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『おどろきの中国』 社会学者3人による中国の見方

2013.05.30 23:50|社会学
 橋爪大三郎大澤真幸『ふしぎなキリスト教』は、2012年の新書大賞を受賞した本ですが、一部では評判が悪いようです。「事実誤認が多い」というのが主な批判点ですが、「キリスト教」に関しては詳しい人が多いからこそ、細かな誤りを指摘する人が多いのでしょう。
 しかし、「中国」に関してはどうか? わが国と歴史的に深いつながりがありながら、あまりにも知られていないのではないでしょうか。中国は日本人にとって西洋以上の謎となっています。『おどろきの中国』ではそんな中国を知り、そこから学ぶための本です。

おどろきの中国 (講談社現代新書)


 今回は宮台真司が加わっての鼎談になっており、日本の代表的な社会学者が三人集まっての本になります。役割分担としては、中国に関する情報は、奥様が中国人で中国に精通する橋爪氏が担当。ほかのふたりからの質問に、橋爪氏が回答するという形式で進みます。宮台氏は社会学理論でそれを整理し、大澤氏は鼎談全体の司会進行を務めます。
 ちなみに大澤氏が群像で長らく連載中の『世界史の哲学』でも、このところ中国についての論考が続いており、『おどろきの中国』で橋爪氏が披露した中国論を大澤氏が独自の興味関心に引きつけて論じています。

 三人の社会学者はこの本を記す前に、橋爪氏の案内で取材のための中国旅行をしています。そして、中国のタクシー運転手のアグレッシブさにおどろいています。まったく自己中心的でゆずりあう意識などなく、日常的にチキンゲームをやっている。それでいて事故が起きないのもおどろきなのですが、「空気を読む」ことが得意な日本人からするとその行動様式は理解しがたいように思えます。
 しかし橋爪氏はこう言います。

個人主義的で、ルールなんかまるで守ってないように見えるけど、それは、日本人がそう見るからなんです。ルールがないと見えるいっぽうで、彼ら相互の、行動予測可能性はきわめて高いでしょう。相手がどう出てくるか、正確に理解し、予測し合っているわけです。(p.41)


 橋爪氏はこうした中国人の行動様式を、個人心理、国民性、文化などに還元してはいけないと言います。そんな「歴史の蓄積のなかで育まれた、中国の人びとの基本フォーマット」を、中国文明の系譜全体として受け止めないと理解しがたいものなってしまうのだと。われわれの考え方で中国を測ろうとせず、中国の物の見方を謙虚に学ぶことが目的となっているのです。
 こうした論理の筋道はほかにもあります。「近代の主権概念vs.東アジアの伝統」という部分。近代の「主権概念」というのは、当然のものとわれわれは考えてしまいます。しかし、その「主権概念」という考え自体が西洋由来のものであり、社会学を含む社会科学の理論も西洋仕様になっているために、それを正しいものと考えてしまっているだけかもしれないのです。
 ここでの「東アジアの伝統」というのは、「朝貢体制」と言われるもので、それは「近代的な主権概念では定義できないもの」です。中央(中国)に皇帝が存在し、その周囲にいる王を認めるという形で成立するシステム。「朝貢」のシステムでは、琉球王国のように明(中国)と日本の両方に従属的であることは可能になるのだとか(これは主権国家にはあり得ないこと)。そのシステムでは朝鮮も日本もチベットも朝貢国のひとつになります。だからチベット問題なども「主権概念」と「朝貢」システムとの論理の違いによる問題とも言えるようです(かなり偏った考えかもしれませんが)。
 社会学とは「社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズムを解明するための学問」であるとされます。そんな社会学が世界人口の約20%を占めるとされる中国人の社会について論じることができなければ、社会学の存立に関わります。社会が存在するのが西洋だけではないのは当たり前ですし、次代の世界の中心的存在となるであろう中国を理解することはいままで以上に重要です。
 ただ、この鼎談はやや中国寄りの主張が多く、特に後半の歴史や政治問題などでは日本人にとっては耳の痛い箇所もあります。しかし、西洋中心の論理は世界を覆っているし、日本に関してはわれわれにとっては日常的なものであるわけで、中国側からの意見に耳を傾けるのも重要なことだと思います。そんな中国論の入門として学ぶところの多い本です。

