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『この世を離れて』 映画『スイート ヒアアフター』の原作を読む

2014.11.30 19:53|小説
 最近『デビルズ・ノット』という映画を観ました。実在の事件を題材にしたアトム・エゴヤン監督の映画ですが、この映画がほとんど何も解決しないというモヤモヤ感を残したまま終わったので、何となく気になってエゴヤン監督の過去の作品『スイート ヒアアフター』(カンヌ映画祭グランプリ受賞作)を観直しました。これもあまりすっきりしない終わり方だったように記憶していたので。ついでにラッセル・バンクスの原作『この世を離れて』(1996)も読んでみました。

この世を離れて (Hayakawa novels)




 映画『スイート ヒアアフター』では、スクールバスの事故で多くの子供たちを失うことになったある町に、弁護士が現れるところから始まります。この弁護士は事故の被害者たちを巡って、訴訟を起こすことを提案します。弁護士が被害者やその家族たちから話を聞くにつれ、事件の詳細が明らかになり、さらに今では事故で変ってしまった町の昔の姿も描かれていきます。過去と現在の時制を複雑に行き来しながら、物語は進んでいくことになります。
 その映画の原作となったのが『この世を離れて』です。「hereafter」という言葉は、「the hereafter」という形で「来世」「あの世」を指すそうです(翻訳者は大谷豪見)。この原作は映画の複雑な構成とはまったく異なり、事件の当事者と弁護士たちが、それぞれ一人称で事故のことなどを振り返って語っていくという形になっています。
 事故を起こしたスクールバスの運転手「ドロレス・ドリスコル」、事故当日にバスの後を車で走っていて目撃者となった「ビリー・アンセル」、事故を知って訴訟を目論む「弁護士ミッチェル・スティーブンス」、事故の被害者で車椅子生活を強いられている「ニコル・バーネル」。そんな順番に一人称の語りが続き、最後にまた「ドロレス・ドリスコル」のところに戻って終わります。

 おれにとってあの事故が、いかに予測のつかないものだったか、いやそもそもあんな事故が起こるとはいかに思いもよらなかったか――バスを運転していたドロレス・ドリスコルをのぞけば、現場のいちばん近くにいた町の人間は、まちがいなくこのおれだというのに……おれが唯一の目撃者だと言っていいのに――とにかくその話をしておこう。事故が起きた瞬間、おれはあのいまいましいリサ・ウォーカーのことを考えていた。(p.37)


 こんなふうにこの小説は綴られていきます。原書がどうなっているのかはわかりませんが、日本語訳ではビリーは「おれ」と表記され、ドロレスは「わたし」、弁護士は「私」、ニコルは「あたし」と表記されますが、すべて一人称で主観的な自分語りとなっています。
 
 ※ 以下、結末にも触れていますので、ご注意ください。


 映画版では、部外者の弁護士が町をかき乱したところを、ニコルが嘘をつくことで町の平安を守ったという終わり方となっていました。原作では、そのあとさらにもう一度ドロレスに視点が移ることで、ちょっと違った印象を持ちました。
 本当の事故の原因がどこにあるかは問題ではありません(多分それは単なる運の悪さとかでしょう)。ただその事故に関わってしまった誰にとっても――これは舞台となるサム・デントという町全体のことかもしれません――それ以後は、何かが決定的に変ってしまったわけです。しかしニコルが嘘をつき、ドロレスが法廷速度を守っていなかったことに原因があるとされ、「サム・デントの子どもたちを死亡させた張本人」(p.241)なのだとされます。それによってドロレスは町からは心理的にはじき出されることになるのでしょうが、そのドロレス自身が解放感を覚え、ニコルの嘘に感謝すらしています。多分、ドロレスが一種の犠牲となり悲劇の原因として確定されることで、町の平安が少しずつ戻ってくることになるのでしょう。
 人は理解できないものは受け入れられないわけで、わかりやすい答えがあったほうが納得します。事故の当事者であるドロレスは、実際には極端なスピード違反をしていたわけではないのですが、自分が犠牲になるという道筋をニコルがつけてくれたことでニコルに感謝したのでしょう。
 「the sweet hereafter」という場所、それは日本語訳では「天国の町」と訳されていますが、これはドロレスが感じたそのときの境地です。ドロレスは死んだ子どもたちと同じように町を離れた天国に居ると考えるわけですが、その魂は孤独でもあると考えています。それでもそこに「sweet」という形容詞があることからして、孤独とはいえ絶望的なものではないようにも感じられます。

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『ブッダをたずねて 仏教二五〇〇年の歴史』 仏教という世界宗教のあれこれ

2014.11.29 17:16|宗教
 このブログでも何度か取り上げている立川武蔵の新書本。新聞連載がもとになっており、新書版の見開き2ページでの読みきりが108つ(煩悩の数)並んでいます。それぞれのテーマにあった仏像の写真や絵なども掲載されていて、気軽に読める本になっていると思います。

ブッダをたずねて 仏教二五〇〇年の歴史 (集英社新書)



第1章 ブッダの一生(1~25)
第2章 ブッダの面影と新しい仏(26~68)
第3章 アジアに広がった仏たち(69~98)
第4章 日本に花開いた仏教(99~106)
終章 回帰するブッダ(107~108)


