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カルペンティエル 『失われた足跡』 時を遡る旅

2014.06.30 22:20|小説
 久しく絶版となっていたカルペンティエル作の1953年の作品。訳者は牛島信明

失われた足跡 (岩波文庫)



 主人公の音楽家は都会での生活に倦んでいます。その妻は舞台女優で1500回ものロングランを記録している舞台に立ち、毎日同じ台詞を繰り返すわけで、その夫である音楽家も日々の生活の繰り返しに倦み、それをシシュフォスの神話になぞらえたりします。だから彼が都会を離れてジャングルの奥深くに入り込んでいくのは、単に珍しい楽器を探すためばかりではないようです。
 川を遡るにつれ、街にあった文明はなくなり、どんどん原始的な暮らしが残った村々を垣間見ることになります。川を遡ることが時間を遡ることになるわけです。「アメリカは相異なったいくつかの時代が共存している唯一の大陸である」とカルペンティエルは語っていたそうですが、帝国主義の侵略により開拓された部分は現代ですが、その手の届かない部分もあって、そこでは未だ古い時代がそのまま残っているというわけです。
 音楽家がそうした旅で発見するのは音楽の誕生の場面であったり、創世記の世界に誕生したようなまちを創る」ことであったりします。すべてが出来上がった都会の生活に倦んだ音楽家が、ジャングルの奥の時間を遡ったような場所に到着し、芸術や社会の始原の姿を発見し、それに魅せられるわけです(加えて、愛人から現地の自然の女への乗り換えもあります)。
 そうした自然のなかで音楽家は芸術的野心を再び見出して、作曲に取り組むわけですが、芸術はジャングルの奥地では意味をなしません。「芸術作品は他人に鑑賞されるべきものであり、その性質上、広範な聴衆に訴える力をもつ音楽は、なおさらそうである。」(p.360)というように、芸術にとっては自然がその発想の源には存在しても、芸術がひとりよがりのものでない限り文明社会が必要なのかもしれません。
 また、この始原の場所には、時間に縛られない、あるいは「自分が時間の主人」(p.429)になるような生活があります。結局のところ音楽家は「シシュフォスの休暇は終わった」(p.447)と悟るように、文明の側に戻るしかないわけで、またもや時間に囚われる生活に戻るほかないようです。これは芸術家ばかりでなく、現代の文明社会では誰にでも通じることでしょう。

 この小説『失われた足跡』は、最初とっつきにくいものがありました。というのは、主人公は音楽理論や建築用語で状況を描き出すからです。また演劇に関する話題も登場すれば、『オデュッセイア』『ドン・キホーテ』『ファウスト』などの文学からの引用もあり、衒学的なところが多々あります。だから僕のような浅薄な知識では通用しないのです。
 ただ、それは意図的なものもあるわけで、音楽家はそうしたヨーロッパ的なものにうんざりしているわけで(主人公も作者自身も根っこにはヨーロッパ的なものがあるようです)、彼がジャングルの奥地に進むほどそうした衒学的なものは少なくなり、より普遍的なものとなりますし、描かれる世界も魅力的に映るようになります。ジャングルの奥の裸の生活もちょっとくらいはいいのかもしれません。

 この作品は「魔術的レアリスム」と呼ばれる手法で描かれているとも言われるようですが、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』のような幻想的なものではなく、ラテンアメリカの驚異の自然をそのまま取り入れたといった印象です。以下のような場面も、ラテンアメリカの自然現象として説明されています。

 しばらくすると、時計が夜あけの時刻をうったが、夜はあけなかった。不審に思って、われわれは皆、通りに、庭に出てみた。きみょうな赤っぽい雲、煙のような、熱した灰のような、突然舞いあがって地平線から地平線へとひろがった、黒っぽい花粉のような雲によって、太陽が出ているはずの東の空が閉ざされていた。そしてその雲が動いてわれわれの頭上までくると、屋根に、庭に、われわれの肩に蝶がおり始めた。それは赤紫の地にすみれ色の縞もようの入った、小さな蝶だった。(p.215~216)


 訳者の解説でも「旧大陸のシュルレアリストたちが意識的に探求している驚異的なるものが、新大陸においては現実のものとしていたるところに偏在している」(p.458)と説明されています。「魔術的レアリスム」と言っても様々な形態があるようです。
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『思考実験リアルゲーム 知的勝ち残りのために』 量子不死とは?

2014.06.28 15:45|その他

思考実験リアルゲーム 知的勝ち残りのために



第1章 思考実験とは何か?
第2章 抜き打ち試験のパラドクス
第3章 本当の幸福―エウダイモニア
第4章 5億年ボタン
第5章 人間転送機
第6章 思考実験でデータ捏造?
第7章 シュレーディンガーの猫
第8章 量子不死・量子自殺
第9章 2封筒問題
第10章 サンクトペテルブルク・パラドクス―2封筒問題との比較


 この本は有名な思考実験について解説したものです。数学的思考が苦手な僕としては、いまひとつ腑に落ちない部分もあるのですが、著者三浦俊彦「狭く深く」というだけに、1つの問題に対してかなり細かい部分まで踏み込んでいるように思えます。
 たとえば「抜き打ち試験のパラドクス」という有名な思考実験がありますが、ここまで詳細にそのパラドクスを分析している本は初めてです。大方の本はそのパラドクスの紹介だけで終わってしまうのがほとんどですが、この本ではそれに対する著者の考えを十分に展開していて読み応えがありました。その議論に説得されるかどうかはまた別問題かもしれませんが。

