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『ボルヘス・エッセイ集』 「永遠の歴史」を新訳で

2013.11.30 23:55|エッセイ
 ホルヘ・ルイス・ボルヘスのエッセイ集。『論議』『永遠の歴史』『続・審問』から厳選されたエッセイが集められています。たとえば「現実の措定」「永遠の歴史」「パスカルの球体」「ジョン・ウィルキンズの分析言語」「時間に関する新たな反駁」など。「ジョン・ウィルキンズの分析言語」は、フーコーが『言葉と物』でも言及していることでも知られています。
 ここに収められているエッセイは、ほとんど読んだことのあったものですが、特に「永遠の歴史」が好きで何度も読み返しています。僕が読んでいたのは土岐恒二氏が訳したものでしたが、今回の翻訳は木村榮一氏です。訳者解説では、「永遠の歴史」に関して詳しく解説がなされていて、とても参考になります。

ボルヘス・エッセイ集 (平凡社ライブラリー)


 「永遠の歴史」では、その内容の多くが先行するテクストの引用からなりますが、訳者の木村氏はそれをパズルのピースになぞらえています。しかもボルヘスは、そのピースとピースの間をつなぐような解説的な文章を付け加えずに圧縮します。だから時に論理が飛躍しているようにも感じられる部分もあります。
 僕が何度も「永遠の歴史」を読み返しているのは、ボルヘスの博覧強記ぶりに圧倒される楽しみもありますが、ボルヘスが記さないピースとピースのあいだも部分が、読むたび違ったものとして新鮮に感じられるということがあるかもしれません。時にはピース間を埋められたと感じることもあるからです。

 たとえばボルヘスの文章はこんな感じです。これは「現実の措定」の冒頭部分。

 ヒュームは、バークリの論証は一切の反論を許さないが、同時に説得力をまったく欠いていると永遠に書きとどめている。わたしは、クローチェの論証を打ち壊すために、できればそれに劣らず深い教養に裏打ちされた確固とした一文をものにしたいと思っている。(p.10)

 
 哲学に詳しい人ならばこれだけで何が語られているか理解できるのかもしれませんが、ちょっと僕には歯が立ちません。ヒュームとバークリの論争は大前提になっていますし、クローチェって誰なんでしょう?
 このエッセイは、このあと文学における「現実の措定」の三通りの方法について語ります。一つ目は「出来事を大まかに記述」する方法、二つ目は「読者に提示されているよりも複雑な現実を想定して、そこから派生する出来事や結果を語っていく」方法、最後は「状況を作りだす」方法。
 これらは引用される文学作品を読むと理解できなくもないのですが、最後の引用される詩とその注釈の部分は飛躍があって意味不明でした。もちろんボルヘスにとっては言わずもがなのことなのかもしれませんし、読者である僕の理解力不足も大きいのですが……。ボルヘスのこうした文章をより一層理解できるようになるには、どれほど知識が必要なのかと呆然としますが、そんな迷宮のような世界を訪れるのはやはり楽しくもあります。
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『桃源郷――中国の楽園思想』 中国における理想郷

2013.11.26 23:03|文学
 著者の川合康三氏は京都大学名誉教授だそうで、漢詩を専門とする方のようです。他の著書には『白楽天――官と隠のはざまで』『杜甫』などがあり、この『桃源郷――中国の楽園思想』でも多くの詩が引用され解説されます。

桃源郷――中国の楽園思想 (講談社選書メチエ)


 中国という国は儒教の影響が強いためか、現実的な考え方をすることが多いようです。だから桃源郷のようなユートピア思想は珍しいものなのだとか。それでも現実とは違う世界を求める願望はもちろん中国にもあって、著者の整理によれば、それは「仙人の住む世界(仙界)」「隠逸」の二つになります。
 神仙思想は仙人になって不老長生を得たいと願うことです。これは明らかに非現実的なものです。また、隠逸とは公的な場所から身を引いて、思うがままに暮らすことです。これはある意味では現実的ですが、経済的にそれを実現することが出来る人は限られています。ちなみに日本では隠者と言えば肉親とも縁を切って、出家して一人で生きる姿を考えますが、中国では家族が社会の最小単位だから一族郎党を引き連れて山に移ったのだとか。

