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小沼純一 『映画に耳を 聴覚からはじめる新しい映画の話』 映画のなかのサウンドスケープ

2013.08.31 21:32|音楽
 著者の小沼純一氏は早稲田大学大学院の教授をされている方で、音楽文化研究や音楽・文芸批評などの分野で活躍しているそうです。この本では小沼氏が雑誌やパンフレットなどに書いた約100本の映画についての文章がまとめられています。しかもそれは「音・音楽」をめぐって書かれたものです。

映画に耳を: 聴覚からはじめる新しい映画の話



 映画批評などを読むとやはりストーリー展開を追うというのがごく一般的な入り方ですが、この本はちょっと視点が違います。「あとがき」にはこう書かれています。

 目にはいるのはストーリーもしくは俳優のことばかり。あとは映像についてちょっと。音・音楽などほとんど皆無。もし映画について文章を書くことがあったなら、音・音楽に少しはふれたい。(p.391)


 音楽は好きですが、守備範囲はごく狭く、また理論的なことは何もわからないから何とも評価のしようもないわけです。映画や小説なんかを評価するよりもさらに印象批評になりがちだろうし、好き嫌い以外に音楽の楽しみ方なんてないようにも思えます。そんな意味で、この本は音楽の専門家が映画の音・音楽について語っているので、新たな視点から映画を観ることができるヒントに溢れています。

 ここで映画の音楽ではなくて「音・音楽」と記されているのは、『映画に耳を』では映画音楽だけでなく、映画のなかに出てくる様々な音に関しても触れているからです。「サウンドスケープ」という言葉があるそうです(もともとはカナダの作曲家の言葉)。視覚中心の「風景/ランドスケープ」に対し、聴覚性を前面にだしたのが「音風景/サウンドスケープ」なのだとか。著者はそういう視点でもって、たとえばホウ・シャオシェンの『珈琲時光』について分析します。『珈琲時光』という普通に観ているだけではよくわからなかった映画も、こんな観方(あるいは聴き方)があるのかと驚かされます。

 ほかにもこんないい裏話もあります。米国アカデミー賞でも外国語映画賞を受賞した『善き人のためのソナタ』(2006)についてです。監督のドナースマルクは、『ラマン/愛人』『リプリー』などの印象的なスコアでも有名なガブリエル・ヤレドに作曲を依頼しました。そのときドナースマルクはこう言ったそうです。

 想像してください。あなたは過去に戻って、ヒトラーに会えるチャンスがある。でも二分半しかない。そのとき、言葉を発することなく、自分の作曲した楽曲を聴かせることができる。それによって、後に犯すことになることどもをあなたがとめることができる、そういう音楽を(p.68)


 音楽にはそういう力があると思うからこそ、こういう言葉が出てくるのでしょう。改めて『善き人のためのソナタ』を観直してみたいと思いました。
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ハクスリー 『すばらしい新世界』 この世界はディストピア? それともユートピア?

2013.08.27 23:15|小説
 ディストピアを描いた小説として有名な作品。作者は『知覚の扉』『永遠の哲学 - 究極のリアリティ』などのオルダス・ハクスリー
 訳者は黒原敏行。今年6月に光文社文庫から新訳として登場したもの。

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)




 「訳者あとがき」はこんなふうに始まっています。

 ジョージ・オーウェルの『一九八四年』の世界と、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』の世界――この二つの反理想郷(ディストピア)のどちらかで生きなければならないとしたら、ほぼ全員が後者を選ぶのではないだろうか。(p.424)


 たしかに僕もそんなふうに思います。『一九八四年』の極端な管理社会には嫌悪感があります。でも、本当は『すばらしい新世界』のほうがより一層管理された社会とも言えるのかもしれません。子どもは壜のなかで生まれ、条件付け教育によってマインドコントロールされ、社会に対する反抗心を抱く「自由」すらすでに奪われているように見えるからです。
 『すばらしい新世界』の社会は安定した社会です。人々は皆幸福で、欲しいものは手に入ります。病気も老いもある程度克服され、死を恐れることもありません。家族や一夫一婦制度は排他的なものとされ、「誰もがみんなのもの」という考えが浸透し、子作りではない快楽としてのフリーセックスが推奨されます。辛いことがあればソーマという麻薬が癒してくれます。「ゆりかごから墓場まで」というのは戦後イギリスの社会福祉政策のスローガンですが、この社会ではそれどころか個々人の楽しみや悩みにまで政府による解決策が与えられているようです。
 また、この社会はカースト制度のような極端な階級社会です。階級はアルファからエプシロンまでに分かれ、下層階級は細胞分裂された多くの自分のコピーたちと一緒に生まれ育ちます。そんな下位の階級にあるものは永遠に下位に留まり、社会の運営に必要な仕事を担うことになります。彼らは壜のなかで子どもが育てられるときに、階級ごとに分相応というものが条件付けられているために、上位の階級を羨むこともないようです。それはそれで幸福な状態にあるのかもしれません。一つの受精卵から細胞分裂した多胎児という仲間がたくさんいるために、自分のことを特別に不幸とは思わないのかもしれません。

