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『人生の段階』 今の時代のグリーフ・ワーク

2017.04.25 23:09|小説
 『10 1/2章で書かれた世界の歴史』『アーサーとジョージ』などのジュリアン・バーンズの作品。

人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)



 この作品は一応小説ということになるのかもしれませんが様々な要素が合わさった奇妙な構成になっています。全体は三部構成で、第一部「高さの罪」は歴史的エピソード、第二部「地表で」はフィクション、第三部「深さの喪失」はメモワールとなっています。
 それぞれの冒頭には、「組み合わせたことのないものを組み合わせる」というテーマが記されています。「高さの罪」で組み合わされるのは、写真術と飛行術になります。ナダールという人物は、気球に乗って大空から地上の写真を撮影することで神瞰図という視点を得ることになります。
 「地表で」において組み合わされるのは、サラ・ベルナールという実在した女優とフレッド・バーナビーという軍人です。このエピソードは作者の空想ですが、フランスの奔放な女優とイギリス出身のボヘミアンの関係はうまくいくことはありません。気球に乗って高さを獲得すれば墜落することもあるということでしょう。
 そして「深さの喪失」で組み合わされるのが、作者であるジュリアン・バーンズとその亡くなった奥様ということになるでしょう。「組み合わせたことのないものを組み合わせる」というのは、何より夫婦の関係のことを示していると言えるでしょう。男女の関係はサラ・ベルナールとバーナビーのようにうまくいかない場合もありますが、バーンズ夫妻のようにその組み合わせによってそれまでなかった新しい何かを生み出すことになる場合もあるのでしょう。
 人は飛行術によって神のような高さを手に入れることに成功しましたが、未だにやはり地表においてやっていることは以前とさほど変わりなく、さらに科学技術によって迷信も駆逐され、かつてのギリシャ神話のオルフェウスのように冥界へと伴侶を迎えにいくこともできません(深さの喪失)。そんな世界においてのグリーフ・ワークというものがどんな形になるのか、そんな問題を作者は自身の経験をもとに記しているということになるのでしょう。

 人は平べったい地表に暮らしている。だが……いや、だからこそか……いつも高みを目指す。実際に、地に這いつくばる人間がときに神々の高みに達することがある。ある者は芸術で、ある者は宗教で、だがほとんどは愛の力で飛ぶ。もちろん、飛ぶことには墜落がつきものだ。軟着陸はまず不可能で、脚を砕くほどの力で地面に転がされたり、どこか外国の鉄道線路に突き落とされたりする。すべての恋愛は潜在的に悲しみの物語だ。最初は違っても、いずれそうなる。一人には違っても、もう一人にはそうなる。ときには両方の悲しみの物語になる。(p.45-46)

 誰かが死んだという事実は、その人がいま生きていないことを意味するかもしれないが、存在しないことまでは意味しない。悲しみの回帰線を越えたことがない人には、そこのところが理解できない。(p.126)


 作者は「人生の各段階で、世界はざっと二つに分けられる」と記しています。そして、伴侶を喪って「悲しみに堪えた者とそうでない者」という区分けは絶対的だと言います。そのことは僕自身には未だよくわからないのですが、その前の段階の「愛を知った者とまだ知らない者」という区別においては、作者のジュリアン・バーンズは「愛を知った者」ということになるのだろうと思います。とにかく亡くなった奥様への想いがひしひと感じられる作品になっています。作者は友人の慰めの言葉にはイギリス人っぽい厭味を返したりもするのに、奥様に対する想いはあまりにもストレートに伝わってくるようで、かえって羨ましさを感じるほどでした。



【その他、最近読んで印象的だった本】

かなり難解でまともに理解できたわけではないと思いますが、色々と示唆に富む本なのではないかと……。

魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題 (講談社選書メチエ)



鈴木大拙が昭和天皇への御前講義をもとに、大智と大悲という二つのテーマで「仏教の大意」をまとめたもの。

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)


