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茂木健一郎 『生命と偶有性』 「クオリア」と「偶有性」の関係は?

2013.07.31 23:24|エッセイ
 前々回このブログでも取り上げた大澤真幸氏の本には、「偶有性」という言葉がよく登場します。気になってネット検索をかけてみると、テレビなどで顔を知られた脳科学者・茂木健一郎氏も「偶有性」なる言葉を使っているようです。『生命と偶有性』は茂木氏が「偶有性」に関して記したエッセイです。

生命と偶有性


 「偶有性」とは何か? 茂木氏はこんなふうに書いています。

 それは、私たちの生が容易には予測できないものであるということである。もちろん、何もかも確かなものが一切ないということではない。私たち人間の脳は、環境と相互作用しながら、その中にある確かな「法則性」を必死になってつかもうとする。確実なものはある。その一方で、不確実さも残る。確実さと不確実さが入り混じった状態。これが「偶有性」である。
 「偶有性」とはまた、現在置かれている状況に、何の必然性もないということである。たまたま、このような姿をして、このような素質を持ち、このような両親の下に生まれてきた。他のどの時代の、どの国で生まれてきても良かったはずなのに、偶然に現代の日本に生まれた。そのような「偶有的」な存在として、私たちはこの世に投げ出されている。(p.7~8)


 ここに引用した「まえがき」の部分で、ほとんどこの本の内容は語り尽くしたようなものです。それに続く本文は、それを茂木氏が集めたさまざまなエピソードで言い換えたものです。たとえばスピノザの神について。神にとってはすべてが必然的なものであり、偶然に起きることなどありません。しかし人間は異なります。「ある特定の人間は、存在することもあり得るし、存在しないこともあり得る」のです。そんな意味で人間は「偶有的」な存在だということです。
 茂木氏は「偶有性」という考えが自分にとって重要なものとして現れた瞬間を語ります。そして茂木氏が研究対象としているもうひとつの概念「クオリア」と同等のものとして位置づけます。しかし、この本ではその関係性がよくわかりません。茂木氏も手探りで考えながらこのエッセイを記している部分があり、無理やり「偶有性」というテーマに結び付けているように思える箇所もあります。
 
 さて、ここでは「クオリア」と「偶有性」の関係を考えてみたいと思います。以下、僕自身の勝手な解釈です。
 ここではやはり大澤真幸氏の著作に戻るとわかりやすい気がします。大澤氏は、「偶有性」とは他でもありうるということだとします。今、僕はこうしてブログを記していますが、テレビを見ながらビールを飲むことも可能です。あるいはAKB48みたいなかわいい女の子とデートすること可能かもしれません。その意味でこうしてPCに向かっていることは「偶有的」です。大澤氏はさらにはその前提として、僕が僕であることがまるごと「偶有的」であり、僕がまるごと他者となることもあり得るのだと言います。大澤氏はそれを「根源的偶有性」と呼んでいます。

 私が他者であったかもしれないということは、私がこの私であるという単独性に対立しているように見えるかもしれませんが、僕の考えでは、そういう単独性と(根源的)偶有性は、不即不離につながっている。むしろ、同じことの二面だと思っています。(『自由を考える 9・11以降の現代思想』 p.76)


 ほかでもないこの僕がほかの僕でもあり得るというのが「偶有性」ですが、ほかの僕の可能性があればこそ、今のこのほかならぬ僕の「単独性」が意識されるのではないでしょうか(これは永井均氏の哲学に出てくるような問題なのかもしれません)。
 ここで大澤氏が「単独性」という言葉で示しているものは、「クオリア」の問題とよく似ています。茂木氏は「クオリア」を『生命と偶有性』のなかでこんなふうに整理しています。

 クオリアは本来、私秘的なものである。私が感じている「赤」が、他の人が感じている「赤」と果たして同じであるのかどうか。同じであるという保証はどこにもないし、それを確認する方法もない。(p.231)


 「クオリア」とは個々人の主観に依拠するために、僕が感じている「赤」と茂木氏が感じている「赤」は同じものという保証はありません。そうした独特の質感は私秘的なものですから、茂木氏が「赤」と感じるものが僕には「橙」と感じられる可能性もあります。これは「偶有性」とはちょっとズレるかもしれませんが、他者との完全なる感覚の共有は不可能なのかもしれません。しかし、だからこそ僕自身の「クオリア」が独自のもの(単独のもの)として浮かび上がるでしょう。そして、これは「単独性」が強く意識されるために、「偶有性」が考えられなければならないという構図と似ているのではないでしょうか? こうした意味で「クオリア」と「偶有性」が結びついてくるのではないでしょうか。もちろんこれは茂木氏の考えとは関係のないことですが……。
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宇野常寛 『日本文化の論点』 AKBは日本の救世主?

