ハクスリー 『すばらしい新世界』 この世界はディストピア? それともユートピア?
2013.08.27 23:15|小説|
ディストピアを描いた小説として有名な作品。作者は『知覚の扉』『永遠の哲学 - 究極のリアリティ』などのオルダス・ハクスリー。
訳者は黒原敏行。今年6月に光文社文庫から新訳として登場したもの。

「訳者あとがき」はこんなふうに始まっています。
たしかに僕もそんなふうに思います。『一九八四年』の極端な管理社会には嫌悪感があります。でも、本当は『すばらしい新世界』のほうがより一層管理された社会とも言えるのかもしれません。子どもは壜のなかで生まれ、条件付け教育によってマインドコントロールされ、社会に対する反抗心を抱く「自由」すらすでに奪われているように見えるからです。
『すばらしい新世界』の社会は安定した社会です。人々は皆幸福で、欲しいものは手に入ります。病気も老いもある程度克服され、死を恐れることもありません。家族や一夫一婦制度は排他的なものとされ、「誰もがみんなのもの」という考えが浸透し、子作りではない快楽としてのフリーセックスが推奨されます。辛いことがあればソーマという麻薬が癒してくれます。「ゆりかごから墓場まで」というのは戦後イギリスの社会福祉政策のスローガンですが、この社会ではそれどころか個々人の楽しみや悩みにまで政府による解決策が与えられているようです。
また、この社会はカースト制度のような極端な階級社会です。階級はアルファからエプシロンまでに分かれ、下層階級は細胞分裂された多くの自分のコピーたちと一緒に生まれ育ちます。そんな下位の階級にあるものは永遠に下位に留まり、社会の運営に必要な仕事を担うことになります。彼らは壜のなかで子どもが育てられるときに、階級ごとに分相応というものが条件付けられているために、上位の階級を羨むこともないようです。それはそれで幸福な状態にあるのかもしれません。一つの受精卵から細胞分裂した多胎児という仲間がたくさんいるために、自分のことを特別に不幸とは思わないのかもしれません。
そんな社会のなかで、この小説の中心にいる三人の登場人物は、それぞれちょっと人と違っているために過剰な自意識に目覚めます。バーナードは壜にいたとき手違いで発育不全を抱え、脳をやられたなどと噂されています。ヘムルホルツは人よりも出来が良すぎるために孤立感を覚え、社会に物足りなさを感じています。野蛮人ジョンはアルファ階級から生まれたにも関わらず、原始的生活が残る野蛮人居留地のなかで育ったことが疎外感を生んでいます。自分が人とは違うということが、社会に対する疑問へとつながっていきます。しかし、三人それぞれが持って生まれた条件の違いにより、その限界も示されています。解説にはこんなことが書かれています。
三人はそれぞれこの社会に疑問を持ってはいるのですが、自分に与えられた条件のなかでの反応にすぎないのです。そうした条件を決定する立場にある世界統制官ムスタファ・モンドとの対話においては、三人の言葉は説得力のあるものとは言えないようです。三人の訴えるようなことはすでにモンドのなかでは解決済のものとされ、社会の安定化のために過去に実施されたという社会実験の歴史を鑑みて選択されたのが『すばらしい新世界』の社会だからです。
だから、一握りの上位階級にとって、この世界はユートピアと言えるでしょうし、社会に対する疑問を持つこともない一般的な下位の階級においてもユートピアなのかもしれません。ごく一部の自意識過剰な人間だけにはディストピアに思えたとしても(ちなみに、そうした人間は島流しになるなどして排除されていくようです)。だからこの小説はディストピア小説でありながら、どこかユートピアをも感じさせるのだと思います。もちろんそのユートピアは、そう感じるようにすでに条件付けされた者のためのユートピアでしかないのであり、はじめから奪われているはずの「自由」に気づくこともできないというのが怖いところです。そんな怖い小説がどこかユーモラスに描かれているのも、この小説が読み続けられていることの理由なのでしょうか。
訳者は黒原敏行。今年6月に光文社文庫から新訳として登場したもの。
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「訳者あとがき」はこんなふうに始まっています。
