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『われはラザロ』 それがラザロにとって何の役に立とう?

2014.07.31 23:57|小説
 作者はアンナ・カヴァンというイギリスの女性。1968年に亡くなられていますが、一部作品が最近になって邦訳されているらしく、特に『アサイラム・ピース』という作品は評判がよさそう。僕自身はほとんど何の知識もなく、ラザロという題に惹かれて手に取りました。

われはラザロ



 表題作の短編「われはラザロ」の主人公トーマス・ボウは、精神病院のような場所で暮らしています。トーマスは統合失調症を患っていて、薬漬けにされたぼんやりとした頭を抱えて生き永らえています。それを部外者の医師が見て皮肉ります。「あんなふうになれるなど、とても信じられませんな」と。その医師から見れば、トーマスはほとんど薬漬けにされた生きる屍にしか見えないわけです。
 ちなみにラザロというのは「ヨハネによる福音書」に登場するラザロです。ラザロはキリストによって死から甦るわけですが、そのラザロについてはキルケゴールも語っています。キルケゴールがキリスト教の教化的な著作とする『死に至る病』は、ラザロのことからを書き始められています。

 よしラザロが死人の中から甦らしめられたとしても、結局はまた死ぬことによって終局を告げなければならなかったとしたら、それがラザロにとって何の役に立とう? (『死に至る病』 岩波文庫 斎藤真治訳 p.16)


 ラザロは一時は生き返ったとしても、不死身になったわけではないですから、結局は死んでしまうわけです。だからそんな奇蹟が何の役に立つのかと言っているわけです。甦りの奇蹟がすごいわけではなく、キリストの教えを信じて永遠の命を求めることのほうが重要なわけです。
 この短編「われはラザロ」のトーマスは薬によって甦りますが、ラザロにあったであろうキリスト教に代わるものはなさそうです。しかしトーマスの担当医たちは彼の甦りを「運のいいこと」だとして福音とさえ考えているようです。もちろんこれは作者にとっては皮肉でしかないのでしょう。そんなゾンビのように甦ったとして、また終局がやってくるわけで何の役に立つのかというわけです。トーマスにはその救いとなるべきキリスト教の教えもないわけですから、かなり絶望的な状況です。

 この表題作と同じように、この短編集『われはラザロ』の15編は陰鬱な作品ばかりです。発表された時期が1945年という戦争の時代を色濃く反映しているからかもしれません。何かしらの病を抱えた人物や、異邦人という疎外された立場にある人物とか、世界と自分の関係を測りあぐねているような作品が多いようです。カフカの影響も強いらしく、「当局」というよくわからない存在に小突き回されるような「あらゆる悲しみがやってくる」なども印象に残ります。

 頭のおかしな人間を愛した人がいたなどという話を、わたしは聞いたことがない。そんなことは不可能だと、わたしは思う。哀れみや嫌悪を感じることがあっても、愛にはなるまい。(「天の敵」p.145)


 こんなこと書き付けてしまう作者自身もかなり病んだ存在だったようですが、何だか共感してしまうところも多い短編集でした。

死に至る病 (岩波文庫)


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『「自由」はいかに可能か』 自由なんてあって当たり前?

2014.07.28 21:59|哲学

「自由」はいかに可能か―社会構想のための哲学 (NHKブックス No.1218)


 たとえば全体主義国家ですべてが監視されているとか、あまりに貧しくて食うために精一杯という状態よりは、自由であることは素晴らしいわけですが、一方でこんな考えもあります。ショーン・ペン監督の『クロッシング・ガード』という映画では、「自由は娯楽にすぎない」というセリフがあります。これは交通事故で少女を殺害してしまった犯人が、その刑期を終えてから発する言葉なのですが、「娯楽」という語彙はちょっと奇妙ですが、ここでは自由というものは「それを積極的に活用するような目的がない限り意味のないもの」という含意があるのだと思います。自由はただそれだけで価値のあるものではないと考えられているわけです。現代の日本のような国において自由はあって当たり前のものであり、それ故にかえって退屈を感じてしまうこともあるわけです。
 そんな「自由とは何か」という問い、この本で著者が考えるのはそんな問いですが、それが本質主義になることの危険をまず検討しています。現代哲学の流れとしては、反本質主義というものがあるようです。本質という絶対的な真理があるとすると、かつてのイデオロギー闘争のような悲惨な結果を生み出すことがあるからです。わが国の連合赤軍事件などのように、誰かがその真理=本質を把握しているなどという勘違いは、その他の意見を封じ込めることになり碌なことにならないわけです。
 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』という本でも、そうした点には十分な注意が払われるべきだとされており、「本来性なき疎外」という考え方が重要なのだと記されていました。本来性というものが設定されてしまうと、それが強制になってしまうからです。これも本質主義批判のひとつなのだと思います。
 そういう意味で著者は自由というものの本質を論じることの危険は承知しているわけですが、「自由の本質などあり得ない、それは多義的かつ操作可能な概念である」として投げ出してしまうこともありません。それでは結局相対主義に陥ってしまうからです。現代では、それは「すでに織り込みの前提」であるのだから、その上でさらに積極的に何らかの自由というものの了解可能な本質を考えていこうとしています。
 