2013.07.29 19:54|社会批評
 著者の宇野常寛氏はサブ・カルチャー評論家として活躍している人物ですが、この本は現代日本文化について論じたものです。
 宇野氏の『ゼロ年代の想像力』では、膨大な量の小説・映画・テレビドラマ・音楽などを読み解くことで、ゼロ年代を生きる若者の生き方を考察したものでした。それによれば『エヴァンゲリオン』に象徴されるような「引きこもり」の生き方ではもうやってはいけず、ゼロ年代は『DEATH NOTE』『バトル・ロワイヤル』などのような「決断主義」でなければ生き残ることができないのだとか。取り上げる題材の幅広さには圧倒されますし、若者論として示唆に富んだ本だったと思います。

日本文化の論点 (ちくま新書)


 『日本文化の論点』では、バブル崩壊以降ほとんど機能しなくなった戦後日本の社会システムを乗り越えるヒントについて考察していきます。著者はそれを<夜の世界>という言葉で示しています。これは政治や経済といった<昼の世界>に対し、社会的に陽の目を浴びることのない世界であり、つまりは日本のサブ・カルチャーやインターネット環境なのだと言います。そんな<夜の世界>にこそ閉塞状況にある日本を変革する可能性があると言うのです(具体的にはよくわかりませんでしたが)。

 音楽消費が頭打ちになって久しいですが、宇野氏はインターネットなどの情報化社会がそれを後押ししていると見ています。ネット上ではそうしたコンテンツ自体はいくらでも見付かるので、情報そのものの価値はほとんどありません。また、そうした情報化は音楽コンテンツを「受け取る」だけの快楽から、消費者の側がたとえば2次創作という形で「参加する」快楽を付与するのです。宇野氏はそんなコミュニケーション様式に可能性を見い出しています。マンガもそのコンテンツだけを輸出するのではなく、マンガの消費のされ方としてのコミュニケーション様式を同時にパッケージしろと言います。このあたりはなかなおもしろいのですが、「日本文化最大の論点」として第6章でやや唐突に取り上げられるのは、アイドルグループのAKB48です。ちょっと驚かされます。宇野氏はAKB48から日本社会を論じるのです(冗談というわけでもないようです)。

 宇野氏のサブ・カルチャー批評は、映画や小説などの物語内容を取り出してきて、それから社会のあり方を論じるものです。僕は映画をよく観ますが、宇野氏の映画に関する文章は、映画批評とは異なるものとして読んでいます。それはあくまで映画をネタにした社会批評だと思うからです。映画そのものを評価の対象とするならば、常識的には、お子様向けの『仮面ライダー』シリーズなどはそうした俎上に載るものではないからです。きわめてまっとうな映画評論家である森直人氏は『仮面ライダー』シリーズを高く評価する宇野氏に対し、あくまで控えめながら、映画というジャンルの評論家としては、それに賛意を表することはできない旨のことを対談で語っていました。
 宇野氏のAKBに対する愛情は感じるのですが、この本をAKBファンの人が読んだとしても楽しめる内容とは思えません。一方で日本文化論として手に取った僕のような人にとっても、同様に混乱するような気がします。サブ・カルチャーは社会のあり方を反映することも多いでしょうが、そうでない場合もあるし、それを無理に日本文化論に結びつける必要性もないと思うのですが……。

大澤真幸 『生権力の思想――事件から読み解く現代社会の転換』 管理型権力が奪うものは何か?

