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『白鯨』 強大な本をつくるための強大な主題

2016.01.31 13:03|小説
 作者は以前『書記バートルビー/漂流船』も取り上げたハーマン・メルヴィルで、角川文庫版の翻訳者は富田彬

白鯨 (上)<白鯨> (角川文庫)


白鯨 (下)<白鯨> (角川文庫)



 現在公開中の映画『白鯨との闘い』に合わせて読んでおこうと思って手に取ったものだったのですが、映画のほうは『白鯨』の映画化ではありませんでした。映画版のことを先に記せば、『白鯨』の元ネタとも言われる『復讐する海 捕鯨船エセックス号の悲劇』という本が原作となっています。
 映画のなかでは、メルヴィルがエセックス号の最後の生き残りの人物と会い、その話を聞かせてもらうところから始まります。その話を聞いたメルヴィルがのちに『白鯨』を書くことになるわけですが、実際にはまったく別の作品となっています(映画では白鯨との闘いはあっけなく終り、さらに別の闘いが続きます)。
 ただ細かい描写は、小説『白鯨』に描かれたものがそのまま登場する部分もあります。たとえば鯨油を採るために鯨を船に縛りつけ、鮫にそれを邪魔されながら作業するところなどは『白鯨』の描写そのものでした(脳油を採る場面が結構グロテスクでした)。映画では白鯨のような巨大な鯨が出てきてすさまじい攻撃を人間たちに仕掛けてきます。『ジョーズ』の鮫がいかにも作り物だったのに比べ(『ジョーズ』は最高にドキドキさせますが)、最新のCG技術を駆使して出来上がった白鯨は迫力がありました。

 というわけで小説『白鯨』ですが、この小説では白鯨はなかなか登場しません。噂だけは伝わってきますが、全135章のうちで本当に白鯨が登場するのは第132章になってからです。それまでも海を巡りながら様々な冒険がありますが、話がどんどん脱線していくところがこの小説のオリジナリティであって、鯨を題材にして世の中のすべてのことを書き記そうとしているのかもしれません。

 この巨鯨に関する俺の思想を筆にするだけで、その思想のおよぶところのあまりに広汎なため、俺は疲れ、気が遠くなる思いがするのだ。学問の全領域、現在と過去と未来の鯨と人類と巨象のすべての世代、地球上の、全宇宙の、さらにその周辺をもふくめての帝国の回転するパノラマまでも、包括せんとするかに思われる俺の思想。大きくて自由な主題の大きさにまで膨張する。強大な本をつくるためには、強大な主題を選ばねばならぬ。蚤について、偉大な不朽な本はぜったいに書けぬのだ、書いてみた者は、たくさんいるかもしれぬが。(下巻 p334‐335)

 こんなふうに海洋冒険小説とはちょっと違った味わいのこの作品はいったいどんな小説なのかと言うとよくわからないところもあります。講談社文芸文庫の翻訳者の千石英世氏は「暗示でしか語ることのできないもの」という文章でこの小説を解説しています。エイハブ船長や語り手であるイシュメールたちの乗るピークォド号に関して、その名前から白人によって滅ぼされたピークォド族というインディアンの姿を読み込んでいます。そうなるとピークォド号と闘うことになる白鯨は白人の象徴となるわけですが、「そんな教訓に読み替えられる譬え話ではない」とも注意を促しています。
 また、『白鯨』を「世界の十大小説」のひとつに数えているサマセット・モームは、小説が寓意や象徴に堕するような読み方をするよりも、知的な楽しみのために読むことを薦めていて、「この作品に他に類例のない独特な力をあたえているのは、いうまでもなく、エイハブ船長の邪悪な巨大な姿である」としています。
 そんな意味で人によって様々な読み方ができる小説なのだろうと思います。僕自身はエイハブ船長の白鯨への憎悪が、どことなく『海底二万里』のネモ船長の怒りへつながっていくようにも思えました。ジュール・ヴェルヌが『白鯨』の影響を受けていたのかどうかは知りませんが……。