 そんな社会のなかで、この小説の中心にいる三人の登場人物は、それぞれちょっと人と違っているために過剰な自意識に目覚めます。バーナードは壜にいたとき手違いで発育不全を抱え、脳をやられたなどと噂されています。ヘムルホルツは人よりも出来が良すぎるために孤立感を覚え、社会に物足りなさを感じています。野蛮人ジョンはアルファ階級から生まれたにも関わらず、原始的生活が残る野蛮人居留地のなかで育ったことが疎外感を生んでいます。自分が人とは違うということが、社会に対する疑問へとつながっていきます。しかし、三人それぞれが持って生まれた条件の違いにより、その限界も示されています。解説にはこんなことが書かれています。

 バーナード、ヘルムホルツ、野蛮人ジョンがそれぞれに求めている「自由」の限界が示されている。つまり、三人とも自分自身の自由だけに関心があって、新世界の安定を支えているモンドの皮肉な人間観をねじ伏せられるような考え方は提示できないのである。(p.410)


 三人はそれぞれこの社会に疑問を持ってはいるのですが、自分に与えられた条件のなかでの反応にすぎないのです。そうした条件を決定する立場にある世界統制官ムスタファ・モンドとの対話においては、三人の言葉は説得力のあるものとは言えないようです。三人の訴えるようなことはすでにモンドのなかでは解決済のものとされ、社会の安定化のために過去に実施されたという社会実験の歴史を鑑みて選択されたのが『すばらしい新世界』の社会だからです。
 だから、一握りの上位階級にとって、この世界はユートピアと言えるでしょうし、社会に対する疑問を持つこともない一般的な下位の階級においてもユートピアなのかもしれません。ごく一部の自意識過剰な人間だけにはディストピアに思えたとしても(ちなみに、そうした人間は島流しになるなどして排除されていくようです)。だからこの小説はディストピア小説でありながら、どこかユートピアをも感じさせるのだと思います。もちろんそのユートピアは、そう感じるようにすでに条件付けされた者のためのユートピアでしかないのであり、はじめから奪われているはずの「自由」に気づくこともできないというのが怖いところです。そんな怖い小説がどこかユーモラスに描かれているのも、この小説が読み続けられていることの理由なのでしょうか。

ラヴジョイ 『存在の大いなる連鎖』 2000年にわたる観念の歴史

2013.08.23 22:08|哲学
 原著は1936年に出されたもの。日本では1975年に晶文社から翻訳が出ていましたが、今回、ちくま学芸文庫として新訳で登場しました。
 この『存在の大いなる連鎖』で扱われているのは観念史(history of ideas)と言われるものであり、これに関しては松岡正剛の千夜千冊(637夜)に詳しく解説されています。

存在の大いなる連鎖 (ちくま学芸文庫)


 その観念史のなかでも、この本でアーサー・0.ラヴジョイが取り上げるのは「存在の大いなる連鎖」という観念についてです。これは、たとえば18世紀の詩人アレクサンダー・ポープ『人間論』のなかの次のような文章に表れています。

存在の巨大なる連鎖よ、神より始まり、
霊妙なる性質、人間的性質、天使、人間、
けだもの、鳥、魚、虫、目に見えぬもの、
目がねも及ばぬもの、無限より汝へ、
汝より無に至る。より秀れしものに我等が
迫る以上、劣れるものは我等にせまる。
さもなくば、創られし宇宙に空虚が生じ、
一段破れ、大いなる存在の階段は崩れ落ちよう。
自然の鎖より輪を一つ打ち落とせば、
十分の一、千分の一の輪にかかわらず
鎖もこわれ落ちよう。(p.91)


