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『反復』 キルケゴールにおける「反復」の意味とは?

2015.01.31 23:33|哲学
 日々退屈な仕事をこなしていると、毎日が同じ繰り返しみたいに感じることもあります。映画でもたとえば『恋はデジャ・ブ』『All You Need Is Kill』なんかでは、そんな反復する1日が描かれたりします。東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』では、小説やゲームに登場する「反復」について分析がなされていました。
 この本を手に取ったのはそんな興味からですが、実際は上記のような「反復」とはまったく違った内容でした。プラトンは「想起説」というものを唱えたわけですが、キルケゴールはこの著作でそれとは別に「反復」という説を唱えます。



反復と追憶とは同一の運動である、ただ方向が反対だというだけの違いである。つまり、追憶されるものはかつてあったものであり、それが後方に向かって反復されるのだが、それとは反対に、ほんとうの反復は前方に向かって追憶されるのである。だから反復は、それができるなら、ひとを幸福にするが、追憶はひとを不幸にする。(p.8)


 こんなふうに書かれていますが、ここでの「反復」というものは、自然界にあるような同じものの繰り返しという反復とは別のものであるようです。キルケゴールの「反復」とは「原初の完全無垢な状態に返って、そこからふたたび始めて、やり直す」(p.219)ことであり、キリスト教の罪の赦しという宗教的な意味合いを含んだものとのことです(キルケゴールはヨブ記を論じることでそれを検討しています)。こうしたことは『反復』を一度通読しただけではなかなか理解しにくい部分もあります。
 僕はキルケゴールの著作は『死に至る病』しか読んでいませんので、その解説にあるキルケゴールがせむしだったという後年の研究成果などを読むにつけ、勝手に日陰者みたいなイメージを持っていたのですが、この本を読むとちょっとそのイメージは変わります。この本の第一部では、ある青年の恋愛について書かれていますが、恋愛小説のようにとても情熱的な部分があるからです。

何はともあれ、深い恋におちた青年はなんとなく美しいものである。だからそういう姿を見ると、その美しさに見とれて、観察などすっかり忘れてしまう。概して、ひとの心に湧きたつあらゆる深い人間的な感動は、観察者の武装を解除してしまうものだ。そういう感動がなくてそらぞらしい気持ちでいるとき、あるいは、そういう感動が体裁よく押し隠されているときに限って、ひとは観察したくなるとしたものだ。ひとりの人間がほんとうに魂をこめて祈っているのを目の前に見ながら、それを観察しようなどと思うほどの人でなしで誰がありうるであろう。(p.14)


 この本はキルケゴールの実際の婚約破棄という事件をもとにしているようです。ただこれに関しては第二部ではパロディとして扱われることにもなるわけで、反復の不可能性ということが明らかにされることにもなるわけですが、この本の解説にもあるように「芸術的な散文」だと感じられました。
 この本に描かれる婚約破棄に関しては、その後の研究でもその真相は明らかではないとのことですが、『反復』と同じ時期に出版された『おそれとおののき』という本(手に入りにくそう)などにも婚約破棄について触れられているとのことで、そちらのほうも読んでみたくなりました。
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『善の根拠』 仏教の考えで善悪を論じると……

2015.01.27 20:21|宗教
 著者の南直哉は曹洞宗の僧侶であり、以前にこのブログでも取り上げた『宮崎哲弥 仏教教理問答』でも対談相手として登場していました。
 この本は仏教書ではないと最初に断りがあります。かといって著者が依拠する仏教の立場から完全に離れるわけでもないのですが、著者は善悪問題をあくまで私的に検討していきます。仏教の考えではこうなっていますといった教義の説明ではなく、独自の論が展開されます。

善の根拠 (講談社現代新書)



 著者は「善悪問題(倫理問題)こそが仏教の急所だと思う」(p.11)と記しています。仏教の基本的な考え方は「諸行無常」「諸法無我」という言葉で表されます。「諸行無常」とは、一切の現象は変化して移り変わり続けるということであり、「諸法無我」とは、あらゆる存在は実体を持たないということです。
 こうした考えを徹底すれば、行為する者の一貫した主体性を想定できないし、確たるものが何もないわけで、善悪の区別は根拠を失います。だからこそ著者はそれを「仏教の急所」だと言うわけです。それでも著者は「諸行無常」「諸法無我」という考えから善悪問題を考えてみようとしています。

