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『タイムマシン』 タイム・トラヴェルSFの元祖を読む

2013.12.29 19:47|小説
 言わずと知れたH.G.ウェルズのSF小説。訳者は池央耿氏。
 先日読んだクルジジャノフスキイというソ連の作家の『未来の回想』という小説が、『タイムマシン』の影響下にあったので、いまさらながら手に取りました。
 『未来の回想』は「時間」に関する思索小説のような雰囲気で、細部の描写がユニークでした。

タイムマシン (光文社古典新訳文庫)


 2002年の映画版『タイムマシン』を観て小説も読んだつもりになっていたのですが、映画と小説ではかなり違いがありました。ちなみに、この映画版はH.G.ウェルズの曾孫が監督したと公開の際は宣伝されていましたが、実際は撮影中に体調を崩し『パイレーツ・オブ・カリビアン』のゴア・ヴァービンスキーが共同監督となっていたようです。
 映画版では小説と異なり、主人公がタイムマシンを設計する動機が描かれます。主人公は愛する婚約者を強盗に殺害され、婚約者を取り戻すために過去に戻ることに執着することになります。小説に描かれるような80万年後の未来に辿り着くのは、アクシデントのため偶然にという設定になっています。
 一方で、ウェルズの原作では主人公のタイム・トラヴェラーは、未来を見に行くことを目的としています。これがちょっと意外でした。タイム・トラヴェルSFの元祖とも言える『タイムマシン』ですが、過去に戻ることは一切ないからです。
 巻末の解説では、巽孝之氏がその影響下にある作品を色々と並べています。そのなかでも人気のある『夏への扉』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のようなジャンルの作品は、過去を変えることがテーマになります。映画版『タイムマシン』で付け加えられたエピソードと同じように、過去に戻りそれを変えることで自らの状況を変化させようとします。生きていれば誰でも少なからず持つであろう後悔を帳消しにしようという意図が感じられます。これは誰もが一度は願うことなのかもしれません。だからこそタイム・トラヴェルSFが人気となるのも頷けます。
 しかし小説『タイムマシン』は、過去にはほとんど興味がないようです。ウェルズは未来予測を得意としていたこともあり、そんな著作もあるようですが、この小説『タイムマシン』でも人類の果てしない未来の姿を描いています。イーロイモーロックという2種類の人類の子孫は、階級社会のなれの果てであるわけですが、ウェルズはその先の先まで見据えます。人類が滅んで太陽も膨張しているような未来の姿まで幻視しています。カニの化け物が徘徊するその世界は地球とは思えない恐ろしいものです。
 過去はもしかすると歴史書などで知ることができるかもしれませんが、未来は違います(ちなみに『未来の回想』では、決定していない未来への旅は世界の色が失われた不確定なものになります)。ウェルズは誰も知らない未来にこそ純粋な興味を持っていたのでしょう。そんなウェルズだからこそ、『モロー博士の島』『透明人間』『宇宙戦争』などの後世に残るSFを生み出すことが可能だったのかもしれません。タイム・トラヴェルの後発作品の多くは、ウェルズの生み出したタイムマシンという驚きのアイディアを用いていますが、その興味関心の方向性はまったく異なるものです。ウェルズの独自性はこんなところにも表れているのかもしれません。

タイムマシン 特別版 [DVD]


未来の回想


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『「福音書」解読 「復活」物語の言語学』 イエス復活を告げる若者とは誰か?

2013.12.25 21:19|宗教
 著者の溝田悟士氏はまだ30代の研究者で、この本も博士論文をもとにしたものだそうです。

「福音書」解読 「復活」物語の言語学 (講談社選書メチエ)



 キリスト教信仰の核心部分にあるのが、「復活」の教えを信じることです。この本では最も古い福音書とされるマルコ福音書のなかで、イエスの復活を知らせる白い長い衣を着た「若者」は誰なのかという疑問からスタートします。マルコ福音書にはもう1箇所「若者」が登場する場面があります。それはイエスが逮捕される場面です。ここでは素肌に亜麻布をまとった「若者」がイエスのそばにいますが、イエスが捕らえられると亜麻布を捨てて裸で逃げてしまいます。この2箇所の「若者」は同一人物なのか? また、その正体は誰なのか? そんな疑問に答えようとするのがこの本の目的です。

 著者は、学問的な厳密さを重視しており、僕のような素人には瑣末に感じられる部分もあるのですが、過去の学説を辿り、論理学だとか言語学などの理論を駆使し、丁寧に福音書を読み解いていきます。そして、著者はこの「若者」を使徒ペトロだとします。
 まず著者は、マルコ福音書に登場する2箇所の「若者」を同一人物として捉えます。そして亜麻布を着ていた若者が、イエス復活のときに白い長い衣を着ていることに注意を促します。「亜麻布→白い長い衣」という変化は、正反対の形でマルコ福音書に描かれています。「イエスの変容」の場面では、高い山の上でイエスが真っ白に輝きますが、その後に十字架から降ろされたイエスは亜麻布に包まれるのです。亜麻布は死のイメージを持ち、白という色はその反対の何かです。「若者」が着ていた亜麻布をイエスが着ることになり、それと交換するように「若者」は白い長い衣を身にまとうことになるわけです。
 これは「本来は死ぬべき運命であった「若者」が身に負っていた「死」をイエスが「代わりに負った」という教義の根本に存在するキリストによる「贖い」の思想」(p.126)を表しています(「贖い」の思想は、無実のイエスの代わりに殺人者のバラバが釈放されるという部分にも表現されます)。
 こうして後に成立した福音書や様々な俗説を退けていくと、キリスト教の最も古い「言い伝え」(第一コリント)に書かれているように、ペトロがその「若者」であるというのが、著者の結論です。著者も「今までにない新しい試み」と記しているように、大胆な説なのかもしれませんが、丁寧な筋道の展開に納得させられます。

