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『はい、チーズ』 大好きなヴォネガットの短編集

2014.08.31 15:57|小説
 2007年に亡くなったカート・ヴォネガットの未発表の短編集。

はい、チーズ



 ヴォネガットの作品は大好きで大方のものは読んだつもりです。それでも繰り返し読んだのは『タイタンの妖女』『スローターハウス5』『猫のゆりかご』のような有名な長編ばかりで、短編にはそれほど思い入れはなかったのですが、この短編集『はい、チーズ』は未発表の作品とは思えないほどおもしろく、どんどん読み進めてしまいました。改めて過去の短編集も読み直してみようかとも思いました。

 SF風な奇想天外なアイデアのある話は意外と少ないです。たとえば自分の中の心の声を増幅して話し相手になってくれるという新型補聴器が登場する「耳の中の親友」とか、ペーパーナイフ型の宇宙船に乗ったエイリアンが登場する「ナイス・リトル・ピープル」くらいでしょうか。それでもどの作品もとてもいい話だし、バラエティに富んだ内容で読ませます。「愛は負けても、親切は勝つ」というのはヴォネガットの有名な言葉ですが、そんな親切な人たちに溢れた作品(「FUBAR」「この宇宙の王と女王」など)で、読んでいて気持ちがいいのです。
 たとえば「ちょっとのあいだ、大恐慌時代にタイムトラベルしてほしい。そう、一九三二年へと。ひどい時代だったのはわかっているけれど、でも、大恐慌時代にはいい話もたくさんある。」(p.300)こんなふうに読者に語りかける形で始まる「この宇宙の王と女王」。この作品では主人公のふたりは意図せずにある男を傷つけることになってしまうのですが、酷い目に遭わされた男の言葉に泣かされます。その言葉はありがちなものではあるのですが、誰にとっても「心から納得できる考え」(p.325)だと思えるのです。「神よ願わくばわたしに変えることのできない物事を受けいれる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ」という言葉を何となく思い出しました。『スローターハウス5』に引用されている言葉です。
 今日たまたまテレビをつけたら某局で「24時間テレビ」というものをやっていて、僕はどうもこの番組が苦手なので、まともに見たことはないのですが、それはどこか偽善的なものを感じさせるからです。ヴォネガットのヒューマニズムはすんなり受け入れられるような気がするのはなぜでしょうか。ユーモアがあるからかもしれませんし、「そういうものだ(So it goes)」といった諦観も見え隠れするからなのかもしれません。うまくは言えませんが……。とにかくヴォネガットは大好きな作家です。

 「エド・ルービーの会員制クラブ」はヒッチコック的巻き込まれ型サスペンス。町全体を掌握して白も黒としてしまうような世界で殺人犯にされてしまった男の話。ラストでそうした世界をひとつずつ崩すように逆転していく様子は、映画にしてもおもしろそうな題材でした。「ハロー、レッド」はO・ヘンリーの短編を思わせ、ラストも見事。

カート・ヴォネガットの作品
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『東京プリズン』 高校生が考える戦後日本で隠されてきたこと

2014.08.25 22:37|小説
 この本は前回取り上げた『現代思想の時代』でも言及されていて、2012年に刊行され、何かと話題になっていた本とのこと。この7月に文庫化されました。
 作者は赤坂真理。主人公もアカサカマリという名で、1964年東京都の生まれというあたりは、作者自身の経歴と同じであり、小説『東京プリズン』は戦争を知らない世代から見た戦後日本のあり方、特に「天皇の戦争責任」について考察していくという内容になっています。

東京プリズン (河出文庫)