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『コンビニ人間』 ありのままで居られるならいいんだけど

2016.09.06 19:37|小説
 第155回芥川賞を受賞した村田沙耶香氏の作品。

コンビニ人間



 主人公の古倉恵子は30代半ばの独身女性。大学時代に始めたコンビニのバイトを今も続けていて、周囲からは心配されています。恵子は子供のころからちょっと変わった子で、世間にうまく馴染むことができません。
 子供のころの恵子は、死んだ小鳥を見て焼き鳥にして食べようなどと非常識なことを言ったりもします。大人になっても妹が自分の子供をあやすのを見ては、「静かにさせるだけでいいならとても簡単」なのにとケーキを切ったナイフを見ながら考えたりもします(さすがに声に出さない程度には学習したようですがとても危なっかしい)。
 恵子がなぜ普通からズレてしまうなのかはわかりませんが、恵子自身も家族を悲しませることがないように「自ら動くのは一切やめ」ることにします。そんな恵子が唯一普通のフリをできる場所がコンビニです。
 コンビニではすべてのことがマニュアルで決められています。客が入ってきたら「いらっしゃいませ」と笑顔で挨拶するとか、ごく基本的なことまで丁寧に決まっています。人間はそうしたことは自然に学んでいくものであって、誰かがいちいち教えてくれるものではありません。常識外れの恵子にとっては、すべてがマニュアル化されたコンビニだからこそ普通に振舞うことができるわけです。

 個人的には恵子という主人公がアンドロイドみたいなものにも感じられました。外見は人と同じだけど、中身のプログラムがやや完璧ではないといった感じでしょうか。というのも恵子には欲望とか主体性のようなものがほとんど感じられないからです。自ら動くことを拒否したからなのかもしれませんが、恵子は積極的にこれをしたいというものがないのです。だからコンビニのパンとミネラルウォーターで日々を過ごすことにも不満はないようですし、家での食事は野菜を茹でたものを味付けもなしに食べたりもします。恵子はあまり味付けの必要性を感じないのです。
 人間社会に紛れ込んだアンドロイドとしては、自分が本当は中身がないアンドロイドだとバレてしまっては困るわけで、それなりに人間らしいフリをします。ただ人間らしいということが恵子にはよくわからないわけで、そこは姉に協力的な妹に知恵を仰ぐことになります。
 たとえば30代半ばの独身女性が10年以上もコンビニでバイトをしているなどということを世間は許しません。だから身体が弱いからとそれなりの理由を付けたりしなければなりません。また、バイト先の新人白羽と同棲することになるのも、外面を整えるという意味合いからで、恋愛感情ではありません。
 ちなみに白羽は普通になりたいし、それを理解しているけれどうまくいかなくてスネているというタイプで、普通を理解できない恵子とはちょっと違います。とりあえず言えることは、結婚して家族を持ち子供をもうけるという既定路線から外れることはそれだけで大変な軋轢を生んでしまうのです。
 世間にとっても、家族にとっても、白羽にとってもさえも、恵子には変わらなければならない何かがあって、それは病いであり治療しなければいけないものとされます。極端にデフォルメされている部分はありますが、普通から外れた人たちに対する世間の容赦ない攻撃は珍しいものではありません。
 ちょっと前に「ありのままで」という歌が流行りましたが、あれはディズニー映画だからこそ言えることなのかもしれません。現実ではありのままで居られるほど世間は放っておいてはくれないもののようです。

 目新しいテーマではありませんが、恵子という主人公のズレっぷりや、白羽のダメっぷりにはちょっと笑ってしまうところがありました。シビアな話でありながらキツい読後感にならないのはそんなところにあるのでしょうか。主人公同様に作者自身が未だにコンビニでバイトをしているということですが、コンビニに対する偏愛というわけのわからなさも微笑ましく感じました。ほかにもっと愛すべき場所はありそうなものですが、やはり普通の感覚ではないということでしょうか。