 「全西洋の哲学はプラトンの脚注にすぎない」という言葉が引用されていますが、この「存在の大いなる連鎖」という観念もプラトンに淵源があるとされます。僕は哲学に詳しいわけではないので、本文だけで500ページを超えるこの本を完全に把握しているわけではありませんが、上記のような考えもネオ・プラトニズムの「流出説」を考えればイメージが沸くような気がします。
 この「存在の大いなる連鎖」という観念は、「充満の原理」「連続の原理」というものに支えられています。「充満の原理」とは、「宇宙は生き物の考えられる種の多様性の範囲が極めつくされた、種の充満したもの」であり、「存在の真の可能性は実現されずにはいない」というようなことです。「連続の原理」とは、そんな多様な種が非存在すれすれの極めて乏しい存在物から始まり、存在そのものである絶対者(神)までが、階層的秩序に配列された鎖のように連なっているということです。連続とは、絶対者と被造物である人間の間に天使が存在するように、植物なのか動物なのかよくわからない植虫類(イソギンチャクなど)が存在するように、階梯の上のものと下のものは「可能な限り小さい」程度の相違によってへだてられているということなのです。
 ラヴジョイはこのような「存在の大いなる連鎖」の観念史を追っていきます。第3章「存在の連鎖と中世思想における内的対立」では、中世キリスト教圏でのその観念の受け止められ方について検討します。第5章「ライプニッツとスピノーザにおける充満と充分理由について」では、「充満の原理」と「連続の原理」が説得力の多くを仰いでいた「充分理由の原理」について記されます。

 〔現実における〕存在という事実が本質の世界に在る必然性であるとどこかで示し得なければ、二つの世界は奇妙に無関係であり、両者を結ぶ橋はなく、存在物の全領域は不条理に引き渡されるように思われた。このようなことが十七、八世紀の哲学の争点であり、ライプニッツの充分理由の原理はいくつかの答の中の一つであった。(p.229)


 また、「存在の大いなる連鎖」という観念は非時間的なものだったわけですが、第9講「存在の連鎖の時間化」では、それが生物進化など考えに合わせて時間化していく過程が追われます。
 第10章及び最後の第11章では、「ロマン主義」が扱われます。ちなみに僕がラヴジョイという名前を知ったのは、アイザイア・バーリンのロマン主義に関する論文(「西欧におけるユートピア思想の衰頽」)を読んだときでした。ここではロマン主義に関する定義にまで踏み込むことはできませんが、「ラヴジョイは「ロマン主義」の多様性に直面して絶望に近い状態に陥った」などとバーリンは記しています。この論文のなかでバーリンは「啓蒙主義」に対する反動として「ロマン主義」を論じていますが、ラヴジョイのこの本でも「ロマン主義」は「存在の大いなる連鎖」をひっくり返すものとして論じられます。

 このようにして、遂に、プラトン主義的な宇宙の構造はさかさまにされた。始めから完全で不動である存在の連鎖は、その中ですべての真の可能物が徐々に、しかし時間の中で巨大で緩慢な展開を通じてのみ実現される運命を持った「生成」に変換されてしまったのみならず、今や神自身がこの「生成」の中に置かれたり、これと同一視されている。(p.513)


 これは、現実の宇宙の実情に合っているという意味で、プラトンの説いたイデアのような「あの世的」な観念が「この世的」な観念へと移行したとも言えるわけですが、同時に、プラトン以来この宇宙に対する合理的な説明を求めてきた営みが敗れ去ったということでもあります。

 故に具体的に存在する宇宙は、本質の領域を公平に転写したものではない。そしてそれは純粋な論理を時間的条件に翻訳したものでもない。そのような条件自体が純粋な論理の否定なのであるから。宇宙は、今持つような性格、内容と多様性の範をたまたま持っているに過ぎない。どのような根拠も宇宙がいかなる種類であるべきか、可能性の宇宙のどの程度がこの宇宙の中に含まれるべきか永遠の昔より前以て決定してはいない。宇宙は偶然的な宇宙である。(p.522)


 古代ギリシャから18世紀におよぶ約2000年の観念史は、僕にとっては戦国武将たちの戦の行方などよりエキサイティングでした。そして、何より読み応えがあります。文庫で1700円も高くはないと思います。