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阿部和重 『□』 ←この題名は「しかく」と読みます

2013.10.31 22:37|小説
 『インディヴィジュアル・プロジェクション』『シンセミア』などの阿部和重氏の最新作。題名は四角の図形であり、その「しかく」という語感には、視覚、死角、刺客、詞客、始覚など様々な意味が込められているようです。

□ しかく


 茜さす空に、シトラス色の光点がふたつみっつほど揺らめいている。
 水垣鉄四は困惑しきっている。
 菜の花を食べたら、角貝ササミが死んでしまったのだという。
 三日ぶりに、烏谷青磁が訪ねてきてひょっとそう告げた。烏谷は泣いている。
 この日は四月一日、烏谷青磁があらわれたのは食パンみたいな雲がトースト化した、薄暮時のことだった。
 世間のルールにしたがい、水垣鉄四は当初その話を信じなかった。(p.7)


 切り詰めた短い文章です。ほとんどワンセンテンスで改行され、字面は初期のころの阿部氏の長大な文章とはまったく違うものです。引用したのは『□』に収められた4つの連作(春、夏、秋、冬)の「春」の冒頭部分ですが、ここだけで重要な登場人物を2人登場させ、この物語の核となる角貝ササミの復活というミッションへの導入も済ませています。何より阿部和重の奇妙な世界へたちまち誘われる巧みな文章ではないでしょうか。
 大作『ピストルズ』では、与えられた設定にがんじがらめになっていたような印象がありました。『シンセミア』の世界を受け継がなくてはならないし、事件を直接体験してない者の伝聞という語りの設定も、あれだけの長編としては窮屈に思えました。この『□』という作品は、自由に楽しんで書いている感じが伝わってくるようです。
 作者の阿部氏はこの作品をほとんど何の設定も決めずに書き始めたようです。「春」での物語の始まり、「夏」での歯科医との闘い、「秋」でのカニバリストたち(ここでは視点が変って潜入捜査官が登場する)、「冬」でのミッションの成功。どれも荒唐無稽なB級映画のような話で、意味はよく何だかわかりませんが、とにかく楽しめます。
 「夏」のエピソードは、ジョン・カーペンターの映画『遊星からの物体X』が元ネタだと阿部氏はインタビューで語っています。『□』の形から口の文字が浮かび、それが歯科医に結びついたようです。何とも自由な連想で、自由な小説でしょう。元ネタとは『遊星からの物体X』血液検査の場面を指していると思われますが、もしかするとその前日譚である『遊星からの物体X ファーストコンタクト』での虫歯検査の影響も受けているのかもしれません。そのくらい阿部氏はシネフィル(映画狂)みたいですから。
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橋爪大三郎 『世界は宗教で動いてる』 宗教的知識の整理に

2013.10.30 18:58|宗教
 この『世界は宗教で動いてる』は、橋爪大三郎氏が慶応丸の内シティキャンパスで行った講義をもとにした新書になります。慶応丸の内シティキャンパスというのは社会人の教育機関だそうで、この講義もビジネスマンを中心とした受講生に向けられているようです。「ビジネスマンなら、宗教を学びなさい。」(p.3)と語るように、普段の生活や仕事上で役に立つ宗教の常識を学ぶというコンセプトです。取り立てて難しい内容ではありませんし、宗教的知識を整理するうえでは役に立つのではないでしょうか。

世界は宗教で動いてる (光文社新書)


第一講義 ヨーロッパ文明とキリスト教
       ―イエスの父はヨセフか、それとも神か
第二講義 宗教改革とアメリカの行動原理
       ―ウォール街の“強欲”をどう考えるのか
第三講義 イスラム文明の世界
       ―イスラム教は平和のための宗教
第四講義 ヒンドゥー教とインド文明
       ―カーストは本質的に平等
第五講義 中国文明と儒教・仏教
       ―儒教はなぜ宗教といえるのか
第六講義 日本人と宗教
       ―カミと人間は対等の関係


 『世界は宗教で動いてる』という題名を見ると、世界全体が何かひとつの宗教というもので動かされているように聞こえなくもないですが、この本はそれぞれの文明ごとにそれぞれの宗教がどのように社会を形成してきたかという点が語られます。
 分量的なことを言えば、約半分がキリスト教(第一講義と第二講義)に関してで、残りの半分でイスラム教、ヒンドゥー教、儒教、そして日本の宗教についてです。キリスト教については『ふしぎなキリスト教』で、儒教については『おどろきの中国』ですでに論じられている部分も多いようです。