復讐する海―捕鯨船エセックス号の悲劇


『未成年』 命を救うのは信仰なのか法律なのか

2015.12.20 20:26|小説
 『贖罪』『甘美なる作戦』などのイアン・マーキュアンの最新作。

未成年 (新潮クレスト・ブックス)



 主人公のフィオーナは60歳を間近にした女性裁判官です。中心となるエピソードはエホバの証人の輸血拒否にかかる裁判ですが、ほかにも様々な事例が登場します。結合双生児の分離手術では、片方を生かすために、片方を死に追いやることをフィオーナは決断しなくてはなりません。ユダヤ教の両親の離婚に関する裁判では、子供が父親に引き取られれば厳格なユダヤ共同体のもとで生活することになり、母親に引き取られれば宗教的には比較的自由な環境に置かれることになります。フィオーナはその都度世俗社会で合理的と認められるような判決を出しています。
 裁判官も人間ですからごく普通の生活もあります。この小説はそうした部分も描かれています。フィオーナの旦那は「7週間と1日」もの間セックスレスだという理由を挙げて、ほかの女とのエクスタシーを求めて家を飛び出していったりもします。フィオーナはこれまでの夫婦関係について振り返ることにもなります。「7週間と1日」というのは結合双生児についての判決を出してからの日数であり、どちらかを殺す決断をしなければならないフィオーナはそうしたことに励む気分ではなかったわけで、裁判官という仕事は他人の人生を大きく左右する部分があるだけにやっかいそうです。

 ※ 以下、ネタバレもありますのでご注意ください!


 エホバの証人の輸血拒否では日本でも子供が死亡する事件があったようです。この小説のアダムという少年はあと少しで18歳になるところです。彼は白血病であり、ただちに輸血をしなければ重大な結果を招くことが予想されています。さらに舞台となるイギリスの法律では18歳以下の未成年には自己決定する能力がないものとされます。アダムの家族はエホバの証人の教えを信じていて、両親は輸血を拒みますが、病院側は輸血をすることで治療をもっと有効なものにしたいと考えます。アダム自身も表面上は輸血を拒否しているようですが、その言葉が両親からの押し付けになっているのかもしれないわけで、フィオーナはギリギリの選択を迫られることになります。子供の福祉というものを優先させるのか、信仰のほうを選ぶのか。
 フィオーナの決断は当然のものと思われます。世俗社会で何が合理的と考えられているか。それに照らせばそうならざるを得ないわけです。しかし結末は悲劇に終わります。裁判制度あるいは法律の限界なのかもしれません。フィオーナは普遍的と思われる価値を基準にして裁くわけですが、その価値が本当に普遍的なものかはあやしいわけです。結局は普遍的だと思っている価値を押し付けているということでは、アダムの両親が特定の宗教を押し付けるのと変わりがないのかもしれません。特定の宗教を信じることはその宗教を認めない人にとっては理解できない部分がありますが、合理的な考えがそっくり宗教の代わりになるわけではないことも確かなのでしょう。

『書記バートルビー/漂流船』 バートルビーの不条理な死

2015.11.30 00:19|小説
 『白鯨』のあとに書かれたハーマン・メルヴィルの代表的な中短編。

書記バートルビー/漂流船 (古典新訳文庫)



 「書記バートルビー――ウォール街の物語」
 不条理劇風の短編。法律事務所を経営する“私”が語ることになるバートルビーという男の話。仕事が増えてきてそれまでの人員ではこなせなくなった“私”は、バートルビーという寡黙な男を雇います。しかし、この男は並外れて奇妙な男でした。
 バートルビーは書写の仕事を順調にこなしていますが、ある日、ほかの仕事を頼もうと呼びつけると「わたしはしない方がいいと思います」と断ります。あっけに取られた雇い主は空耳かとも疑うほど驚きます。
 たしかに上司の命令をそんなふうに理由もなく断るのはあり得ない話です。普通ならクビになって終わりだろうと思いますが、ここでの雇い主は何か理由があるのかと探りを入れたりもしますが、バートルビーはそれに答えることもありません。とにかく「そうしないほうがいいと思います(I would prefer not to)」とすべてを拒否していくことになります。
 なぜバートルビーはそんなふうにすべてを拒否しなければならないのか。この短編を読み終わってもそのあたりは謎に包まれたままです。バートルビーは一切を拒否し、最後は刑務所のなかで食事すら拒否して死んでいきます。メルヴィルはバートルビーという人物に何を拒否させようとしていたのでしょうか。
 解説では「陸」のシステムという言葉が使われています。それはこの短編の舞台であるウォール街の資本主義みたいなものを指しているのでしょう。それでもやっぱり不条理な部分は残っている感じもします。この短編に関してはデリダドゥルーズなどの現代思想家が文章をしたためているとのことで、後世に与えた影響も大きいものだったようです。