 2009年のマリは、1984年に15歳だったマリと電話を通じて会話することになります。マリは15歳の自分に対し、それが昔の自分と知りつつ彼女の母として振舞います。この小説ではマリは高校生のマリであり、現在40代のマリであり、その母親でもあります。
 すべての人は女から生まれるわけで、祖母→母→マリというつながりは、男という媒介はあっても、自らの分身が連なっているように思えるのかもしれません。ロシアのマトリョーシカ人形みたいに。だからマリの母親は、自分が祖母と同じ墓に入らないことに気付いて驚きます。世の中は女性から見れば、ある種不自然な父系社会となっていて、男の原理に支配されている部分が多いのかもしれません(その最も顕著な例が天皇制だという考察も)。
 高校生のマリは「私の家には、何か隠されたことがある。」(p.81)と感じていて、母にそれを聞きたいと考えています。マリは日本に居られなくなってアメリカに留学させられるわけですが、それは何故なのか知りたいわけです。マリの疑問は日本という国についても当てはまるもので、マリは日本には「何か隠されたことがある」と感じているわけで、作者はマリの家族の歴史と、日本という社会の姿を重ね合わせて物語を進めます。
 主人公のマリはまだ高校生ですから、先の戦争や「天皇の戦争責任」についてほとんど何も知りません。日本では近代史はカリキュラム上教えないことになっています。僕自身も縄文時代やら戦国時代の歴史は学んだ記憶はありますが、教科書の近代の項目に辿り着くまでに必ず次の学年になってしまいます。ほかにも日本には語ることすらタブーとなっていることもあります。こうしたことがマリに「何か隠されたことがある」と感じさせているようです。

 前回の『現代思想の時代』では、歴史を語るときは、その語る人の立場が重要になってくるということが議論されていました。この小説『東京プリズン』で歴史を語るのは、1964年生まれの女性ということになります。そして、その主人公マリが1984年にアメリカを介して日本を学び、歴史を語っていきます。マリが紆余曲折を経て最終的に辿り着くのは、たとえばこんな境地と言えるかもしれません。
 

『私たちは負けてもいい』とは言いません。負けるならそれはしかたない。でも、どう負けるかは自分たちで定義したいのです。それをしなかったことこそが、私たちの本当の負けでした。もちろん、私の同胞が犯した過ちはあります。けれど、それと、他人の罪とは別のことです。自分たちの過ちを見たくないあまりに、他人の過ちにまで目をつぶってしまったことこそ、私たちの負けだったと、今は思います。自分たちの過ちを認めつつ、他人の罪を問うのは、エネルギーの要ることです。でもこれからでも、しなければならないのです。(p.526)

 
 この発言はどこか自虐史観を嗤う立場に近いような気がしますが、作者の考えというよりは、高校生のマリの考えなのでしょう。これは小説であって、歴史の研究書ではありません。この小説では様々な声を響かせることが目論まれているのです。高校生のマリは、40代のマリでもあるし、電話の先にいる母親でもあるわけです。また、マリは自分が殺したヘラジカの声を聞き、ヴェトナムの結合双生児の声を聞き、森の中の大君の声を聞き、三島由紀夫が書いたような『英霊の聲』を聞きます。物語の最後のディベートの場面は、いつの間にかに東京裁判の再現となり、マリは東條英機を演じてみたり、天皇に成り代わって言葉を発します。
 作者・赤坂真理はインタビューで、意見が1個しかないことはファシズムだと思うと語っているようですし、マリの声だけでなく反対意見も含めて様々な声を聞かせることが意図されているのだと思います。

 赤坂真理の作品はいくつか読んだような気もするのですが、硬質な文章でごく個人的で身体的な感覚を書くというイメージだったのですが、この作品は日本社会という大きな視野を持つ作品ですし、かなり饒舌だったので意外な感がありました。
 また、歴史を知らない世代にはとてもためになる教育的な本でもあります。マリが戦争について学ぶたびに、読者もそれを学んでいくことになるからです。たとえば「A級戦犯(平和に対する罪)」という言葉。これは英語では「class-A war criminal」という表記になるようで、「B級戦犯(通例の戦争犯罪)」「C級戦犯(人道に対する罪)」よりも罪が重いわけではないのだそうです。
 英語を介して日本を学んだほうが、かえってわかりやすい部分もあるようで、それは日本語がすでに漢字という外国語を含んだものだからだという考察も頷ける気がします。僕自身は作者よりは年下ですが、昔「A級戦犯」という言葉を聞いたときには「永久戦犯」だと考えていたくらい無知でしたから、恥ずかしながらこの本はとても勉強にもなりましたし、考えさせる内容を多く含んでいる本だと思います。