 個人的に興味深かったのは、マルコ福音書の再読構造という部分です。マルコ福音書が再読されるべきものだという指摘は、ほかの学者も唱えていることらしいのですが、著者は印象批評ではなく「復活」という言葉の使われ方に注目してそれを論じます。日本語で「復活」と訳された言葉には、実はギリシャ語のegeiro(目覚めさせる)とanistemi(立ち上がる)の2種類があり、それが使い分けられています。マルコ福音書は死んだはずのイエスの遺体がなかったという部分で突然終わってしまいます。つまり予告されていた復活が描かれていません。しかし、再読されるものとなると話は違います。マルコ福音書の冒頭では、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて……(中略)……ガラリア中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。」(マルコ1:35~39)と記されています。ここでのイエスが「起きて」というのは、anistemi(立ち上がる)という「復活」を意味する言葉で記されています。つまりはマルコ福音書では最後で姿を消したイエスですが、再読することで、ガラリアにおいて復活し布教を再開するという円環構造をなすことになるわけです。

 マルコ福音書の著者は、キリスト教の核心になっているイエスの十字架と復活による人びとの救済という古くからの「言い伝え」を、くりかえし読まれる円環的な物語の形式に組みなおすことで、死によって終結する「現世の生」を超えた「永遠の生」の存在を表現しようとしていると考えられます。(p.171)


 こうした円環構造の物語は珍しいものではありません。著者が例として挙げているのは、まど・みちお氏の『やぎさんゆうびん』という詩(「しろやぎさんから おてがみついた」というやつ)です。僕の好きな映画に結びつければ、キム・ギドク監督の『絶対の愛』も、ラストが冒頭へと結びつく円環構造を持つ映画でした。多分ほかにもこういった例はあると思いますが、まさか福音書がそんな構造だとは考えてもみなかったので、新鮮な驚きがありました。敬虔な信者の方は福音書を何度も読み返すのでしょうから、もしかしたら自明のことなのかもしれませんが……。

リチャード・マシスン 『縮みゆく男』 蜘蛛との闘いあるいは実存主義的な問い

2013.12.09 22:27|小説
 今年の6月に亡くなったリチャード・マシスンの新訳。訳者は本間有氏。解説には町山智浩氏も「私も縮みゆく男だった」という文章を寄せています。

縮みゆく男 (扶桑社ミステリー)


 リチャード・マシスンの本はいくつかの短編と『ある日どこかで』『アイ・アム・レジェンド』しか読んでいないのですが、今回新訳になった『縮みゆく男』もまったく違ったアイディアで楽しめました。マシスン作品の多くは映画にもなっていますが、ロマンチックなタイム・トラベルもの『ある日どこかで』とか、ゾンビ映画の原型ともなっている『アイ・アム・レジェンド』や、スピルバーグのデビュー作となった『激突!』など本当に多彩で、様々な引き出しを持っているのだと今回も驚かされました。

 最初は男と蜘蛛との闘いが描かれます。蜘蛛は男の背丈ほどの大きさがあり、男に憎しみを抱くように襲ってきます。男は砂地を駆け抜け、缶の森に逃げ込み、何とか追っ手の目を掻い潜ります。実はこれは地下室のなかの出来事なのですが、主人公スコットはある原因により蜘蛛と同じ大きさほどに縮んでしまったというわけです。そこまで背が縮むと蜘蛛は巨大なモンスターになり、階段の段差はそそり立つ絶壁に成り代わるというわけです。最初から読者をひきつける展開です。
 小さくなった男には日常生活そのものがサバイバルとなり、食料も水も満足にないなかで様々な闘いが続きます。このあたりはSFとか冒険小説のような展開ですが、一方で回想の場面では、“縮みゆく男”となってしまったスコットが地下室に閉じ込められた現在までの経緯が追われていきます。スコットの計算によれば、彼は1日に7分の1インチずつ縮んでいき、それがゼロになるのはあと6日。ゼロになれば消えうせてしまうということになるわけで、残された日々をどう生きるのかという根本的なテーマ(解説では実存主義的な問いとして捉えられています)にも踏み込んでいきます。

 解説によれば“縮みゆく男”が象徴しているのは、戦争から帰ってきてサラリーマンになった男たちが、社会的存在価値を減じていく様子でもあるようです。たしかに平和な社会のマイホームでは、戦場よりも男たちの居場所はなくなるのかもしれません(日本の多くの家庭でもそうでしょう)。スコットが小さくなるにつれ、夫婦間の愛情は失われ、父親としての威厳もなくなっていきます。身体のサイズだけの問題なのですが、虫ほどのサイズの人を愛することは難しいでしょう。とにかく色々な読み方が出来る小説だと思います。単純な僕としては、残り少ない時間を蜘蛛との闘いに振り向けるスコットの姿に感動しました。