話論」という枠組みで言わんとしていることも、「〈世界〉はそもそもデタラメである」(これは宮台氏の著作のタイトル)ということであり、ごく一般的に信じられている社会秩序というものこそが奇跡的なものだということです。今、われわれの目に映っている社会が本当かどうかを疑うような視点へと人を導くことでもっと開かれた可能性を探ろうとしているということになるのだろうと思います。そうした目論見が成功しているかと言えばなかなか難しいようですが……。
 やはり人は物事に対して「見たいものしか見ない」という見方に留まってしまう場合が多く、何かに気づいてさらにその先の「ここではないどこか」へ行こうなどというような贅沢まではあまり求めないのかもしれません。

絶望・断念・福音・映画―「社会」から「世界」への架け橋(オン・ザ・ブリッジ) (ダ・ヴィンチブックス)


「世界」はそもそもデタラメである (ダヴィンチブックス)


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『可能なる革命』 <革命>へと至る狭い通路

2016.12.03 19:13|社会学
 『不可能性の時代』などの大澤真幸氏の最新刊。

可能なる革命 (atプラス叢書)



 今さら「革命」なんて言葉を使ってもというツッコミは著者も当然意識しているようで、なぜわざわざそんな言葉を持ち出してきたのかというところからこの本は書き起こされています。
 かつて「革命」という言葉は、社会主義やその先にある共産主義の実現を目指す運動を意味していました。しかしソ連はすでになく、中国は社会主義市場経済などと謳い、資本主義を受け入れています。結局、資本主義は全世界を覆っていて、そこから外に出ることは不可能となり、今では「革命」などという言葉を使う人はいません。
 しかし一方で、この社会に何も問題はないと考えている人もいないわけで、日本でも政府与党も野党も「変革」だとか「改革」など、変化を求める言葉が叫ばれています。最も劇的な変化を思わせる「革命」という言葉だけは避けられることになっていますが、決して変化を求めていないわけではないわけです。
 この本での「革命」という言葉の捉え方は、「資本主義を否定する制度や社会の構築を目指す」という狭いものではありません。それは<革命>という表記で示されます。それが具体的にどのようなものになるのかははっきりとはしませんが、この本では<革命>への可能性へと開かれるための考えが検討されることになります。

 最初に投票はせずにデモに参加する若者のことが分析されています。反原発デモに参加するくらいだから政治に関心がないわけではないにも関わらず、自らの意思表示をする場面である選挙のことは忘れているというのはどういうことなのでしょうか? 著者は、反原発デモでは若者にとって「私的」なものが「公的」なものへと結びついていたとします。しかしそれ以外の政治の場は、若者にとって自分には関係ないものと見えていたということになります。重要なのは「私的」なものが「公的」なものと直接に結びつく場合があるということだと思います(どこか「セカイ系」のような匂いを感じますが)。
 さらにそういう例として著者が挙げるのは、オタクと呼ばれる人々です。原初のオタクである鉄道オタクは、鉄道という特殊な分野に耽溺する人々ですが、彼らは自分たちの住んでいる地方から、可能性に満ちた大都会である東京へと自らを結びつけてくれる鉄道というものに全世界を感じ取っていたのではないか。そんなふうに著者は論理を展開しています。
 別の言い方をすれば、鉄道オタクは鉄道のネットワークに普遍的な世界の全体を写像している、そんなふうになります。オタクは特殊な世界にのめり込むわけですが、そういう特殊な世界が実は普遍的な世界へとつながる可能性を秘めているということです。先ほどの「私的」なものが「公的」なもの結びつくのと似ているわけです。

 なぜこうした狭い通路が探られているのかといえば、かつては普遍的な理念や理想を指す「民主主義」とか「共産主義」とか「経済大国」といった言葉が素直に信じられた時代があったのかもしれませんが、現在はそうした時代とは違うからです。

 どのような理念、どのような理想、どのようなイメージをもってきたとしても、直接に、普遍的な魅力を発揮できないのだ。普遍性を標榜する、どのような理念・理想・イメージも、実際には、部分的であり、欺瞞的で、白々しいものに感じられる。ここにAという理念やイメージをもってきたとしても、普遍性Uを志向する者にとっては、「それは違う」「それに尽きるものではない」という感覚が、否みがたく生ずるに違いない。(p.234)


 こうした感覚を著者は「余剰的同一性X」と呼んでいます。普遍性を示す言葉では捕えきれなかった「何か」ですが、これの代理となるものが普遍的なものとはまったく関係ない「特殊なもの」になるのではないかということです。
 オタクのあり方に可能性を見出しているのはそういう意味合いです。もちろんオタクはあくまで例にすぎず、抽象的に言えば「普遍的なもの」へとつながるための「特殊なもの」というのが著者の問題意識となっています。こうしたテーマは『現代思想の時代 〈歴史の読み方〉を問う』という対談でも論じられていました。