吉田修一 『怒り』 映画の前に原作を

2016.07.21 23:19|小説
 『パレード』『横道世之介』『悪人』などの吉田修一の作品。
 ちょっと前の作品ですが映画の公開が9月に迫っているということで……。
 映画版は『悪人』を監督した李相日の作品で、キャストがかなり豪華な布陣です。主役としては渡辺謙ということになるのでしょうが、ゲイ役の妻夫木聡綾野剛も気になるところですし、きわどい場面が予想される広瀬すずや、原作では軽度の知的障害(?)がある難役には宮崎あおいが扮するというのも見所かもしれません。とにかく話題作になることは間違いないと思います。

怒り(上) (中公文庫)


怒り(下) (中公文庫)




 原作はミステリー仕立てになっていて、八王子で起きた殺人事件の犯人である山神を刑事が追う形でスタートします。山神は犯行現場から逃げ、顔を変えてどこかに潜んでいます。そして、東京・千葉・沖縄の3つの地域を舞台に来歴不明の男が登場して、その3人の誰が山神なのかというのが読者の興味となっていきます。
 もしかすると犯人かもしれない3人の男は、まったく社会との接点がないわけではなく、それぞれの場所で多少なりとも親密な関係があります。しかし、山神のニュースが世間の注目を集めるようになり、その顔写真が公開されたりもすると、それまでの関係に変化が生じることになっていきます。

映画版『怒り』のキャスト陣はこんな感じ。

 ブログなんかでほかの人の感想を読むと、この作品のテーマは「怒り」ではなく「信頼」だと書かれている方が結構多いようです。確かに最後の泣かせどころはそこにあるような気もしますが、個人的には登場人物たちが抱えるぶつけようのない「怒り」のほうに惹きこまれてあっという間に読み終えました。
 たとえばゲイにとってはノンケという世間の大部分を占める人たちからは理解されることは難しいでしょうし、障害を抱えたぽっちゃりした女の子が世間並みの幸せをつかむことは至難のわざなのかもしれません。また、沖縄では未だに基地問題があり、女の子は米兵に暴行を受けたりする事態が起きたりもします。
 そうした事態に対してわれわれ個人が「怒り」を表明したとしてどうなるのでしょうか? 多分、押しつぶされてしまうのでしょう。基地問題に関して沖縄で大きな抵抗運動が生じても、政府のやっていることは何も変わったようには見えませんし、それどころか9条を改正しようとまで画策しているようです。そんな意味ではとても無力さを感じます。
 この作品では山神の本心はほとんどわかりませんが、メモに書きなぐったものが一部残されていて、そこには「電車遅延で駅員をドーカツ」している人や、「ファミレスで店員に苦情」を言っている夫婦について書かれています。山神はそうしたクレーマーのような人物を小馬鹿にしているわけです。メモを見た刑事はその言葉を見て、何かに怒ったところで状況はよくならない、すべてを諦めてしまった人間なんじゃないかと山神のことをプロファイルします。つまりは山神も大きな壁にぶつかって「怒り」を抱えつつも諦めてしまった人間なのでしょう。しかし、あることが原因でキレてしまい事件を起こしてしまうことになります。

 とにかく今の日本はどうにも無力感に支配されているようにも思えます。この作品で来歴のない人物が何人も登場するのは、山神のような犯罪者ばかりでなく、世間という何だかよくわからない壁と闘うのを諦め、ひっそりと生きていくのを選択した人が少なからずいるということなのでしょう。
 『怒り』の最後には希望が込められている部分もありますが、同時に山神を追っていた刑事の側にいた女性は闘うことを拒否して逃げ出すことを選びます。彼女にも「怒り」はあるのでしょうが、それを押しつぶすほどの無力感が世間並みの幸せすらも放棄させてしまうのです。
 「怒り」は行き場を失っているようです。たまさかそれが爆発すると山神のような事件になってしまうわけですが、真っ当な「怒り」を受け止める場所はあまり見当たらない気がします(政治には希望よりかえって「怒り」を覚えるのが普通でしょう)。これは何とも悲しいことです。こうして愚痴ればいいわけではないのはわかるのですが……。

