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P・K・ディック 『時は乱れて』 ファン待望の復刊!

2014.03.31 20:45|小説
 フリップ・K・ディックの1959年の作品。日本ではサンリオ文庫で出版されていますが、長らく絶版となっていたものが、今回はハヤカワ文庫にて復刊しました。
 ディック作品によく見られる「現実崩壊感覚」を端的に示したような「Time Out of Joint」というのが原題。もちろんこれは、シェークスピアの戯曲『ハムレット』のセリフ「The time is out of joint.」(この世の関節がはずれてしまった。)から取られています。

時は乱れて (ハヤカワ文庫SF)


 
 主人公のレイグル・ガムは、「火星人はどこへ?」という懸賞クイズで2年間も連続して勝ち続けているチャンピオンだった。しかし、そのクイズに参加し、正解を出し続けることも重荷になってきていた。

 ディックは「現実崩壊感覚」を日常的な描写で示しています。たとえば、三段あると思っていた階段が二段しかなくて、空を踏む場合などもそれに当たるでしょう。自分の信じていた土台が崩れていく感覚がここにはあるのだと思います。また、主人公のいる世界は、マリリン・モンローが存在しない世界なのですが、それがたまたま見付かった本当の世界の雑誌グラビアという形でその世界に侵入すると、偽りの世界に綻びが生まれていきます。この前半にはSFガジェットなどほとんど登場しないのですが、そんな日常の世界から、次第に仕組まれたものが露呈してくるあたりはディックらしい作品になっています。
 解説によれば、アメリカで出版されたときも「A Novel OF MENACE」というキャッチだったようで、SFというよりはサスペンスフルな作品になっていますし、破綻のない展開で読みやすい作品だと思います。

 この世界が「偽りの世界」だという考えは、古くはプラトンのイデア論などとして、哲学では論じられてきたものです。この小説でも主人公がカントの「物自体」や、哲学に関して興味を抱いている箇所が登場しますが、ディックは哲学的な問題を小説のなかにうまく取り込んでエンターテインメントにしています。
 そういうところが映画に向いているのか、ディック作品は映画化作品も多いですが、たとえば『トゥルーマン・ショー』『時は乱れて』のアイデアをコメディタッチにして取り上げたものでしょう。トゥルーマンの世界がテレビ撮影のための作られた世界だったように、レイグルのいる町もレイグルを中心に作られた世界なのです。
 「わたしは、この惑星の救済者なのだ。」(p.323)とレイグルが気づくあたりは、短編『模造記憶』にも似ているし、レイグルが自分の記憶を失って敵と味方を行き来するような設定は、『模造記憶』を映画化した『トータル・リコール』の展開にも似ています。多分、これも様々なディック作品から映画が適当にパクっていたわけですが。
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『黙示録――イメージの源泉』 映画と黙示録の関係など

2014.03.30 15:21|宗教
 著者は岡田温司『フロイトのイタリア』という本では読売文学賞を受賞とのこと。
 恥ずかしながら聖書をきちんと読んだことはないのですが、『ヨハネの黙示録』に関しては、意味がわからないながらも読みました。それはひとえにD.H.ロレンス『黙示録論』が好きだからです。きっかけは雑誌の対談で「『黙示録論』のなかにエヴァンゲリオンのすべてが書かれている」などと、誰かが語っていたから。ロレンスは聖書のなかで『ヨハネの黙示録』が最も嫌悪すべき篇だと記していますが、同時にそのわからなさに惹かれてもいて、死の間際に『黙示録論』を完成させます。この『黙示録――イメージの源泉』では、そんな黙示録というものが与えた影響を追っています。

黙示録――イメージの源泉 (岩波新書)


 キリスト教では裁きの日が訪れると、キリストが再臨して、すべての人が生き返り、裁きを受けることになります。そうなると、いつその日がやってくるのかが問題になります。パウロは「マラナ・タ」と『コリントの信徒への手紙 一』に記しています。このアラム語の言葉は、「主よ、来てください」を意味すると同時に「主はすでに来ている」をも意味します。つまり「「いまここ」と「いつの日か」、「すでに~ある」と「いまだに~ない」、そのあいだを生きるのがキリスト教徒の宿命である。」(p.44)と著者は記します。
 これはキリスト教の教えを広める側としては、当然の戦略だとも言えます。裁きの日が1万年後に来るとすれば、誰も教えを聞こうとしないでしょうから。裁きの日が近いということになれば、悔い改めることもあるかもしれません。そんな期待と不安の気持ちを煽るのが、黙示録というものなのでしょう。
 キリスト再臨の前にはアンチ・キリストが現れ、この世を破壊します。「最終的な破滅が起こらない限り、最終的な救済もない」(p.50)とも著者は記しています。そうした恐怖でもって、人びとの不安を煽り、信仰に駆り立てるというわけです。「黙示録的終末論において、危機の意識と、裁きの要請と、報いと救済への希望という三つの契機は、切り離して考えることができない。」(p.74)という部分など、納得させられます。