2013.07.17 22:21|社会学
 権力とは、従わなければ「死ね」という、むりやり他者の命令に従わせるようなものだったわけですが、フーコーによれば近代の権力は、生への権力となったのだとか。そして生権力のあり方は規律訓練というものに表れます。規律訓練型の権力は、パノプティコンに象徴されるように、個人の身体への持続的な監視を媒介にして、個人の内省(告白)を促して、個人を主体化します。
 一方、管理型権力は、保持するカードなどによって出入りできる場所を制限されたり、監視カメラなどで映像情報がデータベース化されたりするような形になります。人々は知らないうちにアーキテクチャーによって管理されるわけです。たとえば、大手外食チェーンでは、イスは硬いプラスチック製で、夏などしばらく読書でもしようものなら寒くて震え出すほどの冷房で、客の回転率を上げています。管理型権力では、服従動機を経由せずに、いつの間にか人々を従わせることに成功していることになります。
 そして生権力が規律訓練型のものから、管理型のものへと転換しつつあるということは、ドゥルーズをはじめとする多くの論者によってかねてより指摘されてきました。どうしてその転換が起こったのか? また、管理型権力が奪うものは何か? こうした疑問こそが、大澤真幸氏がこの本で考察している問題です。

生権力の思想: 事件から読み解く現代社会の転換 (ちくま新書)


 大澤氏はそれを身体論から読み解いていきます。
 太陽王と呼ばれたルイ14世を描いた映画は、『王は踊る』という題名です。王の権力は、王の身体が人々の前に華々しく現前することによってこそ確保されました。見られることが最大の威信を担ったわけです。そして、「体育は、舞踏がかつてヨーロッパの文化のなかに占めていた位置に、舞踏を代替するものとして出現したのではないか」(p.83)という三浦雅士氏の議論から、大澤氏は次のような考察を導きます。
 体育とはもともとは兵士を鍛えるためのものでした。体育の身体は、きわめて多数の身体を一挙に捉えうるような視線に対して、自らが見られることを想定しています。理論上それは無限遠の上空に存在します。かつては「踊る王」という具体的な存在が威信を集めたわけですが、今では抽象的な視線によって見られることを想定しているわけです。これは大澤氏の独特な用語で言えば、「第三者の審級」の抽象化と言えるでしょう。
 「第三者の審級」とは、ごく簡単に言ってしまえば、信仰者にとっての神のようなものです。それがなぜ抽象化していくのかと言えば、「第三者の審級」の力が及ぶ範囲を拡大していこうとすれば、次第に普遍的なものにならざるを得ないからです。新興宗教が力を発揮できる範囲はごく限られています。普遍的な世界宗教になるに従って、「第三者の審級」の示す規範は緩いものにならざるを得ないのです。ユダヤ教はユダヤ民族のための宗教であり、その他の民を救うことは考えませんでした。キリスト教では人類すべてが対象ですが、普遍的になった分、ユダヤ教にあった律法は廃棄されることになるわけです。

 規律訓練による権力は、個人を主体化します。つまりパノプティコンの奥に隠れた見えない視線を感じ続けることで、「第三者の審級」が良しとするような価値観へと自分を導くように誘導されるわけです。「第三者の審級」の示す規範が失われた管理型権力ではどうでしょうか? 管理型社会では個人情報は知らないうちに収集され、特定の局面のみの断片的な情報によって個人は判断されます。こうした状況下では主体は断片化されていきます。こうした状況を大澤は「客観的な主体化」と呼んでいます。管理型権力によって収集された情報は、ある人が「客観的に何であるか」を示しているというわけです。アマゾンによって収集された情報が、それをもとにお薦めの本などを提示されると、自分の求めていた本だったような気持ちになってしまうようなものです。また、先日のPC遠隔操作事件では誤認逮捕されたなかには、やってもいない犯行を告白する者も出ました。PCに証拠が残っていると客観的な証拠を突き付けられると、そんなことも起こりうるわけです。このあたりが、管理型権力がわれわれから奪っていく何かであり、大澤氏それを偶有性に関連させて考えているようです。

 かなり思い切って一直線にまとめましたが、こんな粗略な要約では到底この本を読んだことにはならないでしょう。新書とは言え、ここでされている議論は多岐に渡るし、内容もやさしいものではないからです。いつものようにかなりアクロバティックな論理展開と感じる部分もあるのですが、何かしら学ぶべきものが多いのも大澤氏の本なのだと思います。