 最後に「なるほど」と思ったことについて。表音文字はローカルな言語を表記できますが、それだけでは意味がわからない。漢字は絵のようなものです。概念をかたどったものであり、具体的なものならローカルな言語がわからなくても、意味がわかります。中国では地域によって言葉はまったく違います。漢字の読み方も地域で異なりますが、その表記を見れば意味は通じるのです。そのことで昔から漢字が読める人たちの意思疎通が可能だったわけです。
 また中国では漢字の数だけ概念があります。それが一字一音とされます。発音は複雑であり、音を聞いただけでほとんどの漢字を判別できます。日本では音韻システムが中国に比べ貧弱なため、漢字を導入したらたくさんの同音異義語が生まれてしまいました。これでは音だけでは意味がわからないことになるわけです。文章を書く際に日頃から悩まされる同音異義語というのは、こうした原因によるものかと納得しました。
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古市憲寿 『僕たちの前途』 オルタナティブとしての起業という生き方

2013.05.13 21:38|社会学
 古市憲寿氏は1985年生まれの社会学者。前著『絶望の国の幸福な若者たち』は、「朝まで生テレビ!」などでも取り上げられて話題になりました。
 この本の題名の「前途」とは、われわれの「これから先の道のり」を指していますが、同時に古市氏の所属する有限会社「ゼント」のことも表しています。古市氏は東大の博士課程に籍を置きながらも、有限会社ゼントで執行役を務めています。この会社は古市氏の友人が起業したもので、『僕たちの前途』はその友人のような若い起業家に焦点を当てています。

僕たちの前途


 日本は社会保障が脆弱な国です。だから会社に正規に所属しているかどうかが大きな問題となります。古市氏は「会社に所属しない生き方」のひとつとして起業家たちの姿を見ています。「アントレプレナー」というカタカナが一般にも聞かれるようになったのはいつごろからでしょうか? 起業家を志す人は増えているイメージだったのですが、現実はそうでないようです。古市氏は次のように記しています。

日本では働く人のうち約8割が「雇われて働く人」。会社を起こした起業家の割合はわずか2.5%しかいない。国際調査によれば、日本は世界で最も起業率が低く、起業活動が低調な国だ。(p.8)


 この本の第1章から第4章は、若き起業家のルポルタージュです。これを読んでも起業するのには役立ちませんが、世にも珍しい起業家の生態のごく一部を垣間見ることができます。
 第1章に登場するのは古市氏の所属するゼントの社長ですが、この会社は「上場はしない。社員は三人から増やさない。社員全員が同じマンションの別の部屋に住む。お互いがそれぞれの家の鍵を持ち合っている」、そんな会社です。ゼントはホリエモンのように会社を大きくしようとはしません。人間が使える金銭には限りがあるし、社員が増えれば気の合わない人とも仕事をしなければならないからなんだとか。制約が多くなり、自分たちの好きなことができなくなるわけです。同じ起業家でもホリエモンとは価値観が違います。それが世代によるものか、パーソナリティによるものかはわかりませんが……。

 古市氏は起業することに希望を見出しているわけではありません。古市氏が描く起業家たちには誰でもがなれるわけではないからです。彼らは専門的な技術を持ち、それを磨くうちに起業する形になってきたようです。その技術で大企業などとも仕事をするようになり、ごく一般的な「会社に所属して生きる」のとは別の生き方をつかんだわけです。彼らにとっては好きなことが仕事になっていて、生活そのものが仕事みたいなもの。だから社員という仲間はいつも近くに居て、就業時間など関係ない「生活=仕事」という生き方をしています。
 古市氏の『希望難民ご一行様』では、目的を持ってピースボートに乗った若者が、そこに居場所を感じ仲間と集まっていること自体が心地よくなり、当初の目的はどうでもよくなる姿が描かれていました。『僕たちの前途』の古市氏にとってもそれは同様で、気心の知れた仲間と一緒にいることが、有意義な時間になっているようです。しかも金を稼ぐというひとつの目的も果たしている。しかし、こうした生き方が誰にでもできるわけではありません(ひきこもりが問題になる時代、コミュニケーションは厄介事です)。起業することが誰にでもできないのと同じです。この本のなかに「社会には抜け道が隠されている」という言葉がありますが、古市氏の描くこれらの姿はごく限られた人たちのもので、社会全般に敷衍できるものではないかもしれません。それでも「会社に所属して生きる」ばかりしか選択肢がないのは困るわけで、多様な働き方の姿としては学ぶべきものがあるのでしょう。