 著者の苫野一徳は若手の研究者の方のようです。自由を論じるに当たっての様々な先行論文を読み解き、威勢よく斬っていきます。それほどの分量の本ではないですが、扱われる論考は多岐に渡ります。著者はヘーゲルや現象学の立場にあり、その立場から自由は人間の最上の価値だとし、検証可能性などの論点でそのほかの論を退けていきます。そしてヘーゲルの自由論を参考にしながら、次のようにまとめています。

 諸規定性の中にあってなお、選択・決定可能性を感じることができる。「自由」の本質は、ここに存する。「自由」とは、諸規定性から完全に解放されていることをいうのではなく、ヘーゲルの用語を使ってわたしなりにいい換えるなら、「諸規定性における選択・決定可能性」のうちにあるものなのだ。
 砕いていうなら、それは、諸規定性を自覚した上で、できるだけ納得して、さらにできるなら満足して、「生きたいように生きられている」という実感のことといっていい。さらにいい換えれば、「我欲する」と「我なしうる」との一致の実感、あるいはその“可能性”の実感のことともいっていい。(p.81)


 さらに社会構想を考えると、各人の「自由」の根本条件としての「自由の相互承認」ということが重要になってくるということです。こうした結論が誰もが了解可能なものなのかは僕にはよくわかりません。ほかの立場からすれば反論があるのかもしれません。
 第二部ではそれをさらに実践的に展開するために論を展開しています。この第二部は「「自由」の条件」と題されています。これはハイエク大澤真幸の自由論の題名でもあるわけですが、実社会における自由の最低限の条件が論じられるわけで、抽象的にならざるを得ない部分があるようです。何だか歯痒い感じがしますが、具体的に自由をこれだと決めつけることは、結局最初に批判した本質主義に陥ることになるから難しいものなのかもしれません。

暇と退屈の倫理学



クロッシング・ガード [DVD]


『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』 ユニークなタイムトラベルもの

2014.07.21 10:23|小説
 翻訳者は円城塔ということで、難解(というか意味不明)な作品をイメージしていましたが、この作品は楽しめました。作者のチャールズ・ユウは台湾系のアメリカ人で、理系出身らしく難しい理論なども少しは登場するのですが、いわゆる純文学的な部分もあり読みにくいものではありません。

SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)



 僕自身はタイムトラベルの理論的な説明やタイムパラドックスの部分を理解しているとも思えないのですが、この小説を一種の「ひきこもり小説」のように読みました。
 主人公はタイムマシンの修理屋で、時空の狭間をタイムマシンという狭い空間に引きこもって、OSの女の子タミーと非実在犬エドと生活しています。また父親は元タイムマシン設計の技術者でしたが今は失踪中であり、母親は時間ループという一種の介護施設のなかで暮らしています。それぞれが訳あって引きこもってしまった家族小説というところでしょうか。
 この『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』での、タイムトラベルの設定はなかなかユニークなものでした。タイムマシンを使って誰もがすることは、人生のうちの最悪な場面に戻ることなのですが、この作品のなかでは過去に戻ることができても、過去を変えることはできません。過去の世界に覗き窓が開くのですが、そこから過去世界を眺めることはできても、一切介入することはできないのです。
 主人公の父が発見するタイムマシンの理論は次のように説明されます。

 誰もがタイムマシンを持っているのだ。誰も「が」タイムマシンなのだ。ほとんどの人のタイムマシンが壊れているだけのことだ。最も精妙で難易度な高いタイムトラベルは、自力航行だ。人々ははまり込み、ループに落ち込む。囚われる。それでも僕らは皆、タイムマシンなのだ。誰もが完璧に調整されたタイムマシンだ。技術的に、内部に搭乗者を乗せることができるようになっている。僕たちの内部に乗りこんだ旅行者は、タイムトラベルを経験し、喪失を経験し、知恵を得る。僕たちは、可能な限り特化されて設計されたユニバーサル・タイムマシンだ。僕たちのうちの誰もがだ。(p.215)


 人は空間だけでなく時間のなかで生きているわけですから、これはある意味では当然のことなのです。ここにはSF的な設定も何もないわけで、一般的な時間の流れをタイムマシンとして読み替えているのです。もちろんこのタイムマシンは時間を遡ったりはできないのですが、過去を想起することで過去に戻ったような感覚になることはできるわけです。
 また主人公はタイムマシンで過去からやってきた自分に銃で撃たれることになりますが、未来には介入できるという設定は、未来はまだ決定していないからということなのでしょう。現実においても過去の失敗が、長い失意ののちに未来の自分を破滅させるなんてこともないことではありませんから。つまりこの小説でのタイムトラベルは現実の時間の流れを無視したようなものではなく、タイムトラベルという設定も文学作品にありがちな想起をSF風味に仕立て上げたようなものにも思えました。
 この小説の後半では、主人公は父と過ごした過去の想い出のなかに戻っていきます。自宅ガレージでタイムマシン設計に精を出す父親とそれを手伝う主人公。結局、それはちょっとした失敗により父親に大きな失意を与えてしまうことになります。その後、父親は失踪してしまうことになるわけですが、主人公にそれを止めることはできません。このあたりの無力感に囚われる感覚も、どこか自分のものとしても共感できる作品でした。