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町山智浩 『本当はこんな歌』 「見つめていたい」はラブ・ソング?

2013.06.30 17:02|音楽
 著者は雑誌『映画秘宝』の創刊者であり、映画評論家としても活躍している町山智浩氏。この『本当はこんな歌』は、勘違いされたまま聴かれていることも多い洋楽の歌詞を解説したもの。ハードロック全盛だった中学時代に洋楽を聴くようになった僕も、英語は未だにダメで、歌詞の内容などほとんど知らずに聴いていることも多く、英語の勉強にもなる一冊です。

本当はこんな歌


 例えばパール・ジャム「ジェレミー」という曲。これは自殺した少年の曲だとされていますが、歌詞の内容だけではよくわからない。「Jeremy spoke in class today」と歌われる部分に込められている意味について、町山氏はこう解説しています。「spoke」というのは「クラスや会議で手を挙げて何かスピーチする、発表する、という意味」だそうです。ジェレミー少年がその日どんな「spoke」をしたかと言えば、黒板の前に立つとリバルバーを口に含んで頭を吹き飛ばしたのです。この歌はそんなニュースに触発されて出来た歌だったようです。なるほど。

 日本でも有名なポリス「見つめていたい(Every breath you take)」は、本当はラブ・ソングではないようです。くり返される「I’ll be watching you」から日本語の曲名が付けられていると思われますが、この「watch」という単語には監視するというニュアンスがあり、この曲は女の子にふられた男が別れた女を監視し続ける、そんな場面を歌っているわけです。「君の息、ひとつひとつ」さえ、監視しているからね。そんなストーカーの歌なのです。恐ろしいことにまったく知らずに聴いていました。まさしく「本当はこんな歌」だったのかと驚かされました。

 取り上げられる曲は、1970年代から2000年代まで幅広い40曲。実際には僕は知らない曲も結構ありましたが、今ではYou tubeなどで検索すればいつでも聴くことは出来ますから、洋楽案内としても役立つかもしれません。いかがわしい感じの表紙もいい。
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『ヴァルキリーズ』 人生訓としての物語

2013.06.11 23:08|小説
 世界的なベストセラー『アルケミスト』パウロ・コエーリョの作品。

ヴァルキリーズ (角川文庫)


 この小説はコエーリョの処女作『星の巡礼』にも描かれたRAM教団の体験の続きです。『星の巡礼』では、ルイス・ブ二ュエルの映画『銀河』などでも有名なサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼が描かれました。『ヴァルキリーズ』では守護天使に会うために、ヴァルキリーズという女性たちと砂漠での旅に赴きます。ファンタジックな部分もありますが、実際の体験をもとに記されているとのこと。旅に出て試行錯誤を繰り返して成長するという点では、『星の巡礼』と同じような展開です。違うところは奥様とご一緒というところでしょうか。

 「私たちは長い年月一緒にいたわ。でも最初の二年間の喜びと情熱が終わってからは、毎日が私にとって試練になり始めたの。私たちの愛の炎を保つのは、とても難しかった。」(p.210)


 こんなふうに作者のコエーリョが奥様の視点から描く箇所もあって、夫婦での成長が目的となっていると言えるかもしれません。

 RAM教団というのはキリスト教系の神秘主義なのだと思いますが、主人公は一応魔法使いだし、天使なども顔を出しますし、本来のキリスト教からはかけ離れているようにも思えます。その教義もキリスト教以上にわからないものだから、この小説に書かれているエピソードもどこかデタラメな印象を与えるような気がします。もしかすると深い伝統があるのかもしれないのですが、神秘のベールに包まれているものだから教団以外の人には判断のしようがないのです。
 それでもコエーリョの作品が世界中で読まれているのは、それが魔法使いの修行といったファンタジーとしてよりも、その物語が「人生訓」として読まれているからのように思えます。コエーリョ作品の形容に使われる「スピリチュアリティ」という言葉はそのあたりを示しているような気がします。
 宮台真司氏によれば宗教は「前提を欠いた偶発性を無害なものとして受け入れ可能にすること」となります。スピリチュアリティというものは、先祖の霊などが登場したりしますが、それも宗教とは別の方法でこの世界を無害化して人生を肯定的に捉えるためのものに思えます。
 『現代霊性論』という本では、『仏教教理問答』にも登場した釈徹宗氏はこんなふうに語っています。

