fc2ブログ
12 | 2014/01 | 02
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
プロフィール

moyai

Author:moyai
興味の範囲はごく限られ、実用的なものはほとんどないかも。

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

カウンター

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログランキング

ランキングに参加しました。

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

『動物的/人間的 1.社会性の起原』と大澤真幸の新連載

2014.01.31 23:58|社会学
 『ゆかいな仏教』で質問者役を務めていた大澤真幸氏が、<人間とは何か?>という大きな問いに迫る本です。
 この本はおととしの夏に出版されたものですが、大澤氏が今年から始めた新連載が似たようなことを扱っているようなので、慌てて手に取りました。

動物的/人間的 1.社会の起原 (現代社会学ライブラリー1)



 人間とは何か? 動物との関係において、人間とは何か? これは、すべての知を支配する中心的な問いである。私の考えでは、この問いを十分な深みにおいて捉えると、その探求は、必然的に、最も広い意味での社会学――動物の行動までをも視野に入れた大きな社会学――になる。(p.145)


 上記は「あとがき」に記された言葉です。大澤氏は以前からそうした構想を持っていて、その端緒となるはずの本がこの『動物的/人間的 1.社会性の起原』です。この本は「現代社会学ライブラリー」というシリーズのひとつらしく、社会学者たちが中心となってつくりあげる予定の第一弾として登場したものです。この本に「1.」という番号が振られているのは、『動物的/人間的』と題するシリーズの序章になるということ。以降、「2 贈与という謎――霊長類の世界から」「3 社会としての脳――認知考古学と脳科学の教訓」「4 なぜ二種類(だけ)の他者がいるのか――性的差異の謎」が予定されています。
 この本自体は序章ですから、これから大澤氏の議論を展開する前の準備段階という位置づけになっています。だからこの本だけでは、特段の結論めいたものはありません。ページ数も150ページを切るという程度ですが、内容は密度の濃いものとなっていると思います。
 そして、大澤氏の本のよりよい読者ならば、「社会性の起原」という題名を見ただけで、大澤氏の師匠筋にあたる見田宗介真木悠介)氏の『自我の起原』を思い起こすかもしれません。実際に、この本の第3章「動物の社会性」では、「生物の個体の圧倒的な利己性といくつかの例外的な利他性とを統一的に説明する理論基本的な枠組み」について、『自我の起原』から多くの助けを得ています。また、85ページの脚注には「この論考は、真木悠介の『自我の起原』への応答としての側面をもっている。」と記されています。正面切ってこんなふうに記すということで、大澤氏の並々ならぬ意欲が感じられるようです。

自我の起原―愛とエゴイズムの動物社会学 (岩波現代文庫)


 さて、冒頭に触れた大澤氏の新連載ですが、講談社のPR誌『本』で今年から始まったばかりです。連載タイトルは「社会性の起原」であり、『動物的/人間的 1.社会性の起原』の続きを思わせますが、特に連続性はありません。ただこの本と同様の問いを扱っています。冒頭は、20世紀で最も影響力が大きかった哲学者ジャック・デリダが最後に探求していたのが、「動物、あるいは、人間と動物のあいまいな境界」についてだったというエピソードから始まっています。『本』の新連載と、この現代社会学ライブラリーのシリーズの関係性はわかりませんが、どちらも楽しみです。
スポンサーサイト



『ゆかいな仏教』 橋爪×大澤の宗教対談第2弾

2014.01.31 19:50|宗教
 『ふしぎなキリスト教』橋爪大三郎氏と大澤真幸氏が再び取り組んだ対談本。今回の対象は、題名の示すとおり仏教です。「ゆかい」かどうかは疑問ですが……。

ゆかいな仏教 (サンガ新書)


 この本でも『ふしぎなキリスト教』と同様に大澤氏が質問を発し、橋爪氏が答える形で対談は進みます。仏教をネタにした対談ですが、仏教の概説的な本ではないようです。橋爪氏は『仏教の言説戦略』という本も執筆していますが、独特な仏教理解を展開しているようです。
 橋爪氏は上記の本では、仏教とは「悟りを訊ねあうゲーム」だとして論を進めていきます。この『ゆかいな仏教』でも、仏教の悟り(覚り)は、言葉では説明することができないものだから、「仏教にはドグマはない」と言い切っています。加えて「仏教の信仰の核心は、メッセージとして伝わらなくても、≪ブッダ(ゴータマその人)は、覚ったに違いない≫と確信すること。その確信がすべてなのです。」(p.30)とも語っています。
 『世界は宗教で動いてる』などの著作もある比較宗教学の専門家でもある橋爪氏は、ほかの宗教についても詳しいわけで、そうした見地から仏教の枝葉末節の部分を切り落とせば、そういう結論になるのかもしれませんが……。とにかく橋爪氏が考える仏教のエッセンスが示された本です。