 量子力学についてはほとんど何も知りませんが、「シュレーディンガーの猫」の話はどこかで読んだことがあります。ただ、箱のなかには生きている猫と死んだ猫が重なり合った状態で存在するとか言われても、いまひとつ納得できない部分もあります。この本ではさらに「量子自殺」なる思考実験が紹介されています。「シュレーディンガーの猫」の猫の立場に自分がなるという思考実験です。
 「シュレーディンガーの猫」では、観測者が箱を開けるまでは生きている猫と死んだ猫が重なり合った状態で存在することになり、開けた瞬間に世界が分岐します。しかし自分が猫の立場になった場合は事情が違います。自分が死んだ状態を自分で確認することはできませんから、世界が分岐する瞬間に意識は自分が生きている世界のみに収縮するのだとか。だから自分の知らない分岐した世界では、自分は死んでいるわけですが、主観的に見れば自分は決して死ぬことはないというわけです(「量子不死」)。
 何だかわかったような、わからないような、狐につままれるような気にもなりますが(上記の理解が正しいのかもよくわかりません)、あまり読んではいないグレッグ・イーガンのSF小説でも、こうした多世界解釈云々の話があったような気がします。量子力学とは物理学であり現実の話なのですが、そのわかりづらさがかえってSF的なものに結びついているのでしょうか。ちなみに著者の整理では、「思考実験」「フィクション」と似ている部分もあり、著者自身も小説家でもあるようです。

『闇の中の男』 想像力による911のなかったアメリカ

2014.06.23 23:40|小説
 ポール・オースターの2008年の作品。翻訳は柴田元幸。訳者あとがきによれば、この本も『幻影の書』『写字室の旅』と同様に「部屋にこもった老人の話」とのこと。

闇の中の男



 闇の中で眠れずにあがいている男がいます。その家には男の娘と孫娘がいて、3人はそれぞれの事情で一人の身になっています。男は眠れぬ夜をやり過ごすために、自分に向かって物語を語り始めます。その物語のなかでは、オーエン・ブリックという男が、もうひとつのアメリカにいます。もうひとつのアメリカとは、911同時多発テロが起きなかったアメリカであり、内戦が勃発し戦争状態にあるアメリカです。
 オーエンがパラレルワールドで与えられた仕事は、戦争の原因となったオーガスト・ブリルという男を抹殺することです。ここで奇妙なのは、オーガスト・ブリルというのは、オーエンが登場する物語を生み出している男そのものだからです。『写字室の旅』でも登場人物たちと作者との対話がなされていたわけですが、『闇の中の男』では物語のなかの人物が作者を抹殺するという構造になっています。

 ※ 以下、ネタバレもあり。
 
 ただオーエンの物語はあっけなく幕を閉じます。これは単にオーエンの物語が、厳しい現実と直面しないための手段として、オーガストが自身に語り続けた物語に過ぎないからです。それはオーガストの孫娘カーチャについても同じで、ある映像を忘れるために映画のDVDをひたすら観る毎日を送っています(小津安二郎監督の『東京物語』が印象的に使われています)。
 カーチャはタイタスという彼がいましたが、彼は仕事のためにイラクに行き、過激派に捕まって処刑されてしまいます。カーチャはそのタイタスの処刑の場面を目撃することになります。オーガストが眠れなかったのも、このことが原因とひとつです。カーチャはタイタスの死を自分のためと曲解し、その死の映像を忘れるために映画という虚構の世界に逃げ込むわけです。
 それでもオーエンの物語が終わったころ、カーチャも現実に直面する余裕ができたのか、オーガストと闇の中で話をすることになります。カーチャがタイタスの死と向き合うのと同じように、オーガストはオーエンの物語を終えて妻ソーニャの死と向かい合うことになります。それぞれの事情で闇の中にいるふたりのささやかな交流は、「このけったいな世界が転がっていくなか」では希望を感じさせるものでした。
 
 さて、次に、この小説中の約半分を占めるオーエンの物語についてです。作者のポール・オースターは、現実と想像が等価だと何度も記しています。

これが私の戦争だった。本物の戦争ではないかもしれない。でも、ひとたびこういう規模の暴力を目撃してしまえば、もっとひどい事態を想像することも難しくなくなる。ひとたびでもそうできるようになってしまえば、想像力の生む最悪の可能性こそ、まさに自分が住んでいる国だということがわかる。何であれ、頭に思い描ければ、いつかはそれが現実になるのだ。(p.101)

現実と想像はひとつだ。思考は現実である、非現実の物たちをめぐる思考ですら現実である。(p.219)


 こうした考えは、ひとりの独裁者の妄想から戦争が始まったりすることを示唆しているのかもしれません。しかしオーエンの物語で殺されようとしているのは、独裁者ではありません。抹殺の対象は、物語を語る本人だというのはやはり奇妙なことに思えます(もちろんその物語が現実逃避のための手段に過ぎないのだとしても)。
 この本のなかで非難の対象となっているのは、911を引き起こすようなアメリカを生み出し、さらにイラク戦争まで始めてしまったブッシュ政権であるようです。何もブッシュのひとりよがりな想像だけで世界が変るとは思えません。しかしブッシュ政権を選んでしまったのは、アメリカ国民です(選挙での不正もあったようですが)。もしかすると想像力をきちんと働かせていれば、ブッシュ政権によってどんな事態が生じるのか推測できたのかも。そして推測できれば、それを阻止する方法も想像できたのかも。作者のオースターはそんなことを考えたのかもしれません。想像力を糧とする小説家が、自分をモデルにした登場人物を殺させるようなことを書いているのは、ブッシュたちの想像力を抑えることのできなかった小説家やほかのアメリカ国民の想像力に対し、忸怩たる思いを抱いていたからかもしれません。
 訳者あとがきには「二〇一四年の日本にもそのまま当てはまりそうな……と言いたい誘惑に駆られる」と記されています。あとがきが記されたのは4月のようですが、つい最近では物騒な法案が議論されていたりするようですから、ますます他人事ではないという気もします。