 今回僕がまとめたのはやや抽象的な話になっていますが、この本は世間で注目を浴びたテレビドラマや映画やマンガを分析するものとなっています。『桐島、部活やめるってよ』での一種の主役の交替となる場面の分析は「なるほど」と思わせますし、『あまちゃん』については『不可能性の時代』の図式(理想⇒虚構⇒不可能性)にピタリと当てはまる読みをしてみせています。著者は宮藤官九郎脚本のドラマのなかでもこの『あまちゃん』をとても評価していて、僕自身は『あまちゃん』を一度も見たことがなかったのですが、ちょっと見てみたくなりました。

 今後の展開を予想させる言葉も示されていますし、この本には続編となるべき本が登場するものと思われます。次に検討されるのは『動物的/人間的 1.社会性の起原』などでも展開している<動物と人間>を巡る考察となる予定だそうですが、それがどのように<革命>とつながってくるのか興味は尽きないところです。

不可能性の時代 (岩波新書)


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『国家がよみがえるとき』 フィンランドの起業事情など

2015.08.31 22:39|社会学
 社会学者・古市憲寿とフィンランドの社会学者・トゥーッカ・トイボネンとの共著。共著というよりはふたりは編集が主で、フィンランドの学者たちによるフィンランドについての論文・エッセイがまとめられたものになっています。フィンランドという国そのものから、フィンランドの「教育」「若者」「イノベーション」などのテーマが論じられています。

国家がよみがえるとき 持たざる国であるフィンランドが何度も再生できた理由



 フィンランドにはアキ・カウリスマキという有名な映画監督がいますが、彼の映画を見ればフィンランドが理解できるかと言えばそんなことはないわけで、それは黒澤明の映画を見て日本がわかったつもりになるのと同じように浅はかなこと。もちろんフィンランドが北欧の国というくらいは知っていますが、それ以外はほとんど何も知りませんので、その点では学ぶことの多い本でした。
 北欧の国ということでどことなくオシャレなイメージがありますし、福祉国家というのもまったくの間違いではないようですが、現実のフィンランドはそんなイメージばかりが当てはまるわけではないようです。古市氏がわざわざフィンランドについて学んでいるのは、フィンランドがこれまで何度も挫折し、その度に復活してきた国だからです。
 フィンランドは歴史的にロシアやスウェーデンの支配下にありました。第二次大戦ではそれまでの経緯からロシアと戦うことになり、それはそのままドイツと組む形ともなり、日本と同じ枢軸国として敗戦を迎えることになったようです。それから80年代に好景気を迎え、90年代に不況に入りますが、ここでフィンランドは教育改革とIT化を進め、ノキアという電気通信会社は携帯電話の市場占有率トップになります(現在ではマイクロソフトに売却されてしまいましたが)。

 古市氏は『僕たちの前途』「起業という生き方」について論じていましたが、今回の本もフィンランドが「起業大国」となった点に関心を抱いているようです。
 「福祉国家体制が起業の敵となる」という見解もあるようです。最低限の生活が保証されていれば、わざわざチャレンジしないということでしょうか。しかし、実際にセーフティネットに頼らざるを得ない人は起業を考えたりはしないという考えもあります。たしかに起業する人は成功を夢見ているわけですから、セーフティネットの有無は関係ないような気もします。しかし、フィンランドでは起業で失敗してもそれを貴重な経験として認めるようなところもあるようで、失敗しても最低限の生活は保証されているし、さらに再チャレンジの場もあるということです。日本は再チャレンジなど難しそうですから、そんな意味ではフィンランドで起業に対する敷居が低くなるのもわかります。日本はやはりフィンランドに学ぶべきところも多いようです。
 ただ、日本が起業によって立ち直ることになればそれはいいことですが、それは一部の限られた人のことであって、それ以外の人はどうなんだろうかとも感じます(これは『僕たちの前途』でも感じたことですが)。イノベーションによって国が全体的に底上げされてよくなるということなのかもしれませんが、ひどく他力本願のような気もします。
 それにしてもセーフティネットがあるとも思えないアメリカで起業率が高いのは一体どういうことでしょうか? これはまた別の要因があるのでしょうが……。

『自由という牢獄』 神が存在しなければ、すべてが許されない?

2015.04.29 21:17|社会学
 大澤真幸の自由論には『<自由>の条件』がありましたが、この『自由という牢獄』は、これまでに雑誌に発表した論文「自由の牢獄」「責任論」「〈公共性〉の条件」と、第4章の書き下ろしを含めたものになっています。

自由という牢獄――責任・公共性・資本主義



 1989年に冷戦が終結し、その後ほかの社会主義政権も軒並み倒れました。社会主義が求める「平等」よりも、資本主義が標榜する「自由」のほうがよかったということが明らかになったわけです。したがって「冷戦以降の社会科学と社会思想の最大の課題は、自由な社会はいかなる条件のもとで可能か、ということに集約されるはずだ」(p.6)と大澤は言います。そして自由であるがゆえに選択肢が多すぎて、どれを選ぶこともできなくなります。そんな状況について論じたのが第1章の「自由の牢獄」(この言葉自体はミヒャエル・エンデの短編から)です。
 第4章「不・自由を記述する赤インク」では、自由を資本主義との関連で検討していきます。ここで大澤は以前より拡大している格差の問題に関して、今、巷で売れているというトマ・ピケティの本(『21世紀の資本論』)を引いて論じています。
 「資本分配率>労働分配率」というのがピケティの本の要諦らしいのですが、資本分配率のほうが大きいと富裕層に有利に働くため格差は拡大していきます。大澤はこれをマルクスの「剰余価値」の議論へ結びつけ、さらに「形式への欲望(貨幣への欲望)」の過剰というものだと論じています。