 一方で大澤氏は、西洋哲学やキリスト教と仏教を比較してみようとします。たとえばアイザイア・バーリンの自由論について。バーリンは自由をふたつに分類しました。積極的自由消極的自由です。消極的自由とは「他人に邪魔されていない状態」であり、積極的自由とは「自分が自分をきちんと制御できている状態」のことを言います。これだけを見ると積極的自由がいいものと思えますが、バーリンが憂慮しているのは、積極的自由にはファシズムやスターリニズムが入り込んでくるような余地があるということです。自由があってもそれを何に振り向けるかという点は、非常に難しい問題だからです。革命政党などは人民が何を欲望するべきか、何を目指すべきかを知っていると標榜します。そうなるとかえって自由が抑圧されることがあり得るということになります(だからバーリンは消極的自由に留まるべきだとしました)。
 大澤氏曰く、バーリンは仏教のような「内なる砦への撤退」を積極的自由派として捉えました。仏教は煩悩(欲望)を取り除くことを主張します。「すべての欲望を無化することができたとしたら、欲望にまったく翻弄されていない状態が実現したことになります。それは、定義上、積極的自由が実現したことになる。これが仏教版の積極的自由です。」(p.125)これは本当に自由なのか、と大澤氏は問います。ここでは覚り(=積極的自由)というものを得たとして、それが果たして有効なものなのかということが問われています。
 おそらく煩悩が消えたときがそのまま覚りとなるわけではないのでしょうが、煩悩が消えた先に覚りというものがあるのでしょう。そんな覚りを体験し、そのあと元の自分に戻ることの重要性を橋爪氏は語ります。覚りは一瞬だと言います。そこに留まることはできません。そこから必ず現実の世界に戻ってくることになります。それでも覚りを体験したあとは元の世界が違って見えてきます。そうすると現実の問題にも、かつてとは違った具体的な解決策が出てくるのだと言います。
 ゴータマも35歳で覚りを得て、80歳まで説法を続けながら生き続けました。覚りはそれだけでこの上ない救いになるとされます。それでもやはり元の場所に戻り、具体的に現実的問題に対処することが重要視されているのです。アマゾンのレビューを読むと色々と批判も多い本ですが、このあたりの議論は非常に真っ当なものだと思えます。

長嶋有 『問いのない答え』 SNSが育むコミュニケーション

2014.01.19 23:35|小説
 『猛スピードで母は』『夕子ちゃんの近道』などの長嶋有氏の最新小説。

問いのない答え


 「答えのない問い」というのはよくあります。実際の人生においては、多くの問題には明確な答えなどないのですから。しかし「問いのない答え」というのはどういうことでしょうか? これは、この小説の登場人物の一人であるムネオが、周囲を巻き込んでツイッター上で行っているゲームみたいなもののことです。
 僕自身はツイッターやフェイスブックなどのSNSは利用していませんが、世間では人とのつながりを求めるのか、そうしたSNSが大流行なようです。この小説もそうしたSNSを介した言葉のやりとりを小説化したような作品になっています。だから物語らしい展開はありません。登場人物は数多く、特段誰が主役ということもなく、言葉と言葉のつながりそのものが小説を形づくっていきます。
 前の行のちょっとしたキーワードを受けて、次の行からは別人の話に飛んでいったりするので、最初はちょっと戸惑いますが、話があっちへ行ったりこっちへ行ったりという展開するのはツイッター上のやりとりに似ているのかもしれません。

 さて「答えのない問い」というゲームですが、これを詳しく説明すればこんなものです。たとえば質問者は「なにをしたい?」とだけ質問します。回答者は、この前提条件を著しく欠いた質問に、勝手な推測や自分の思い込みで答えます。「海にいきたい」「とりあえず濃いお茶が一杯のみたいです」といった常識的なものから、「あえて言えば裏返したいかな」といった意味不明な回答もあります。
 実は最初の質問は、質問の前段部分が公開されていない、不正確な質問だったわけです。この質問の前段には「宝くじで三億円あたったら」が隠されているかもしれないし、「後ろにも目があったら」が入ってくるのかもしれません。つまり、質問の正確な意図を知る前に回答者は答えなければならず、トンチンカンなやりとりになるのは必定なわけです。
 「宝くじで三億円あたったらなにをしたい?」という質問に「とりあえず濃いお茶が一杯のみたいです」と答える人ならば、突然の幸福にも身を持ち崩すことなく生きていけるような人となりがわかるかもしれません。「後ろにも目があったらなにがしたい?」という質問に「海にいきたい」と答えてしまったならば、誰にも知られずに後の目で水着の女性を盗み見るという願望が露になってしまうかもしれません。こんなある意味では無意味な、人とのつながりを確認するためのやりとりが「問いのない答え」というゲームです。
 またこうしたエピソードのひとつで、2008年に現実に起きた「秋葉原通り魔事件」を取材するサキという小説家の話があります。犯人の加藤某は、ネット上の掲示板でさまざまな言葉を書き散らしたあげく、勝手に世間を敵視して凶行に及びました。小説家のサキは加藤を調べる課程で、こんなことを考えます。

 一方で「どうして?」という「問い」が、大勢からいっせいに加藤に向けられた。どうしてトラックで突っ込んで、ナイフを用いたのか? なぜ無関係の人間に不満をぶつけたのか?
 その問いの前に答えがある。(p.92)


 そして「加藤はナイフを行使することで世間になにかを問うたのではなく、とにかくいきなり、なにも問われてないのに答えたんだ。」(p.93)とサキは推測します。ネットのサービスは人と人とのつながりを手助けするものであるわけですが、一方で加藤某のように勝手な思い込みからディスコミュニケーションに陥るような場合もあるようです。彼が何を問われていると勘違いしたかよくわかりませんが、この作品はコミュニケーションそのもの――それが幸福なつながりになるのか、酷い結果を招くのかはわかりませんが――そうしたものを描いているようです。
 作者の長嶋有氏は題名の付け方がうまいと評されるようですが、この作品もさすがに絶妙で、常識的な「答えのない問い」ではない「問いのない答え」という奇妙な題名に惹かれて読んでしまいました。