 善悪とは何か。
 著者によれば「悪は欲望され、善は課せられるもの」(p.15)となります。「悪であるがゆえに禁止されるのではなく、ある欲望が禁止される。その禁止された欲望が悪であり、禁を犯せば罰せられ、罰せられたことが罪と呼ばれることになる。」(p.15)そして反対に善は課せられます。善と悪にはその根底に強制があるわけです。著者はそこに自己に対して強制を迫るような他者(共同体)を見出だします。というより、自己というものの存在が、「他者から課された」ものであると考えるわけです。
 動物であれば群れには「掟」があり、各個体はそれに従って生きていきます。人間においても共同体の行動基準として「道徳」というものがありますが、ここで論じられるのは道徳の問題ではありません。ここでは自己の存立の問題、つまり「倫理」が問われています。
 「倫理」と「道徳」の整理は様々あるかと思いますが、たとえば社会学者・宮台真司はこんなふうに整理していました。「道徳」は共同体の目を行動規範にすることで、「倫理」とは神の目を行動規範にすることだと。仏教においては神の目はありませんから、この本では倫理をそんなふうに整理するわけではありません。
 この倫理の問題は、自己の存在様式を受け入れるか否かという決断にあるのだと著者は言います。善悪の問題もここに関わってきます。「他者から課された」ものである自己を受容することが「善」となり、それを拒否することが「悪」となるのです。そしてそれは根拠のない「賭け」だとも言います(パスカルを思わせます)。

 こうした善悪の捉え方はかなり独特なものです。根拠がないところを土台にしているから、なかなか厄介な議論になっているようにも思えます。著者はこのアイディアで大乗仏教の戒律をも検討しようとします。たとえば「不淫戒」の部分では、修行の邪魔になるということよりも、子供をつくらないという決意をすることが重要で、それによって他者に何かを課すことのない存在に留まるといったことが記されています。誰もが納得できるような議論になっているかと言えば疑問も沸いてきます(そもそも著者の議論を理解しているかもあやしいですが)。
 著者自身も対談部分では、「あえて理屈を考えてみました、ということだけ」(p.193)などとも語っています。それでもわざわざそんなことをするのは、仏教がそのあたりを正面から扱ってこなかったということを憂慮する仏教者としての想いがあるのでしょう。そんな意味では、自らの言葉で真摯に考えてみようといった心意気みたいなものが感じられました。

『反<絆>論』 マイノリティはつらいよ

2015.01.13 20:53|その他
 著者の中島義道はカントが専門の哲学者ですが、ひねくれた人生論のような本も色々と出版していて、積極的なファンだとは多分誰も言わないんじゃないかとは思いますが、そんな本を読んでみたくなる時もあります。この本は東日本大震災以後に世間で盛んに言われるようになった<絆>というものに対して異を唱えるものになっています。

反〈絆〉論 (ちくま新書)



 著者のほかの本にも書かれていることですが、著者はかなりの偏屈な人物であり、電車に乗れば見ず知らずの人に平気で注意をし、場の雰囲気を凍りつかせたり、人づきあいはしないと宣言したりと自分勝手に振舞っているように見えます。しかし、今回改めて『反<絆>論』を読んでみると、その傲慢とも思える言葉にもそれなりに配慮が働いているようにも思えました。勝手なイメージでもっと威勢のいい啖呵を期待してもいたのですが……。
 震災後の<絆>に対し茶々を入れるなんてことは、かなり顰蹙を買うことだと思います。ただ著者はマスコミなどでそれらが大々的に喧伝され、それ以外の言葉が封殺されてしまうことに異を唱えているわけで、具体的な<絆>そのものを嫌っているわけではありません。世間がそれ一色になり、どんな反対意見も言えないような暴力的な空気を嫌っているわけです。そんな世の中では「繊細な精神」(パスカル)で失われてしまうからです。

 「組織に留まるべきか、組織から出るべきか」という部分では、「自分の感受性と信念に反することを強いられる組織に属している場合」のことを検討しています。実際、会社組織などに属していれば、そのほとんどがそうした組織なのではないかと思います。特に自分をマイノリティだと意識している人はそうで、この本の読者の多くがそれを意識しているのではないでしょうか(もちろん僕自身もそうです)。この場合、自分の信条に従って、組織の裁き(たとえばいじめなど)を受けるほうを著者が推奨するわけではありません。

ある人が長期間にわたって組織の中で排除されていくうちに、一般に彼(女)は、他の社員を軽蔑し、憎み、いかなる他人の助言も聞かない傲慢で自分勝手で硬直した人間になっていくからである。あるいは、被害者意識に凝り固まった、ひがみっぽい、恨みがましい、人間に転化していくからである。(p.106)


 こうなると人間として劣化していくことになります。組織を出ることができればいいのですが、となると飢えることになります。著者の場合は、哲学の教師という立場にありますから、しのぐことができたわけですが、そのほかの道もごく限られていてかなり狭き門になるでしょう。
 著者も「公的」「私的」なものを使い分けている部分もあったようですし、いかに偏屈でもそれを貫くだけでは生きてはいけないようです。ただ著者の場合、「公的」(多分こうした著作など)には偏屈を押し通そうとし、「私的」にはそれなりに他人に合わせてもいるようで、普通とは逆になっているようです。著者のように「公的」に偏屈なキャラが認められれば楽なのかもしれませんが、ごく普通のマイノリティにはなかなか難しそうです。