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『仏教のコスモロジーを探して』 仏教瞑想の目的とは?

2014.05.31 17:32|宗教
 『コンセント』などの作家・田口ランディの対談集。

第1章 吉福伸逸 響きの宇宙と意識の変容
第2章 村上光照 ブラフマン世界の自然と仏教の解脱
第3章 本多弘之 親鸞の救済の原理
第4章 蓑輪顕量 テーラワーダ仏教の瞑想
第5章 佐藤剛裕 チベット密教修行と慈悲の行方
第6章 久保田尭隆 太陽が照らすがごとき、
                 絶対肯定の『法華経』の世界
第7章 立川武蔵 宗教――憑依――シャーマニズム


仏教のコスモロジーを探して―深くて新しい仏教のいま



 仏教をテーマとした対談集ですが、トランスパーソナル心理学とかシャーマニズムなど仏教の教義というよりも、意識の変容といった内容までを含んでいます。特に「仏教の瞑想」に関して多くの論議が交わされています。
 おもしろかったのは第4章です。田口ランディは対談相手の蓑輪顕量に対し、次々と疑問を呈し、議論はかみ合っていません。田口ランディが納得していないのは、たとえば瞑想の目的についてです。
 『仏教瞑想論』という著作がある蓑輪顕量は、仏教の瞑想に関して、次のように説明します。「心のはたらきを鎮めていく「止」と、心のはたらきをぜんぶみつめていく「観」」(p.218)のふたつが仏教の瞑想にはあり、ブッダが悟りに至ったのは「観」といわれるヴィパッサナー瞑想によってであると。そうした瞑想の修行により、たとえば痛みなども痛みそのものを気づきの対象とすることで克服できるし、感情に支配されることもなくなり、円満な人格を身につけることができるという。
 これに田口ランディは納得できません。対談のあとがきでは「瞑想から「宗教的体験」を脱色することに、私は一環ママして違和を覚えていたのだと思う。仏教瞑想の有用性は理解している。だが、仏教瞑想の目的は社会的に見て通用するような人格形成ではないはずだ……と。」(p.288)と記しています。
 実際には、瞑想により「悟り」という位置にまで達した人間には、それ以外の人と違う世界が広がるのかもしれませんが、「悟り」に達したことを自ら語るのは教団追放に値する罪とされて、具体的なその体験については不明です。結局、「その段階は体験しないとわからない」とか、「言葉では説明できないものだ」という説明をされることになるわけで、そのあたりのもやもやした感じに田口ランディはイラついているように見えます。
 多分、田口ランディが小説を書いたりするのは、何かしらの探求者としてあるのだろうと推測しますが、そうした探求者としては宗教が道徳として機能するといった話ではなく、もっと「ぎろりとしたところ」(夏目漱石『門』)みたいな何かを示してほしかったのかもしれません。
 ほかにも「クンダリニー覚醒」に達した人の話なども登場します。これは身体がものすごく熱くなるそうで、通常では考えられないような意識の変容が起きているということなのだと思いますが、それを素人が勝手な解釈をすると危険であるということも散々語られています。第6章の対談者の僧侶・久保田尭隆もその体験者ですが、「これは絶対に宗教の世界じゃない。肉体の生理現象だ」(p.390)だと戒めています。悟りに達するための手段として瞑想があるわけですが、その手段もきちんとした指導者がいないと危険なもののようです。
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『ウィンターズ・テイル』 映画化された現代アメリカ文学の傑作

2014.05.28 20:24|小説
 1983年に発表された原書は、アメリカの文学界では大きな話題となった作品です。日本でも映画の公開に合わせて、新訳の登場となりました。巻末の解説で高橋源一郎が記しているように、当時はディケンズやガルシア・マルケス、ジョン・アーヴィングなどとも比較されて絶賛されました。僕自身、そのころ作者マーク・ヘルプリンのインタビューを読んで、この『ウィンターズ・テイル』が気になっていたのですが、今さら手に取ることになりました。