 構成を見ると、第2章が一番のボリュームになっています。この章ではゴータマ・ブッダの教えが、時代を経て大乗仏教の仏というものに変化していく様子が追われていきます。これは『ブッダから、ほとけへ』でも書かれていたものです。それに比べ日本の仏教の扱いはかなり小さいものになりますが、それだけ仏教というものが世界宗教として広がっているということでもあり、日本の仏教だけが仏教の姿でないことがわかります。第3章では中国はもちろんのこと、チベットや東南アジア諸国の仏教の姿を垣間見ることができます。

 以前取り上げた『隠された歴史』という本では、「大乗仏教がキリスト教の影響を受けている」というちょっと極端な主張がなされていました。一方、『ブッダをたずねて』では、インドで阿弥陀仏が生まれたのと同じころ、ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神への帰依が勢力を得たとされており、これらの変化は「インドの中から生まれたと考えるよりも、「神への帰依」を知っていたヘレニズムの世界からの影響と考えるできであろう。」(p.85)と記されています。
 大乗仏教にほかの文化からの影響が入っていることは同じですが、その影響はヘレニズムからのものでキリスト教(ヘブライズム)ではありません。やはり「大乗仏教がキリスト教の影響を受けている」というのは極端なのかもしれません。とはいえ日本人の僕としては、ヘブライズムもヘレニズムも西洋のものという意味では同じようにしか感じられない部分もあって、細かい部分はよくわからないのですが……。

『ミルカ』 インドでとても評判のよかった映画らしい。

 全然関係のない話ですが、ちょっと前に映画館で『ミルカ』というインド映画の予告編を観ました(来年公開)。この実在のランナーだという主人公ミルカの頭が、よくある仏像のような形をしていたので、インド人の髪型を写したものとして仏像があるのかも思っていたのですが、この本を読むとちょっと違っていました。
 ヨーガの実習がある程度進むと、頭蓋骨のつなぎ目から体液が出てきて瘤をつくるのだそうです。「この頭の盛り上がりはブッダの智慧の象徴であり、サンスクリットでは「ウシュニーシャ」(仏頂)という。後世、この頭頂の智慧あるいは功徳が神格化されて仏頂尊として崇められてきた。」(p.70)のだと言います。まだまだ知らないことは多いものだと今さらながらに思った次第でした。それにしても「仏頂」という言葉の象徴するものから考えると、「仏頂面」という言葉は何だか不思議な気もします。

岩明均 『寄生獣』 映画の公開前に漫画を読み返してみた

2014.11.24 01:54|漫画
 言わずと知れた名作漫画ですが、映画化されることになったため再読してみました。
 実は映画版『寄生獣』は、試写会にて既に鑑賞しました。詳細な情報を知らなかったのですが、今月末から公開される映画は第1部で、完結篇は来年4月に公開予定とのことです。

寄生獣 完全版全8巻 完結コミックセット



 漫画の冒頭はこんなふうに始まります。

地球上の誰かがふと思った
『人間の数が半分になったらいくつの森が焼かれずにすむだろうか……』
地球上の誰かがふと思った
『人間の数が100分の1になったらたれ流される毒も100分の1になるだろうか……』
誰かがふと思った
『生物(みんな)の未来を守らねば……』


 このナレーションに合わせて寄生生物である何ものかが活動を開始するわけですが、漫画では宇宙から見た地球が描かれているために、寄生生物(パラサイト)が宇宙から飛来したようにも感じられます(実はそうとも言えないようですが)。
 映画版ではこの部分が海から始まっており、寄生生物は地球のなかから生じたことがより明白になっていました。また、漫画版のナレーションは登場人物の声ではなく、誰とは特定できない話者(作者そのものかもしれません)の声となっていますが、映画版では深津絵里演じる田宮良子の声となっていました。

映画版の『寄生獣』 シンイチ役には染谷将太

 以前にこの漫画を読んだときも、このナレーションの位置を何となく不思議に感じていたのですが、映画版の前篇を観た後に読み返すと、それが地球そのものの声のようにも感じられました。寄生生物は人間に寄生し、その脳を喰い身体を乗っ取ってしまい、さらにその餌として人間を捕食するという、人間にとっては恐ろしい敵です。しかし、その寄生生物の存在によって、人間こそが“寄生獣”だと明らかになります(実際にそう言ったのは人間である市長ですが)。
 人間が何に寄生しているかと言えば、地球という惑星です。人間は万物の霊長としてほかの動物や自然を支配していますが、その驕りは地球そのものを限りなく破壊するほどのものになっていっているわけで、地球というのが一個の生命体であるならば、人間はそれに寄生する厄介な敵となるわけで、そうした意味で冒頭の言葉は地球そのものが発した言葉としても感じられたわけです。寄生生物が地球の内部から生じるのも、増えすぎた人間を間引きするための地球の意思のようにも映るわけです。
 とは言うものの、その寄生生物であるミギーは「わたしは恥ずかしげもなく「地球のために」という人間がきらいだ……なぜなら地球ははじめから笑いもしなければ泣きもしないからな」と語っていますから、地球の安易な擬人化を否定しているようにも感じられますから、そんなに単純なものでもないのかもしれません。
 どちらにしても何度読んでも色々と考えさせるところのある漫画であることは間違いないと思いますし、映画版の完結篇ではどんな『寄生獣』を見せてくれるのかが今から楽しみでもあります。