『帝国の構造 中心・周辺・亜周辺』 憲法九条という贈与
2014.09.30 23:09|哲学|
『哲学の起源』は『世界史の構造』では十分に書ききれなかった部分をまとめたものでしたが、今回の本は『世界史の構造』よりわかりやすく補強するためのものです。著者・柄谷行人の中国での講義録をまとめた連載がもとになっており、「中心・周辺・亜周辺」という概念も、具体的に中華帝国の周辺国・コリアと亜周辺国・日本との対比でより明確になっています。

『世界史の構造』は、社会構成体を交換様式から捉え直したもので、そのタイプをA(互酬)、B(略奪と再分配)、C(商品交換)とし、それを越える何かがDとされました。この『帝国の構造』では、旧帝国の問題が主に論じられます。まず著者は「帝国」と「帝国主義」について峻別し、「帝国」のあり方に交換様式Dにつながる可能性を見出しています。歴史的に「帝国主義」といえば悪いイメージばかりですが、「帝国」の原理はそれとは異なるというのが著者の見解です。
こうした「帝国」の原理は、カントの「世界共和国」へとつながっていきます。カントはその第一歩として「諸国家連邦」を説きました。その構想は「諸国家の自律性をとどめたままで、徐々に国家間の「自然状態」を解消しようとするもの」(p.189)なのだそうです。こうした構図は、世界市民主義(コスモポリタニズム)と祖国愛という関係にも表れています。世界共和国のなかで互いに自律したまま成立する民族みたいなもの(国家は解消されるわけだから)が生きていく、交換様式Dはこんなイメージになるでしょうか。
それからモンゴル帝国についても詳しく触れられています。これは『遊動論』にもあったように、著者が遊動性というものを重要視しているからなのでしょう。モンゴル民族は遊牧民です。遊牧民は定住しないわけで、常に移動し続けています。そうした遊動性とは自由であり、「自由であり、かつ平等である」のが交換様式Dの特徴です。モンゴル帝国は、その後の清帝国・ロシア帝国・オスマン帝国・ムガール帝国などの礎を築くことになり、「近世の各地の帝国はすべて、モンゴル帝国に由来するといっても過言ではない」(p.135)のだそうですが、ここまで帝国の版図を拡大できたのはモンゴル帝国に遊動性という原理があったからというのが著者の考えなのだと思います。
以前取り上げた『哲学の起源』には、「自由であり、かつ平等である」のが成り立つのは、フロンティアがあったからという論点がありました。しかし、この本でも「いまの時代のフロンティアとは何か」については触れられていません。というよりも著者によれば、未来はなかなか悲観的なものです。アメリカのヘゲモニーの時代は終わり、今は次のヘゲモニーを争う時代です。次に来るのは中国かインドというのが著者の予想ですが、どちらにしてもその発展は資源を枯渇させ、資本の競争は激しさを増します。それは「戦争に帰結する」というのが著者の予想なのです。しかし、そのためにこそ戦争を呼び込むかもしれない社会の形態を変革しようと呼びかけているわけで、それがやはり交換様式Dと呼ばれるものなのです。
具体的なその内実としては、「贈与」ということが挙げられます。交換様式Dは交換様式A(互酬)の「回帰」されたものだからです。さらに著者は日本が憲法九条を真に実行することが、ほかの国に対する贈与になるとしています。たしかに武力放棄をした国に対して戦争をしかける国がいたら、世界中から総スカンを喰らうとは思います。ネット上でも空気の読めない言動に対しては、「炎上」というリンチに遭うことになるわけですから。ただそれが実現可能かと言えば厳しいでしょう。特に今の政権は集団的自衛権の行使を認めるような決定をしているわけですし……。ただ、そうだとしても著者・柄谷行人のアイディアにはやはり傾聴すべきものがあるのは間違いありません。


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『世界史の構造』は、社会構成体を交換様式から捉え直したもので、そのタイプをA(互酬)、B(略奪と再分配)、C(商品交換)とし、それを越える何かがDとされました。この『帝国の構造』では、旧帝国の問題が主に論じられます。まず著者は「帝国」と「帝国主義」について峻別し、「帝国」のあり方に交換様式Dにつながる可能性を見出しています。歴史的に「帝国主義」といえば悪いイメージばかりですが、「帝国」の原理はそれとは異なるというのが著者の見解です。
第一に、帝国は多数の民族・国家を統合する原理をもっているが、国民国家にはそれがない。第二に、そのような国民国家が拡大して他民族・他国家を支配するようになる場合、帝国ではなく「帝国主義」になる、ということです。
では、「帝国の原理」とは何でしょうか。それは多数の部族や国家を、服従と保護という「交換」によって統治するシステムです。帝国の拡大は征服によってなされます。しかし、それは征服された相手を全面的に同化させたりしない。彼らが服従し貢納さえすれば、そのままでよいのです。(p.85‐86)
こうした「帝国」の原理は、カントの「世界共和国」へとつながっていきます。カントはその第一歩として「諸国家連邦」を説きました。その構想は「諸国家の自律性をとどめたままで、徐々に国家間の「自然状態」を解消しようとするもの」(p.189)なのだそうです。こうした構図は、世界市民主義(コスモポリタニズム)と祖国愛という関係にも表れています。世界共和国のなかで互いに自律したまま成立する民族みたいなもの(国家は解消されるわけだから)が生きていく、交換様式Dはこんなイメージになるでしょうか。
それからモンゴル帝国についても詳しく触れられています。これは『遊動論』にもあったように、著者が遊動性というものを重要視しているからなのでしょう。モンゴル民族は遊牧民です。遊牧民は定住しないわけで、常に移動し続けています。そうした遊動性とは自由であり、「自由であり、かつ平等である」のが交換様式Dの特徴です。モンゴル帝国は、その後の清帝国・ロシア帝国・オスマン帝国・ムガール帝国などの礎を築くことになり、「近世の各地の帝国はすべて、モンゴル帝国に由来するといっても過言ではない」(p.135)のだそうですが、ここまで帝国の版図を拡大できたのはモンゴル帝国に遊動性という原理があったからというのが著者の考えなのだと思います。
以前取り上げた『哲学の起源』には、「自由であり、かつ平等である」のが成り立つのは、フロンティアがあったからという論点がありました。しかし、この本でも「いまの時代のフロンティアとは何か」については触れられていません。というよりも著者によれば、未来はなかなか悲観的なものです。アメリカのヘゲモニーの時代は終わり、今は次のヘゲモニーを争う時代です。次に来るのは中国かインドというのが著者の予想ですが、どちらにしてもその発展は資源を枯渇させ、資本の競争は激しさを増します。それは「戦争に帰結する」というのが著者の予想なのです。しかし、そのためにこそ戦争を呼び込むかもしれない社会の形態を変革しようと呼びかけているわけで、それがやはり交換様式Dと呼ばれるものなのです。
具体的なその内実としては、「贈与」ということが挙げられます。交換様式Dは交換様式A(互酬)の「回帰」されたものだからです。さらに著者は日本が憲法九条を真に実行することが、ほかの国に対する贈与になるとしています。たしかに武力放棄をした国に対して戦争をしかける国がいたら、世界中から総スカンを喰らうとは思います。ネット上でも空気の読めない言動に対しては、「炎上」というリンチに遭うことになるわけですから。ただそれが実現可能かと言えば厳しいでしょう。特に今の政権は集団的自衛権の行使を認めるような決定をしているわけですし……。ただ、そうだとしても著者・柄谷行人のアイディアにはやはり傾聴すべきものがあるのは間違いありません。
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