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『「知の技法」入門』 大澤真幸の読者なので……

2014.12.31 08:23|社会学
 90年代に『知の技法』『知の論理』『知のモラル』というシリーズが結構売れていたことは知っていたのですが、そのキャッチコピーである「東大生の教科書」みたいな触れ込みに萎縮してまったく読んでいませんでした。何となく難しそうで……。今回の『「知の技法」入門』は、大澤真幸が対談の相手となっているために手に取りました(共著者はシリーズの編者である小林康夫)。

「知の技法」入門



Ⅰ 入門篇
  第1章 「人文書」入門―タイタニック号の乗員の
                     ためのブック・ガイド
  第2章 「読書の技法」入門―速読、精読、ノート法
Ⅱ 理論篇
  第3章 誰にもわかる「実存主義・構造主義・ポスト構造主義」
              ―二〇世紀の思考の大きな流れを知る
  第4章 自然科学と人文科学のインターフェース
            ―意識と物質のミッシングリンクを考える
Ⅲ 「知の技法」とは何か?


 この本は世の中で最近重要視されている自然科学と比べ、かなり旗色が悪い人文科学という分野に関して論じた対談集です。第1章は人文書の入門ということで、ブックガイドも付いています。当然のことながら自然科学を無視することはできませんから、ふたりの対談者は人文科学の側から自然科学の側への橋渡しの役割を担おうとしているようです。
 僕が連載を追いかけている大澤真幸の「社会性の起原」でも、サル学の研究成果を追いながら、社会学的な問題を追及しています(『動物的/人間的 1.社会性の起原』という著作もありました)。たとえばチンパンジーの認知能力の研究によると、数の順序を理解していて、しかもその反応スピードは人間より速いのだと言います。とはいえ、チンパンジーが数の概念を理解していることにはなりません。

 われわれが、「数を理解している」、「数の概念を持っている」ということがどういうことなのかを、自分でもよくわかっていないからなんです。つまり、謎はチンパンジーの能力の側にあるのではなく、自分自身の能力、人間の能力の側にある。(p.188)


 チンパンジーの数の理解に関して研究することで、人間の数の理解に関してより理解が深まることになるわけです。
 小林康夫のほうはチンパンジーと人間に断絶があるのだとすれば、その断絶を断絶のまま、理解できないままにしておくことが大事と考えているようです。しかし、大澤はそこに自分自身で納得のいく説明を見つけ出そうと考えています。
 学問的な厳密性からすれば小林康夫のほうが正しいのかもしれません。大澤の議論は時にアクロバティックなものに感じられることもありますが、そういう部分も個人的には好きなのです。
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『アンダー・ザ・スキン』 ジャンルミックスの奇妙な味わい

2014.12.29 21:20|小説
 この小説を題材にした映画『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(主演:スカーレット・ヨハンソン)がとてもよかったので、改めて原作を読んでみました。作者はミッシェル・フェイバー。翻訳は林啓恵

アンダー・ザ・スキン (BOOK PLUS)



 主人公のイサーリーは毎日ヒッチハイクの男を拾っています。その男には一定の条件があって、筋骨隆々の身体を持っていなければならないし、家族や友人が多い者は避けなければなりません。なぜかと言えば、イサーリーは男を薬で眠らせて、ある場所へと拉致する役割を担っているからです。
 そんなイサーリーは男を誘うための豊かな胸を持つ女性ですが、背は低く分厚い眼鏡をかけていて魅力的なのかどうかいまひとつわかりません。ヒッチハイカーたちも胸の大きさには惹かれても、そのほかのアンバランスさには異様な印象を持っているようです。
 いったい何のためにイサーリーはそんなことをしているのかという謎が物語を牽引していきます。

 ※ 以下、ネタバレがありますのでご注意ください!


映画版の『アンダー・ザ・スキン』 エイリアンを演じるのはスカーレット・ヨハンソン。


 映画版を観た人ならばすでに明らかなことですが、このイサーリーは実は女の姿をしたエイリアンです。イサーリーはどこかの世界から地球に派遣されている人類とは別の生命体です。彼らは4本足の生き物で、イサーリーは外科手術によって2本足の人類を装って、男を捕獲する役割をしていたわけです。そして、その男たちはアジトで食肉とされることになります。彼らにとっては4本足の彼らこそが人間で、地球のわれわれのような2本足はヴォドセルと呼ばれる動物とされます。