 キリスト教で語られるスピリチュアリティは、宗教の本質に至る一つの道のようなものであって、「宗教の下位概念」だったわけですが、現代では、宗教を含むもの、宗教の源泉――ちょうど地下水のような感じ――のようなイメージ(p.164)


 こんなふうにスピリチュアリティというものが、一般的には宗教の源泉(宗教の上位概念)として考えられ、狭義の宗教よりも幅広い「人生訓」的なものとして受け止められているような気がします。だから魔法使いでないわれわれにも、魔法使いの修行を人生における修行と同じようなものとして捉え、そこで語られる様々な智慧を「人生訓」として理解できるからこそ、コエーリョの本が読まれているのではないでしょうか。

宮崎哲弥/呉智英 『知的唯仏論』 唯釈迦のみが仏

2013.06.09 14:01|宗教
 この本は宮崎哲弥氏が呉智英氏を迎えて贈る仏教対談。マンガ評論家としても知られる呉氏ですが、本来は儒者なんだとか。その儒者である呉氏が畑違いの『つぎはぎ仏教入門』なる本を出したため、仏教者である宮崎氏との仏教対談が実現したようです。
 呉氏はこんなふうに語っています。

 仏教とは何か。仏陀釈迦の教えである。すなわち仏陀釈迦が説いた思想である。英語でもBuddhism(仏陀思想)である。それ以外に仏教などあろうはずがない。一歩譲るとしても、仏教と名乗る以上、仏陀釈迦の思想を中心に持っていなければなるまい。(略)本来、仏教は「唯仏論」である。(p.8)


 「唯釈迦のみが仏であり、仏のみが真理を体現している」というのが、「唯仏論」というこの本のタイトルにもある言葉なのです。このあたりは日本の仏教というよりは、原始仏教や中観派に詳しい宮崎氏とも近い部分なのでしょう。

知的唯仏論


 この『知的唯仏論』はマンガ評論家でもある呉氏が参加していることもあって、冒頭は「通俗的な入り口」として宗教マンガについて触れています。手塚治虫『ブッダ』はもちろんですが、さまざまな宗教マンガが挙げられます。そのなかでも呉氏が推薦するのは、たかもちげん『祝福王』井浦秀夫『少年の国』などです。まったく知らなかったマンガなのですが、ぜひ読んでみたいと思います。

 この本のなかで興味深かったのが輪廻についての部分です(ほかにも非我説と無我説や、実存主義と構造主義の仏教的見方なども非常に参考になります)。仏陀自身は輪廻転生については語らなかったとも言われますが、ごく一般的な理解では、仏教は輪廻転生からの解脱を説いたとされます。しかし、もともと輪廻転生の考えは、仏教誕生の地であるインドでは一般的でも、日本においてはそうではなかったようです。仏教の伝来と一緒に輪廻転生も伝わってきたわけです。
 宮崎氏は下田正弘氏の「他者としての仏教」を引用して輪廻について整理しています。「確かに仏教の教義は輪廻からの解脱を説く。だが存在を束縛する輪廻という世界観を有していなければ、そこからの解放も意味をなさない」(p.43)。これを宮崎氏が言い換えると「もともと輪廻という観念を持ってない人びとにも、なお輪廻はあり得るのか」となります。
 輪廻転生がもとからある世界では、解脱が積極的な意味を持つのかもしれません。しかし、「死んでしまったらそれまで」という世界観においては、輪廻のほうが救いのようにも思えます。オケラだろうが何だろうが生まれ変わったほうがいいという意味合いで。
 仏教についてではありませんが、浅羽通明氏の『時間ループ物語論』では、アニメ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』に代表される「ループもの」を論じていて、輪廻転生も「ループもの」との関連で論じられます。浅羽氏の分類では「ループもの」は4つに分けられるのですが、単純化すれば時間ループを肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかになります。つまりは輪廻転生も肯定的にも否定的にも捉えることができそうです。
 
 ちなみに宮崎氏の輪廻に関する見解は、次の著作に引き継がれるようです。あとがきには次のような疑問を提示しています。輪廻とは死後の生があるということでなく、行為が連鎖すること(業の連鎖)であり、その業が何故ライフタイムを超えて相続され得るのか。そしてそれが誰から誰へと受け渡されていくのか。