 著者は美術史あたりが専門らしく、この『黙示録――イメージの源泉』の後半では、黙示録が絵画や映画など幅広く影響を与えていることについて記しています。たとえばフリッツ・ラングの古典的名作『メトロポリス』にも、黙示録を踏まえた描写があるのだとか(指摘されなければわからないかも)。それから『ゴジラ』などもそうですが、最近の『パシフィック・リム』なんかでも、人類の敵は海からやってきましたが、これも黙示録に「海の中から上がって来る」と記されていることが影響を与えているようです。映画好きの僕としては、様々な映画において何げなく見過していた部分にも、黙示録の影響というものを見ることが出来て有意義でした。

黙示録論 (ちくま学芸文庫)


『『ユダ福音書』の謎を解く』 「救われた救済者」とは何か?

2014.03.23 13:30|宗教
 著者はエレーヌ・ペイゲルスカレン・L・キング。訳者は山形孝夫新免貢
 異端とされて長い間埋もれていた『ユダ福音書』について、その隠された意味の解明を試みた本です。

『ユダ福音書』の謎を解く


 新約聖書の4つの福音書では、ユダはイエスを裏切った人物として描かれています。それでも『ヨハネによる福音書』では、イエスはユダに「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言いつけていますから、イエスはユダの裏切りを知っていて、神が決めたこととして従ったわけですが、『ユダ福音書』ではさらに一歩進んで、ユダこそがイエスを最も理解していた人物とされています。イエスの考えを理解していたからこそ、ユダは裏切ったというわけです。この考え方はもちろん正統派には受け入れがたいものなのだと思いますが、『ユダ福音書』ではほかにも正統派に対する異議申し立てがあります。
 それは「神のために死ぬ=殉教」という論理に対する怒りです。『ユダ福音書』では「霊は命であるが、肉は何の役にも立たない」とイエスは教えていますが、当時の多くの信奉者は救われるためには苦痛が不可欠であるとも考えていたようです。イエスが人類の罪を背負って十字架にかかったように、自らを犠牲にすることを厭わない信奉者もいたようです。正統派はこうした殉教を美化することで、それを助長しました。「犠牲システム」は政治権力者にとっては都合のいいことです。正統派はこうした異議表明を異端として退けることで、政治権力者たちの都合のいいように信奉者たちを権力側に差し出してきたというわけです。

 また個人的に興味深かったのは、この本の主要テーマとは離れた箇所、第1章の原注にある「救われた救済者」という考え方です。

 ある学者は「ユダは、イエスが必要としていることを実行できた唯一の人物であった、と書いている。すなわち、殺されることによって、死すべき肉体にとらわれている状態から脱出できるように、イエスを当局に引き渡すことができた唯一の人物であった」と。この言い方は、グノーシス派が肉体とこの世を蔑視し、それらを悪と見なしたことを前提としている。それはかくして、救済者が人びとを肉体の牢獄から解放するためにやってきたのだが、彼自身囚われの身となっていたために彼を救う誰かを必要としているという前提である(しばしば「救われた救済者」と呼ばれる見解)。この場合、囚われたイエスを救ったのは一応、ユダであったということになる。(p.23)


 これはグノーシス的な考え方で、イエスは肉体に囚われているわけではなかったというのが、『『ユダ福音書』の謎を解く』の著者たちの見解です。グノーシス的な考え方で『ユダ福音書』を読むことには、著者たちは注意を促しているわけですが、それはそれとして、ここで言いたいのは「救われた救済者」という考え方があることを初めて知ったということです。もちろん僕自身の不勉強もありますが、こうした考えも異端として退けられてきたからこそ、あまり目にすることがなかったということもあるのかもしれません。だとすると、こうした著作は非常に意義のあるものだという気もします。