「漂流船――ベニート・セレーノ」
 漂流している見知らぬ船を見つけたデラーノは、その漂流船を助けるために船に乗り込んでいきます。デラーノは漂流船の船長であるベニート・セレーノに出会います。その船は黒人奴隷を運搬する船で、途中で嵐に出会って漂流していたとベニートは語ります。
 この中編は昔は岩波文庫で『幽霊船』という題で翻訳が出ていたこともあるようです。メルヴィルは「書記バートルビー」とはまったく異なる筆致で、妖しい船を具体的に描写していきます。
 この題名にもなっているベニート・セレーノはちょっと風変わりな人物で、肉体的にも精神的にも不安定な状態にあります。デラーノが援助を申し出ると感謝の気持ちを示すのですが、それが本当に喜ばしいことであるのかを疑わせるようなよそよそしい態度を示したりもします。一体このベニートという船長は何者なんだろうかという謎を孕んだまま展開していきます。
 その前にバートルビーという男について読んでいたので、ベニート船長に関しても世間を拒否するような偏屈な人物かと思っていましたが、次第にその船のなかの様子が不審な動きを見せるようになり、ベニート船長の態度の理由が示されることになります。
 妖しい船に乗り込んでいくデラーノはベニート船長に対して疑心暗鬼になります。そうした緊張した場面から突如として動きのある展開へと移行していくあたりは、映画化してもおもしろい作品になりそうな気もします。

キルケゴール 『誘惑者の日記』 審美的な人生は否定されたのか?

2015.10.31 23:35|小説
 キルケゴール『あれか――これか』という著作に収められた一篇です。昔からこの部分だけで出版されてきたもので、恋愛小説として読まれてきたものとのこと。
 翻訳は桝田啓三郎。



 たしかにコーデリアとの出会いから、彼女への愛を日記に書き付けていき、次第に彼女に接近していくあたりは恋愛小説のようです。キルケゴールの詩人としての才が存分に発揮された文章となっていて読ませるものがあります。それでも『誘惑者の日記』は単純な恋愛小説とも言い難いようにも思えます。主人公はコーデリアと婚約までした挙句に彼女を棄て去ってしまうわけで、これだけを読むとその展開は理解に苦しむようなところもあります。
 それはこの一篇が『あれか――これか』という著作の一部となっているからでもあります。『あれか――これか』は未読なので詳しくはわかりませんが、キルケゴールの入門書などによれば「審美的な人生」(第一部)「倫理的な人生」(第二部)の両面が描かれ、それに対してキルケゴールが「あれか――これか」という選択を迫ることになります。その審美的な例として登場するのが、『誘惑者の日記』という一篇になるわけです。ごく一般的にはその選択では「審美的な人生」は否定される側にあるようです。