『アーサーとジョージ』 コナン・ドイルという魅力的人物

2016.02.29 21:11|小説
 ジュリアン・バーンズの2005年の作品で、今回が初の日本語訳。翻訳は真野泰山崎暁子

アーサーとジョージ



 バーンズの名前に惹かれて何も知らずに読み始めたのですが、物語はゆっくりとふたりのそれぞれの生い立ちを綴っていきます。アーサーは飲んだくれの父親と騎士道物語を語ってきかせるのが好きな母親の間に生まれ、医者になります。ジョージはイングランド国教会の司祭の子供として生まれ、のちに法律関係の本も出す事務弁護士となります。
 ふたりの人生はそれぞれに進み、なかなか交わりません。初めてふたりの人生が交差するのは、この小説の半分を過ぎたころになります。アーサーとは、アーサー・コナン・ドイルのことです。言わずと知れたシャーロック・ホームズを生み出した作家です。そして、ジョージとはある冤罪事件の被害者となるジョージ・エイダルジという人物です。アーサーが実在の人物であったように、ジョージも実在します(ウィキペディにもアーサーが関わることになる冤罪事件のことが書かれています)。

 ジョージといういかにもイギリス風の名前の一方の主人公は、純粋なイングランド人とは言えません。ジョージの父親はパールシーと呼ばれるインドに住むゾロアスター教の信者で、のちに改宗してイギリス国教会の司祭となりました。ジョージはインド人の父親とスコットランド人の母親から生まれた混血児なのです。
 この小説ではそうした人種的偏見が事件の裏側にあったことは仄めかされてはいますが、ジョージは否定しています。とはいえ当時の警察や内務省などに落ち度があったことは事実で、ジョージは無実の罪で長らく服役することになります。そんな彼を救い、ジョージに人生を取り戻させたのがアーサーだったのです。
 「アーサーの生活には無為ということがない。」(p.256)と記されているように、アーサーはひと時も休むことを知りません。彼がホームズを書き上げたのも、眼科医を開業時に客が来なくて暇を持て余していたときの手すさびであったようです。アーサー・コナン・ドイルに関してはほとんど知らなかったのですが、とても関心を持って読みました。
 この小説のなかでアーサーはホームズのように事件について推理したりもしますが、そうした面だけではなくアーサー自身が人間的にとても魅力的な人物なのです。晩年には心霊主義にはまり世間を驚かせたようですが、この小説を読むとそんなに奇抜なことでもないようにも感じられました。アーサーはただ考えるだけではなく即実行する人で、そんな行動力がジョージの窮状を救ったわけですが、世の中に心霊現象のようなよくわからないことがあれば、わかるまで突き詰めてみようというのがアーサーのやり方なのだろうと思います。

 バーンズはポスト・モダンの作家に分類されるようです。僕は『10 1/2章で書かれた世界の歴史』『フロベールの鸚鵡』は読みましたが、小難しいところもあるけれど凝った手法で楽しませてくれました。個人的にバーンズの作品で印象に残っているのは、ごく普通の女性の人生が描かれている『太陽をみつめて』で、『アーサーとジョージ』もそんな系統の素直な読み物として楽しめる作品でした。『アーサーとジョージ』は二段組で約500ページもの分厚さですが、ジョージの冤罪に憤りを感じ、裁判の過程にハラハラさせられ、一方でアーサーの人間的な魅力に惹かれつつ、最後まであっという間に読み終えてしまいました。

パトリシア・ハイスミス 『キャロル』 若人の不安と……

2016.02.16 20:37|小説
 パトリシア・ハイスミスが1952年にクレア・モーガン名義で出版した小説。
 今回は映画化に合わせて初めて翻訳が登場しました。翻訳は柿沼瑛子
 パトリシア・ハイスミスは人気のある作家のようです。本邦初の『キャロル』の翻訳ということで、アマゾンではベストセラー1位になっていて、一時は売れ切れとなっていたようです(僕も近くの本屋では見つからなかったので、都心の大型書店まで出向きました)。
 『キャロル』が別名義で出版されたのは、題材が同性愛ということもありますが、純粋な恋愛小説となっていることも理由のようです。ヒッチコックの映画化作品でも有名な『見知らぬ乗客』でデビューしたハイスミスですが、その次の第二作が『キャロル』です。ミステリー作家というイメージで売りたかった出版社側の意向で別名義での出版となったようです。日本で翻訳が出ていなかったのも、人気のジャンルであるミステリーとは違ったからなのでしょう。