ウィンターズ・テイル(上) (ハヤカワepi文庫)


ウィンターズ・テイル(下) (ハヤカワepi文庫)



 白馬の視点から始まるこの壮大な物語は、19世紀末から新たな千年紀を迎える時代までを描いています。悪党たちに追われていた泥棒ピーター・レイクは、絶体絶命のピンチを白馬アサンソーに救われて、運命に導かれるようにベヴァリーという大富豪の娘と出逢います。しかしベヴァリーは不治の病に冒されていて……。
 第1章に登場するベヴァリーは、ピーター・レイクとの短い逢瀬ののち、結核で死んでしまいます。それから白馬に跨ったピーター・レイクは「雲の壁」の向こうへと消え、時を経て帰ってきます。約100年後の21世紀を迎えるという時代に現れるのです。

 公開中の映画では、このピーター・レイクとベヴァリーのエピソードが中心となっています(映画版は物語を端折りすぎて残念な出来に)。原作の『ウィンターズ・テイル』はそれだけでは終わりません。書評する誰もが要約不可能と語るような、長大で(文庫で約1000ページ)波乱に満ちた物語です。映画版の邦題(『ニューヨーク 冬物語』)に街の名前が冠されているように、この原作はニューヨークという街のすべてを描いたものでもあるのです。
 ピーター・レイクとベヴァリー以外にも多くの人物が登場しますが、主筋とはまったく関係ない脇役たちの造形も豊かで、高橋源一郎「誰よりも悲劇的なアビスミラード!」と賛辞を贈るような、魅力的なキャラクターに溢れています。また天翔る白馬アサンソーや、深い雪山の奥に隠れるようなコヒーリズ湖、謎めいた「雲の壁」など、幻想的な世界が広がります。

 ※ 以下、ネタバレもあり。 結末にも触れていますのでご注意を!

映画『ニューヨーク 冬物語』のイメージ。現在公開中です。

 ピーター・レイクはベヴァリーに死なれてしまいますが、その前に小さな子供がアパートの廊下で死にそうな顔で立っているのを見かけます(このイメージは別の登場人物にも重ね合わされています)。ピーター・レイクではなくても、こんな疑問を抱くのではないでしょうか。なぜベヴァリーのような人物が(あるいは廊下にいた子供のような存在が)死ななければならないのか? こうした理不尽極まりない事態に対するひとつの回答が、この小説なのだと思います。作者はそれを「正義」という言葉でとりあえずは示しています。

「正義のみに喜びを見出す、完全なる正義の都市を見るより美しいと考えられるものがあろうか」(上巻 p.377)

 この言葉は「完全なる正義の都市を探す」ために旅立つことになるハーデスティ・マラッタが、父親から受け継いだ黄金の盆に書かれたものであり、この物語では「正義」の実現のためにある計画が進行していきます。それらは「雲の壁」の向こうからやってきた人物たち(ジャクソン・ミード、ムートファウル、セシル・マチュア)によって担われます。その計画が首尾よく達成されれば、死者が生き返ることになるのだと言います。
 僕はこの本を読みながら、最後には全面的に「正義」が実現されて、亡くなったベヴァリーとピーター・レイクとの再会が描かれるものとばかり思っていました。シェークスピア『冬物語』が最後には奇跡のような大団円を迎えるように……。しかし違っていました。
 「正義」実現のための計画は失敗に終わり、ピーター・レイクは極めて限定的な「正義」しか達成できません。だからといって「正義」の実現という計画が完全に絶たれたわけではありません。ジャクソン・ミードたちは過去にも何度もその機会を伺っていて、今回も失敗に終わったとは言え、次の機会という希望は残されているからです。逆に言えば、完全にそれが実現したと記すことは、憚られるものなのだという気もします。
 松岡正剛『千年王国の追求』という本について、こんな感想を記しています。