 なかなかおもしろい設定です。こうした寓話の場合、人間とエイリアンの関係が現実社会の何に対応しているのかと憶測をすることになるわけですが、それが具体的に何を示しているのかは僕にはよくわかりません。ただ階級社会とか男女差別のようなものを仮想敵として描いているようには感じられますし、動物虐待なども視野にあるのでしょう。
 イサーリーが嫌悪感を抱いているアムリスという登場人物がいます。アムリスは4本足の生き物でイサーリーたちの種族の権力者の息子です。アムリスはイサーリーから見ても完璧な美貌を備えていて、地球のヴォドセル(つまりわれわれ)に対しても情けをかけるような優しい心を持っています。それでいてその父親は人肉食ビジネスを始めた張本人でもあるわけで、イサーリーはアムリスに複雑な感情を抱きます。イサーリーが2本足のフリークスにさせられたのは、アムリスのような権力者たちの仕業ですが、同時に彼らのような特権階級に憧れを抱いているようでもあります。読み方によって様々に解釈できる小説になっていると思います。
 イサーリーは酷かった故国を思うよりも、地球の自然の美しさに惹かれ、それを最後の慰めにしてもいるようです。最後の描写はロレンス『黙示録論』の結語を感じさせます。

アンダー・ザ・スキン 種の捕食 [DVD]



『すべて真夜中の恋人たち』 ほんやりして生きることは是か非か

2014.12.09 21:22|小説
 『乳と卵』『ヘブン』などの川上未映子の長編。今月になって文庫化されました。

すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫)



 初老の男性と主人公の女性の恋が描かれるため、途中まで何となく『センセイの鞄』(こちらは川上弘美)を思い出していました。ただ『センセイの鞄』は純粋に恋愛小説だった気もしますが、『すべて真夜中の恋人たち』はちょっと違うようです。
 小説の主人公のすべてに目的が設定されているわけではないですが、この小説の冬子は30代半ばのフリーの校閲者で孤独に作業をこなすばかりで、この小説で主人公がどこへ向かおうとしているのかよくわかりません。ただ現実の人生においても、その方向性がはっきりしている人ばかりではないわけで、もしかすると大多数の人は生まれてしまったから闇雲に生きているのかもしれません。作者の川上未映子は、そんなサイレントマジョリティである「美しくもなく強くもない」女性を描こうとしたと言います。

 ※ 以下、ネタバレもありますのでご注意を。

 冬子は「ほんやりして生きてる」存在です。この小説のなかで、冬子は2回もその言葉を投げかけられます。最初は初めてセックスを体験したときの相手(水野くん)であり、次は彼女とは正反対の聖という女友達からです。聖は自分の考えをはっきり言い、敵を作ることを厭わず、物事を自分で選び前に進んで行こうとします。聖は冬子に友達のように接しますが、同時に彼女の存在を苛立たしくも考えています。この苛立ちは、聖がまったく違う生き方をしている冬子を羨ましく思うからでもあります。
 冬子は直接的に聖に憧れを抱くわけではないですが、聖の生き方に影響される部分もあるようです。孤独な日々を癒すためかアルコールに走るようになるのもそうだし、派手に男遊びをしている聖の存在が、冬子を恋愛へと向かわせたのかもしれません。

 冬子はふとしたことで知り合った三束さんと喫茶店で話をするようになり、冬子にとって還暦手前の三束さんの存在は大切なものになります。そして意を決して三束さんに告白します。冬子は今まで様々なことから逃げてきたと考えています。何も選択せず、周囲に流され、何も決断しないことは楽だからです。初体験の相手水野くんにもそのことを責められます。だから冬子は告白を決断します。
 おもしろいのは、この冬子の決断が彼女の成長につながるわけでもないことでしょうか。冬子の想いは成就しません。そして冬子は三束さんの居なかったころの生活に戻っていきます。
 最後に冬子と聖のちょっとした対決があります。両極端のふたりがぶつかるわけですが、それは自分がなりたくてもなれない「もうひとりの自分」との闘いのようでもあります。結局は「ぼんやりして生きてる」冬子も、選択し決断して懸命に生きてる聖も同じような場所に居るのです。どちらの生き方にも差異はありません。そのことを知ってふたりは互いをさらに認め合うようになったようです。

 気になるのは突然姿を消した三束さんです。三束さんがなぜ嘘をつき、冬子の告白に応じなかったのかはわかりません。三束さんは冬子と似た者同士のようにも思えましたが、男女の違いもあり、まったく同じというわけではないようです。冬子が三束さんに求めたのは、恋愛という「全人格的な承認」だったのかもしれませんが、三束さんはそれを必要としないのかもしれません。三束さんは音楽や物理など興味範囲は広く、そうしたことにかまけることで、他人からの承認など必要ない「自己完結の世界」を構築することができるからかもしれません。作者の意図はわかりませんが、男というのも厄介な存在だという気がしました。