 そんな非現実的な仙人の世界とは別に、楽園というものが古代から考えられてきました。たとえば「華胥氏の国」「建徳の国」などの楽園が知られています。そして楽園思想のなかで最も有名なのが桃源郷です。これは陶淵明「桃花源記」に初めて描かれたもので、中国では桃源郷ではなく「桃花源」と呼ばれています。「一面に桃の花咲き乱れる地」という表現は幻想的な世界ですが、実際の「桃花源記」に描かれている世界は意外に普通の村とも言えます。
 「桃花源記」の主人公である漁師は川を遡っていき、桃花源に辿り着きます。川を遡ることが過去に遡ることの象徴であるというのは、様々な文学に見られます。著者が指摘しているコンラッド『闇の奥』であるとか、カルペンティエル『失われた足跡』などもそうでしょう。辿り着いた桃花源の人々は数百年前、世の中の混乱から逃げてきた人たちの末裔であり、外部との接触を避けて昔ながらの生活を保っています。人々の服装などでは違いが見られ、税金がないとか身分の差がないようですが、ごく普通の平穏な村に過ぎません。理想郷が過去に見出だされるのは、『ユートピアだより』と同様です(皆が楽しそうに農作業を営む姿もそれを想起させます)。
 「桃花源記」は陶淵明の時代に書かれた志怪小説とも似ています。志怪小説とは「超自然なできごとをあらすじだけ、物語としてのふくらみもないまま記録したもの」です。その時代の中国では、都がそれまでとは風土の異なる南方に移り、別の世界を知ることになりました。ユートピア文学が大航海時代に盛んになったように、新たな世界を知った中国でも不思議な世界を訪れる志怪小説が生まれたということです。
 「桃花源記」もそうした土壌のうえに生まれたものですが、志怪小説が描く「超現実に入る一歩手前で踏みとどまっている」と著者は言います。桃花源は不思議な世界ではあるけれど、あり得ない事柄は書かれていないからです。
 また、著者は桃源郷を仙界とは異なるものとして注意を促しています。仙界は異界であり、仙界から戻ってきた人が現世との時間的差異を知るというのは、日本でも浦島太郎などに見られます(たちまち白髪のお爺さんというやつです)。しかし桃源郷の世界にはそうしたタイムラグはありません。桃源郷は異界ではなく、この世のどこかに想定されているわけで、陶淵明が描いていたのは「彼の夢想する楽園」なのです。陶淵明が求めたのは、志怪小説が描く不思議な世界や、仙人の住む異界のあり方ではありません。それよりも桃源郷に住む人々の喜びに満ちた姿こそが主題であり、陶淵明の卓越した表現によってそれが文学足りえたからこそ、桃源郷が楽園の代名詞として受け止められるようになったというわけです。

『ユートピアだより』 理想の社会のあり方とは?

2013.11.24 22:14|小説
 ウィリアム・モリスは19世紀に詩人やデザイナーとして知られていた人物ですが、現在ではこの『ユートピアだより』という小説の作者として有名です。これは今年になって岩波文庫から出た新訳です(もともとは2003年の晶文社版)。翻訳者は川端康雄氏。

ユートピアだより (岩波文庫)


 ウィキペディアの「ユートピア」の項目を見ると、「マルクス主義からは「空想的」と批判されたユートピア思想であるが、理想社会を描くことで現実の世界の欠点を照らす鏡としての意義を持っている」と記されています。作者のウィリアム・モリスもマルクス主義者であり、この『ユートピアだより』は革命が成就して達成されるはずのモリスの理想とする社会像が描かれていきます。

 主人公は目を覚ますと22世紀のロンドンにいます。19世紀末から一気に約200年先の未来世界にタイムスリップしてしまったのです。しかし、この小説はSFのような世界観ではありません。主人公は親切なお隣さんたちに案内されて22世紀のロンドンを旅することになりますが、その世界は19世紀末よりも過去に遡ったような牧歌的な世界です。科学技術の進歩は制限され、資本主義という制度は揚棄された、マルクス主義者の考える理想社会の姿があります。
 貨幣はなく、財産権もない。財産権がないから争いがない。争いがないから刑罰もない。政府も議会もなく、人々はそれぞれのコミュニティの話し合いのようなもので社会を運営していきます。また、人々はそれぞれの仕事を義務としてではなく、楽しみとして考えています。生活そのものが芸術的営為として成り立っているのです(このあたりはアーツ・アンド・クラフツ運動を主導していたモリスの理想が反映しています)。これはとても美しい世界であり、主人公もあまりに幸福に満ちていて不安に駆られるほどなのです。

 もちろん『ユートピアだより』の世界は夢に過ぎないわけですが、モリスの意図としては、理想社会を描くことで現実社会のあり方に疑問を投げかけるほうにあるわけです。それにしても、理想社会のあり方がはるか昔の社会に似通ってしまうというのは皮肉な感じがします。現代の社会が便利な一方でどこかぎすぎすして住みにくい部分があるのは確かですが、そうした便利さを捨てて昔に戻るのは、革命が起きるのと同様に不可能な気がしますから。
 「黄金時代」という言い方があります。かつて人間は理想郷に住んでいたという考えです。モリスが考える理想郷も過去に遡った中世にあるようで、中世に関する言及が何度か出てきます。また訳注には「モリスの講演や書簡を見ると、文明が資本主義によって徹底的に腐敗させられてしまったため、文明の真の再生の前に野蛮時代のようなものが必要であるとモリスが信じ、またその時代を期待していたことが随所にうかがわれる。」(p.425)とあります。
 モリスは「野蛮時代」という言葉を肯定的に使っているらしく、こんな手紙を書いているようです。

「わたしは「文明」の未来について芥子種一粒ほどの信仰ももてません。それが滅び去る定めであることがいまやわたしにはわかるのです。いまひとたび未開状態(バーバリズム)が洪水のごとく世界に押し寄せて、本当の感情と情熱が――それがいかに未熟なものであれ――この情けない偽善に取って代わるのを想像してみるのは、なんと楽しいことでしょう」(p.426)


 確かにモリスが描いた世界は理想郷と言えるものなのですが、また未開状態に戻るのは到底現実的ではありませんし、恐ろしいことです(この小説のなかでも革命の過程では多くの血が流れます)。今のような世界を捨てずに、過去に戻るのでもなく、しかも理想的な社会というのを描ければいいのですが、どうもその方向性にもあまり希望が見えないような……。