 そんなわけで「審美的な人生」を描くこの作品ですが、ここではドンファンのように多くの女性を渡り歩くのではなく、コーデリアひとりを相手にしてその恋愛における「インテレサントなもの」をすべて引き出すということが追求されています。「インテレサント」とは「著しく人の関心、興味、共感を呼び起こすような性質をもった」「著しい精神的な、つまり知的な、影響ないし感化をおよぼすような」という意味とのことです。主人公のコーデリアという女性に対する態度は、上から教え導くような感じであり、最後は「インテレサントなもの」を味わい尽くして棄ててしまったようにも見えます。
 結局なぜコーデリアが棄てられればならないかはわからないわけですが、『誘惑者の日記』という一篇はキルケゴールの実人生におけるレギーネとの事件が元になっていることが重要になってくるようです。キルケゴールはレギーネという女性を愛していたようです。実際に婚約した瞬間はそうした普通の生活ができるとも考えたのかもしれませんが、すぐに憂愁の念に襲われます。その憂いはキルケゴールが「大地震」と呼ぶ出来事に発しているとは推測されますが、キルケゴール自身はそのことに関して書き記してはいないために謎となっているようです(『誘惑者の日記』にもそうしたことは記されていません)。
 誘惑したコーデリアを棄ててしまうという展開は、キルケゴール自身の経験からきているわけですが、それをことさら悪意とも思える書き方で描いているのは、それをレギーネに読ませてキルケゴール自身が悪者となるという意図があったからのようです。つまり婚約破棄事件はキルケゴールに問題があっただけで、レギーネには何の責任もないということを宣言するためのものだったわけです。

 こうした流れを追っていくと、たしかに「審美的な人生」は否定されているようにも思えます。しかし、翻訳者の桝田氏が「『誘惑者の日記』の意義をほんとうに理解した研究が皆無といっていいありさまなのである。」(p.532)と憂慮するように、そうした見方には疑問も残るようです。『あれか――これか』という著作の第一部は逆説的に読まれる必要があり、第二部の「倫理的な生活」のほうが人の目を欺くための隠れ蓑だと示唆しており、一般的に言われるような単純な書物ではないのだと言います。僕自身は未だ『あれか――これか』を読んでいないので何とも言えませんが、約70ページに渡る解説には説得力があったと思います。

『泰平ヨンの未来学会議』 人口過剰となった未来の姿

2015.09.30 20:06|小説
 スタニスワフ・レム「泰平ヨン」シリーズの1冊。
 1984年の深見弾氏が翻訳したものを新たに大野典宏氏が改訳したもの。
 今年6月に公開になった映画『コングレス未来学会議』に合わせて発売されたものと推測されます。

泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)



 スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』『虚数』を一度は読んだはずですが、正直あまり詳しくは知りませんでした。この『泰平ヨンの未来学会議』はそれらとはまったく違ったスラップスティック・コメディです。
 主人公は泰平ヨンですが、彼の一人称「私」で物語は進んでいきます。コスタリカで開催された未来学会議ですが、会場でテロが起きたりして大騒ぎとなります。しかし、「私」が滞在先のホテルで水を飲むと、そんないざこざを忘れて慈愛に満ちた心地になり、誰彼ともなく抱きしめたくなるような気分になってしまいます。
 これは軍がテロ鎮圧のために仕掛けたもののようで、そのほかの化学的な兵器で人々の意識をコントロールしていきます。そんな混乱状態のなか「私」も重症を負い、いつの間にかに黒人の若い女にその脳が移植されたりもします。そうなると「私」=「主人公ヨン」はいったい誰なのかわからなくなるわけですが、唖然としている間もなく「私」はコールドスリープで一気に未来の世界へとタイムスリップします。
 そんなこんなで全篇が悪夢のようでもあり読みやすい作品ではないですが、その一方でブラックユーモアに溢れてもいます。未来世界では不死になったために<生きる>を<生繰いくる>と書くとか、ダジャレめいた言葉遊びもちょっと笑わせます(翻訳者泣かせの部分だと思いますが)。

 『攻殻機動隊』のような義体というアイディアもありますし、『マトリックス』フィリップ・K・ディック作品みたいに現実は普段見えている世界とは別の姿として現れてきます。1971年に書かれた小説だということですから、多くの小説や映画にも出てくるようなアイディアもこの本が先取りしていた部分もあるのかもしれません。主人公ヨンがコールドスリープにかけられたときは、1ページに「無」とだけ記してあるような部分が続き、高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』なんかを思い出しました。
 映画版はなぜか実在の女優ロビン・ライトが主演で本人役を演じるということで、泰平ヨンは登場しないようですが、劇場では見逃したのでソフトが登場するのを楽しみにしたいと思います。

スタニスワフ・レムの作品