ジョージ・オーウェルの『一九八四年』の世界と、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』の世界――この二つの反理想郷(ディストピア)のどちらかで生きなければならないとしたら、ほぼ全員が後者を選ぶのではないだろうか。(p.424)
たしかに僕もそんなふうに思います。『一九八四年』の極端な管理社会には嫌悪感があります。でも、本当は『すばらしい新世界』のほうがより一層管理された社会とも言えるのかもしれません。子どもは壜のなかで生まれ、条件付け教育によってマインドコントロールされ、社会に対する反抗心を抱く「自由」すらすでに奪われているように見えるからです。
『すばらしい新世界』の社会は安定した社会です。人々は皆幸福で、欲しいものは手に入ります。病気も老いもある程度克服され、死を恐れることもありません。家族や一夫一婦制度は排他的なものとされ、「誰もがみんなのもの」という考えが浸透し、子作りではない快楽としてのフリーセックスが推奨されます。辛いことがあればソーマという麻薬が癒してくれます。「ゆりかごから墓場まで」というのは戦後イギリスの社会福祉政策のスローガンですが、この社会ではそれどころか個々人の楽しみや悩みにまで政府による解決策が与えられているようです。
また、この社会はカースト制度のような極端な階級社会です。階級はアルファからエプシロンまでに分かれ、下層階級は細胞分裂された多くの自分のコピーたちと一緒に生まれ育ちます。そんな下位の階級にあるものは永遠に下位に留まり、社会の運営に必要な仕事を担うことになります。彼らは壜のなかで子どもが育てられるときに、階級ごとに分相応というものが条件付けられているために、上位の階級を羨むこともないようです。それはそれで幸福な状態にあるのかもしれません。一つの受精卵から細胞分裂した多胎児という仲間がたくさんいるために、自分のことを特別に不幸とは思わないのかもしれません。
そんな社会のなかで、この小説の中心にいる三人の登場人物は、それぞれちょっと人と違っているために過剰な自意識に目覚めます。バーナードは壜にいたとき手違いで発育不全を抱え、脳をやられたなどと噂されています。ヘムルホルツは人よりも出来が良すぎるために孤立感を覚え、社会に物足りなさを感じています。野蛮人ジョンはアルファ階級から生まれたにも関わらず、原始的生活が残る野蛮人居留地のなかで育ったことが疎外感を生んでいます。自分が人とは違うということが、社会に対する疑問へとつながっていきます。しかし、三人それぞれが持って生まれた条件の違いにより、その限界も示されています。解説にはこんなことが書かれています。
バーナード、ヘルムホルツ、野蛮人ジョンがそれぞれに求めている「自由」の限界が示されている。つまり、三人とも自分自身の自由だけに関心があって、新世界の安定を支えているモンドの皮肉な人間観をねじ伏せられるような考え方は提示できないのである。(p.410)
三人はそれぞれこの社会に疑問を持ってはいるのですが、自分に与えられた条件のなかでの反応にすぎないのです。そうした条件を決定する立場にある世界統制官ムスタファ・モンドとの対話においては、三人の言葉は説得力のあるものとは言えないようです。三人の訴えるようなことはすでにモンドのなかでは解決済のものとされ、社会の安定化のために過去に実施されたという社会実験の歴史を鑑みて選択されたのが『すばらしい新世界』の社会だからです。
だから、一握りの上位階級にとって、この世界はユートピアと言えるでしょうし、社会に対する疑問を持つこともない一般的な下位の階級においてもユートピアなのかもしれません。ごく一部の自意識過剰な人間だけにはディストピアに思えたとしても(ちなみに、そうした人間は島流しになるなどして排除されていくようです)。だからこの小説はディストピア小説でありながら、どこかユートピアをも感じさせるのだと思います。もちろんそのユートピアは、そう感じるようにすでに条件付けされた者のためのユートピアでしかないのであり、はじめから奪われているはずの「自由」に気づくこともできないというのが怖いところです。そんな怖い小説がどこかユーモラスに描かれているのも、この小説が読み続けられていることの理由なのでしょうか。
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