 次に大澤は「市場による道徳の締め出し」と呼ばれる現象に注目します。これはマイケル・サンデルの本にも登場する、ある実験から導き出されたものです(大澤はここでサンデルの本の書評もしています)。かなり大雑把に要約すれば、ある有意義な目的のための寄付を行うとして、そのときあるグループは寄付の重要性を説かれて送り出され、別のグループは集めた寄付の金額に応じて金銭的報酬も出ると告げられます。
 常識的な理解によれば、金銭的なインセンティブがあるグループのほうが寄付をより多く集めそうですが、実験の結果はそうではありませんでした。無報酬のグループのほうがより多くの寄付を集めたのです。
 寄付を集めるのは崇高な行為です。これは行為そのものが目的となっています。しかしそれに金銭的なインセンティブという手段(金を稼ぐために寄付を集める)が加わってしまうと、崇高な目的であった寄付を集める行為そのものがうまくいかなくなってしまうのです。

 にもかかわらず市場では金銭的なインセンティブが優位になるのはなぜかと大澤は問います。ここで「自由」の問題が関わってきます。第1章にもあったように選択肢があまりに多い場合、それ自体が「目的」となるような行為を人は選ぶことができるのかということです。つまりは「自由の牢獄」というわけです。
 さらに大澤は『カラマーゾフの兄弟』のなかの「もし神が存在しなければ、すべてが許される」という有名なフレーズからヒントを得て、「自由」について論じています。伝統社会は「神が存在するがゆえに、(いくつかのことが)禁止されている」状態です。これをもとにして前件に「神の存在/不在」を置き、後件に「禁止/許容」を置くと三つの変異版ができます。

①神が存在しなければ、すべてが許される 
           (例:『カラマーゾフの兄弟』)
②神が存在するならば、すべてが許される 
           (例:オウム真理教)
③神が存在しなければ、すべてが許されない 
           (例:「自由の牢獄」、ひきこもり)

 どちらかと言えば③のようにひきこもりがちな人間として、こうした議論も何となくわからないでもないような気もします。

『「知の技法」入門』 大澤真幸の読者なので……

2014.12.31 08:23|社会学
 90年代に『知の技法』『知の論理』『知のモラル』というシリーズが結構売れていたことは知っていたのですが、そのキャッチコピーである「東大生の教科書」みたいな触れ込みに萎縮してまったく読んでいませんでした。何となく難しそうで……。今回の『「知の技法」入門』は、大澤真幸が対談の相手となっているために手に取りました(共著者はシリーズの編者である小林康夫)。

「知の技法」入門



Ⅰ 入門篇
  第1章 「人文書」入門―タイタニック号の乗員の
                     ためのブック・ガイド
  第2章 「読書の技法」入門―速読、精読、ノート法
Ⅱ 理論篇
  第3章 誰にもわかる「実存主義・構造主義・ポスト構造主義」
              ―二〇世紀の思考の大きな流れを知る
  第4章 自然科学と人文科学のインターフェース
            ―意識と物質のミッシングリンクを考える
Ⅲ 「知の技法」とは何か?


 この本は世の中で最近重要視されている自然科学と比べ、かなり旗色が悪い人文科学という分野に関して論じた対談集です。第1章は人文書の入門ということで、ブックガイドも付いています。当然のことながら自然科学を無視することはできませんから、ふたりの対談者は人文科学の側から自然科学の側への橋渡しの役割を担おうとしているようです。
 僕が連載を追いかけている大澤真幸の「社会性の起原」でも、サル学の研究成果を追いながら、社会学的な問題を追及しています(『動物的/人間的 1.社会性の起原』という著作もありました)。たとえばチンパンジーの認知能力の研究によると、数の順序を理解していて、しかもその反応スピードは人間より速いのだと言います。とはいえ、チンパンジーが数の概念を理解していることにはなりません。

 われわれが、「数を理解している」、「数の概念を持っている」ということがどういうことなのかを、自分でもよくわかっていないからなんです。つまり、謎はチンパンジーの能力の側にあるのではなく、自分自身の能力、人間の能力の側にある。(p.188)


 チンパンジーの数の理解に関して研究することで、人間の数の理解に関してより理解が深まることになるわけです。
 小林康夫のほうはチンパンジーと人間に断絶があるのだとすれば、その断絶を断絶のまま、理解できないままにしておくことが大事と考えているようです。しかし、大澤はそこに自分自身で納得のいく説明を見つけ出そうと考えています。
 学問的な厳密性からすれば小林康夫のほうが正しいのかもしれません。大澤の議論は時にアクロバティックなものに感じられることもありますが、そういう部分も個人的には好きなのです。