キャロル (河出文庫)



 主人公のテレーズは舞台美術の仕事を夢見ていますが、現実的にはまだ仕事はなく、生活のためにクリスマス・シーズンに高級デパートの売り子のアルバイトをしています。そんなときに出会ったのがキャロルという年上の女性で、テレーズはキャロルと出会った瞬間に恋に落ちます。
 テレーズは19歳の小娘です。自分の性的指向に関してもよくわかっていないようです。彼氏のリチャードもいますが、彼とのセックスはうまくいきませんし、結婚の申し込みにも心動かされることはありません。そんなときにキャロルと出会い、恋に落ちたことに戸惑いも感じています。そして、キャロルとは互いに好意は抱いていても、テレーズはどこまで進んでいいのかはわからず、ただキャロルの為すがままになっているようでもあります。

 若いテレーズには大いなる未来が待ち受けている一方で、そこには不安もあります。テレーズはデパートの仕事で同僚ミセス・ロビチェクと知り合いますが、彼女の醜さに絶望的なものを感じ逃げ出します。憧れの対象としてキャロルがいてそれに惹かれるのと同時に、ミセス・ロビチェクのような女性になることへの恐れも抱いているわけです。ミセス・ロビチェクは冒頭にしか登場しませんが、キャロルとテレーズがふたりで旅行に出たあとも、折に触れてテレーズの心に浮かび上がってきます。
 さらに同性愛ということがキャロルとテレーズに影を落としてきます。時代は50年代で同性愛は病気として扱われているのです。キャロルは夫ハージと離婚の話し合いを続けていて、ハージはキャロルの同性愛を理由にして娘を彼女から遠ざけようと画策しています。テレーズとの関係が明らかにされれば、キャロルをさらに不利な状況へと追い込むことになってしまうわけで、テレーズはキャロルと一緒にいたいという感情と、それによってキャロルを追い込んでしまうことの間で揺れ動くことになります。

 ※ 以下、ネタバレもありますのでご注意ください。


『キャロル』 映画版はこんな感じ。こちらも楽しみ!

 僕はハイスミスの小説は『リプリー』(『太陽がいっぱい』)しか読んでいないのですが、『リプリー』はミステリーの部分よりも殺人を犯して綱渡りのように逃げ回っていくリプリーの心理描写に感じ入りました。人間は誰しも多かれ少なかれそうした不安を抱えながら生きているものですから、リプリーの置かれた状況はそうした普遍的なものへとつながっていくものとして感じられたのです。
 この『キャロル』にもそうした不安感があります。テレーズには将来ミセス・ロビチェクのような存在になるやもしれぬことに不安を感じます。同時にキャロルに惹かれていますが、女性同士の恋愛が成就するか否かはまったくわからないわけですし、成就すればしたで外部の状況によっていつ引き裂かれるかもわからない不安があるわけです。『キャロル』の「訳者あとがき」のなかで柿沼氏が記していますが、ハイスミスは「不安の詩人」と呼ばれたりもするとのことですが、この小説もその代名詞にぴったりの作品だったと思います。

 『キャロル』のラストは意外にもハッピーエンドとなっていて、これは当時の同性愛小説では珍しいとのことです。しかしながら、単純なハッピーエンドというよりも、どちらに転んでもおかしくないというギリギリのラインを歩いていくような部分は、『リプリー』のそれとよく似ているような気がします。
 テレーズは一度キャロルの誘いを断り、新しい生活へ踏み出そうとします。実際にそうすることもできたのでしょう。それでもテレーズは自分の意志でキャロルのところへ向かいます。かつてはキャロルの為すがままだったわけで、その後のふたりがどうなるかはともかくとしてテレーズの成長が感じられるラストでした。

太陽がいっぱい (河出文庫)