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『黙示録――イメージの源泉』 映画と黙示録の関係など

2014.03.30 15:21|宗教
 著者は岡田温司『フロイトのイタリア』という本では読売文学賞を受賞とのこと。
 恥ずかしながら聖書をきちんと読んだことはないのですが、『ヨハネの黙示録』に関しては、意味がわからないながらも読みました。それはひとえにD.H.ロレンス『黙示録論』が好きだからです。きっかけは雑誌の対談で「『黙示録論』のなかにエヴァンゲリオンのすべてが書かれている」などと、誰かが語っていたから。ロレンスは聖書のなかで『ヨハネの黙示録』が最も嫌悪すべき篇だと記していますが、同時にそのわからなさに惹かれてもいて、死の間際に『黙示録論』を完成させます。この『黙示録――イメージの源泉』では、そんな黙示録というものが与えた影響を追っています。

黙示録――イメージの源泉 (岩波新書)


 キリスト教では裁きの日が訪れると、キリストが再臨して、すべての人が生き返り、裁きを受けることになります。そうなると、いつその日がやってくるのかが問題になります。パウロは「マラナ・タ」と『コリントの信徒への手紙 一』に記しています。このアラム語の言葉は、「主よ、来てください」を意味すると同時に「主はすでに来ている」をも意味します。つまり「「いまここ」と「いつの日か」、「すでに~ある」と「いまだに~ない」、そのあいだを生きるのがキリスト教徒の宿命である。」(p.44)と著者は記します。
 これはキリスト教の教えを広める側としては、当然の戦略だとも言えます。裁きの日が1万年後に来るとすれば、誰も教えを聞こうとしないでしょうから。裁きの日が近いということになれば、悔い改めることもあるかもしれません。そんな期待と不安の気持ちを煽るのが、黙示録というものなのでしょう。
 キリスト再臨の前にはアンチ・キリストが現れ、この世を破壊します。「最終的な破滅が起こらない限り、最終的な救済もない」(p.50)とも著者は記しています。そうした恐怖でもって、人びとの不安を煽り、信仰に駆り立てるというわけです。「黙示録的終末論において、危機の意識と、裁きの要請と、報いと救済への希望という三つの契機は、切り離して考えることができない。」(p.74)という部分など、納得させられます。

 著者は美術史あたりが専門らしく、この『黙示録――イメージの源泉』の後半では、黙示録が絵画や映画など幅広く影響を与えていることについて記しています。たとえばフリッツ・ラングの古典的名作『メトロポリス』にも、黙示録を踏まえた描写があるのだとか(指摘されなければわからないかも)。それから『ゴジラ』などもそうですが、最近の『パシフィック・リム』なんかでも、人類の敵は海からやってきましたが、これも黙示録に「海の中から上がって来る」と記されていることが影響を与えているようです。映画好きの僕としては、様々な映画において何げなく見過していた部分にも、黙示録の影響というものを見ることが出来て有意義でした。

黙示録論 (ちくま学芸文庫)


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