 最後に、疑問として残ったことについて。「私はひとつ、嘘をついた。ぶらさがった死体なら、見たことがあった。」(p.373)という部分。これはバブルの崩壊と同時に病死したと記されている父親のことを指しているのか? それとも戦犯として吊るされた人を指しているのか? あまりにサラッと書かれているのでわからないのですが、ちょっと気になる部分ではあります。

『現代思想の時代 〈歴史の読み方〉を問う』 普遍性と特異性

2014.08.13 23:09|社会学
 社会学者・大澤真幸と歴史学者・成田龍一の対談本。巻末には『現代思想』のこれまでの特集総覧が載っていますが、この対談は雑誌『現代思想』の40周年企画として計画されたもののようです。

現代思想の時代 〈歴史の読み方〉を問う



1 「理想」の終焉、「虚構」の胎動:1973‐1995
2 回帰する不可能な“歴史”:1995‐2011
3 3・11以後と“世界史”の哲学:2011‐


 これまでの『現代思想』の歴史を振り返ることで「現代思想」の展開を検証するということがテーマですが、目次を見るとわかるように、大澤真幸の「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」という区分に引き寄せた分析がなされていますし、第3章では現在『群像』で連載中の「〈世界史〉の哲学」に関して、これまでを振り返り今後の展開について触れられています。そういう意味で『現代思想』についてはよく知らなくても、大澤真幸の熱心な読者には親しめる内容になっているかもしれません。

 『現代思想』という雑誌は知っていても、僕自身は特集によって立ち読みするくらいでしたが、「現代思想」を勉強しようという学徒には違っていたようで、80年代を中心にした黄金期には『現代思想』が「現代思想」のアジェンダ・セッティングをしていたと一般的には考えられているようです。しかし、その後はちょっと様子が違ってきます。
 こうした変化を自分がわかる言葉で要約すれば、「大きな物語」が失われ「小さな物語」が乱立するという状態ということかと思います。90年代に入ってマルクス主義的な言説の有効性が疑われるようになって、そのあとには世界全体を説明するような「大きな物語」が現れなくなります。あらゆる言説が相対化されることになるというわけです。
 この対談では、浅田彰が97年の講演で『構造と力』(1983年)の解説をしていたというエピソードが登場しますが、別に浅田彰がその後の現代思想の展開を知らなかったというわけではなく、浅田彰にとってそれ以後はすべて相対化された「小さな物語」のひとつに過ぎないという判断があったからなのでしょう。

 この対談ではそういったことは「普遍性」「特異性」という言葉でも言い換えられています。西洋の思想が普遍的なものと考えられていた時代ではなくなったということが、「大きな物語」が失われたということだと思います。そうすると「みんなそれぞれ」ということになって、特殊=個別のほうが重要になってきます。そんな潮流にあったのが、たとえばカルチュラル・スタディーズのようなものなのでしょう。
 柄谷行人「特殊性(particularity)」に対する「単独性(singularity)」というものの重要性を説いたわけですが、大澤もその議論を受けています(大澤の場合、singularityは「特異性」と記されます)。そして柄谷行人『世界史の構造』「世界史の通時的な運動の前提となっているような、共時的・論理的な構造」を取り出すことに重心があるのに対し、大澤は「歴史のなかで起きている出来事の持っているまったくの偶発性が宿す普遍性にこだわっている」のだと整理しています。
 

 これまでの、例えばカルチュラル・スタディーズが出てきてさまざまな歴史の相対化がなされたときには、それぞれの歴史の特殊性だけを言い合いながら、「みんなそれぞれだよね」と確認していただけでした。しかし、それだけだと「普遍」が失われてしまう。私は「普遍」というものを見るためには、「特殊以上の特殊としての特異」にまで遡行していかなければならない、という直観があるのです。 (p171‐172)


 ここで特異な出来事として考えられているのが、「〈世界史〉の哲学」でも何度も取り上げられているキリストの殺害です。『群像』の連載(9月号)でも、映画『愛と追憶の日々』と絡めてキリストが取り上げられています。今後の「〈世界史〉の哲学」の展開では、最後に日本というある意味でかなり特殊な場所が論じられることになるようで、これからも楽しみです。