『反復』 キルケゴールにおける「反復」の意味とは?

この本を手に取ったのはそんな興味からですが、実際は上記のような「反復」とはまったく違った内容でした。プラトンは「想起説」というものを唱えたわけですが、キルケゴールはこの著作でそれとは別に「反復」という説を唱えます。

反復と追憶とは同一の運動である、ただ方向が反対だというだけの違いである。つまり、追憶されるものはかつてあったものであり、それが後方に向かって反復されるのだが、それとは反対に、ほんとうの反復は前方に向かって追憶されるのである。だから反復は、それができるなら、ひとを幸福にするが、追憶はひとを不幸にする。(p.8)
こんなふうに書かれていますが、ここでの「反復」というものは、自然界にあるような同じものの繰り返しという反復とは別のものであるようです。キルケゴールの「反復」とは「原初の完全無垢な状態に返って、そこからふたたび始めて、やり直す」(p.219)ことであり、キリスト教の罪の赦しという宗教的な意味合いを含んだものとのことです(キルケゴールはヨブ記を論じることでそれを検討しています)。こうしたことは『反復』を一度通読しただけではなかなか理解しにくい部分もあります。
僕はキルケゴールの著作は『死に至る病』

何はともあれ、深い恋におちた青年はなんとなく美しいものである。だからそういう姿を見ると、その美しさに見とれて、観察などすっかり忘れてしまう。概して、ひとの心に湧きたつあらゆる深い人間的な感動は、観察者の武装を解除してしまうものだ。そういう感動がなくてそらぞらしい気持ちでいるとき、あるいは、そういう感動が体裁よく押し隠されているときに限って、ひとは観察したくなるとしたものだ。ひとりの人間がほんとうに魂をこめて祈っているのを目の前に見ながら、それを観察しようなどと思うほどの人でなしで誰がありうるであろう。(p.14)
この本はキルケゴールの実際の婚約破棄という事件をもとにしているようです。ただこれに関しては第二部ではパロディとして扱われることにもなるわけで、反復の不可能性ということが明らかにされることにもなるわけですが、この本の解説にもあるように「芸術的な散文」だと感じられました。
この本に描かれる婚約破棄に関しては、その後の研究でもその真相は明らかではないとのことですが、『反復』と同じ時期に出版された『おそれとおののき』という本(手に入りにくそう)などにも婚約破棄について触れられているとのことで、そちらのほうも読んでみたくなりました。