 ここではインドについて述べれば、インドでは少数のアーリア民族がその他の征服された人々を治めるためにカースト制度が生まれます。カースト制度は身分制度ですが、奴隷制とは違うのだそうです。カースト自体は差別的な印象がありますが、インドの輪廻の考えと一緒になると、カーストの上下は輪廻によって入れ替わるものなので、本質的には平等なものと考えられているのだとか。
 インドの宗教と言えばヒンドゥー教ですが、この宗教は「由来の異なる信仰がいくつもの束になって集まってできた」(p.161)のだと言います。インドには無数の神がいますが、ある神が化身して神Aになったり神Bになったりします。たとえば、ヴィシュヌ神の第8番目の化身がブッダとされるようにです。

 ヒンドゥー教を構成するそれぞれのグループには、具体的な信仰(具体的な神)があって、ほかのグループ(神)には関心を持たない。でも互いに、ヒンドゥー教徒だという意識をもつことで、個々の具体的な神を超えた、抽象的な神とともに従うグループだという意識をもつことができる。この抽象的な神は、本来はひとりなのだけれど、あらわれとしては複数になる。これが「一即多」という考え方です。(p.161)


 同じユーラシア大陸に存在する中国とインドですが、大澤真幸氏の『群像』での連載「<世界史>の哲学」では、中国では早くから中央集権的な帝国が生まれたのに対し、インドでは権力は限定的な範囲にしか及ばず多元的に分解されていたと指摘されていました。これはヒンドゥー教の「一即多」という考えが影響を与えているのかもしれません。

 最後に日本の宗教についてですが、「山川草木悉有仏性」などと言われる自然崇拝は、ほかの宗教と比べるとごく原始的な感もあります。その分創唱宗教よりも違和感なく自然に受け入れられるようにも思いますが、これは僕が日本に生まれ育った日本人だからなのでしょうか?

フィリップ・K・ディックの処女作 『市に虎声あらん』 

2013.10.28 19:32|小説
 この小説はフィリップ・K・ディックの事実上の処女作ですが、出版されたのは2007年とのこと。日本語訳はもちろん初めて。訳者の阿部重夫氏は日経新聞元記者で、現在は雑誌の編集長をしている方だとか。

市に虎声あらん


 まち虎声こせいあらん』はSFものではありません。ディックが『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』など数多いSF作品を書き出す前に書かれた普通の小説です。しかし、そのなかにはディック晩年の『ヴァリス』3部作の独自の神学へと結びつくようなものが見られます。巻末に「ディックの原石――推薦の辞」という文章を寄せている山形浩生氏の言葉を引きます。

ディックはしょっぱなからディックだった。処女作にはその作家のすべてが、という陳腐なことは言いたくないが、でも本書に限ってはまさにそれがあてはまる。平凡で疎外された人生と不満、宗教を通じた現実の変容と、己自身の異形化=聖化を通じた帰還――その後のディックに見られる要素がすべて詰まっている。(p.544)


 ディックは70年代の神秘体験がひとつの転機となり、晩年の『ヴァリス』3部作などを書いたとされていたわけですが、この『市に虎声あらん』を読むと、これまでの見方を「大幅にひっくり返しかねない」(p.544)ような発見があると言えるのかもしれません。これまで転機と考えられてきた神秘体験ですが、この処女作からすでにそうした傾向はディックのなかに備わっていたように見えるのです。


※ 以下、ネタバレもあり。

 冒頭にC・ライト・ミルズ『ホワイト・カラー』の引用があります。ホライト・カラーとは、「社会からも、生産物からも、自我からも、疎外された存在、個人的には自由と合理性を剥奪され、政治的には麻痺状態にある存在――これが、みずからは意図せずに近代社会の先頭に立っているホワイト・カラーという新しいあわれな存在の姿である。」(C・ライト・ミルズ『ホワイト・カラー』序文より)となります。
 この物語は、そうしたありがちな疎外感を抱く普通の男が主人公です。モダンTVという街の電気屋に勤めるスチュアート・ハドリーの日常が描かれます。彼はモダンTVの経営者であるジム・ファーガスンからすると理解不能な若者です。すでに奥さんがいて子どもを身ごもっているという状況で、次の店長候補とされながらも仕事に身が入らないからです。ハドリーはある女性によって新興宗教の教祖と出会います。そして電気屋としての生活を捨てるような行動に出ます。
 ハドリーが何も求めてそんな行動に走るのかはよくわかりません。ジム・ファーガスンのような人間が人生の目的として掲げるであろう家庭や仕事以外の何か別のもの、ハドリーはそうしたものに惹かれています。妻とは別の女にかまけてみたり、新興宗教の教祖に入れ込んでみたり。しかし、そこにも満足するようなものはありません(こうした部分は晩年の神学へと結び付くところなのでしょう)。一種の地獄巡りを経たあとに家庭に戻ってきたハドリーは憑き物が落ちたような穏やかさを見せます。しかし、それは元のハドリーとは違う何者かでした。訳者の阿部氏はそれをディックのほかの作品に倣い「アンドロイド化」だと記していますが、それが何であれディックらしい敗残者の哀しみが感じられるラストでした。