 千年王国幻想は「ヨハネ黙示録」にとどまっているかぎりは、単なるハリウッド映画なのである。しかし、来たるべきアイオーンをこの「現在のどこか」に見いだそうとしたとたん、その思想と行動はキリスト教のいっさいの権威とぶつからざるをえず、また自身の思想の起源を問われることになるという、やはり恐ろしい幻想である。

 以前に取り上げた『黙示録――イメージの源泉』という本にも、「「いまここ」と「いつの日か」、「すでに~ある」と「いまだに~ない」、そのあいだを生きるのがキリスト教徒の宿命である。」と記されていました。「現在のどこか」「正義」が達成された都市を見いだすことは、やはり「恐ろしい幻想」なのでしょう。今ここに自らの「正義」を実現しようという幻想は、どこかのカルトが引き起こしたようなハルマゲドン騒ぎに結びつくこともあるからです。だからこの小説の結末も能天気な大団円を迎えることはなく、幾分か尻すぼみとも思える展開とその先にある希望のみが示されて終わったのかもしれません。それが作者としてのマーク・ヘルプリンの倫理観みたいなものだったようにも思えるのです。

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斎藤環 『承認をめぐる病』 キャラとしての承認とは?

2014.05.24 13:45|精神医学
 精神科医でもある斎藤環の論文集。映画雑誌での連載やアニメに関する言及などもある著者ですが、この『承認をめぐる病』は精神医学関係の論文も含む内容になっています。

承認をめぐる病


 「キャラ疲れ」に関する記事が朝日新聞に掲載され、世間一般でも知られるようになってきているようです。キャラクターとは、学校のクラス内などで自然発生的にそれぞれに与えられる役割のようなもの。「いじられキャラ」とか「毒舌キャラ」とか「天然キャラ」などがあり、一度決定されたキャラは個人の意志で変更することは難しく、自らのキャラにそぐわない行動はいじめの対象になるくらいに命取りなのだとか。こうした話は若者文化について書かれたものですが、日本によくある「空気」というやっかいな代物との関係を感じさせるものがあります。
 著者によれば、キャラは「コミュニケーションの円滑化」に役立ちます。ある程度狭い範囲内でそれぞれのキャラが把握されていれば、そのなかでの振舞いは自然と決まってくるからです(著者はそれを「毛づくろい的コミュニケーション」と呼んでいます)。キャラは一方でコミュニケーション力によってカースト化される側面もあり、一度「いじめられキャラ」などになれば抜け出すのは困難です。著者によれば、若者たちはこうした「キャラとしての承認」というものに縛られているのだとか。
 たとえばアニメ『エヴァンゲリオン』も承認をめぐる物語と考えられることができます。このアニメでは3人の子どもたちが登場しますが、これはそれぞれ承認というものに適応する様々なタイプとなっています。シンジは「承認されたい」「でも承認されっこない」「承認されないならみんな爆発しろ」「でもやっぱり承認されたい」という堂々めぐりをするタイプであり、「承認への葛藤」を示します。アスカは「承認への行動化」というタイプであり、レイは「承認への無関心」を示すタイプとなります。たしかにアニメを観ている人にはわかりやすい類型化となっていると思います。

 表紙のポップな感じから比べると、中身はなかなか難解な部分もあります。上記は冒頭の2つの論文からの要約で比較的身近でわかりやすいですが、精神医学関係の本に寄稿した文章も多いため、専門的な内容も含むためです。たとえば「すべてが「うつ」になる――「操作主義」のボトルネック」という文章では、精神医療の歴史を柄谷行人『世界史の構造』の交換様式の論議に結びつけたりしますし、「早期介入プランへの控えめな概念」では統合失調症の早期介入に対して批判を加えています。このあたりの論議は精神的な病ではない(と思っている)人や精神医学業界と無縁の人にはとっつきにくいかもしれません。