fc2ブログ
01 | 2015/02 | 03
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
プロフィール

moyai

Author:moyai
興味の範囲はごく限られ、実用的なものはほとんどないかも。

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

カウンター

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログランキング

ランキングに参加しました。

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

『成瀬巳喜男 映画の面影』 もっと成瀬作品が観たくなる

2015.02.24 00:21|映画
 著者の川本三郎は映画関係の本も色々と出している人で、『君美わしく-戦後日本映画女優讃』という女優たちへのインタビュー本もあって、成瀬映画は女性映画を多く撮っていたわけですからまさに適役と言えるのかもしれません。

成瀬巳喜男 映画の面影 (新潮選書)



1 「貧乏くさい監督」
2 消えゆく芸者の美しさ
3 金をめぐる物語
4 女に金を借りる男たち
5 愛すべき市井劇「おかあさん」
6 「私たちって、行くところがないみたいね」
7 卓袱台のある暮らし
8 郊外農家の人びと
9 未亡人たちの強さ
10 路地に生きる単独者
11 妻たちの不信のとき
12 子供たちを見つめる


 この本では上記の目次のように、毎回テーマに沿って映画監督・成瀬巳喜男の作品を読み解いていきます。「金をめぐる物語」という回では、『流れる』などを参考に、成瀬映画がしばし金の話をモチーフにするということに触れています。『流れる』は柳橋芸者の話ですが、はなやかな場面はありません。山田五十鈴演じる主人公はいつも金策に追われ、若い芸者の叔父からは言い掛かりをつけられて強請られたりします。

 成瀬巳喜男にとって、生活とは金のやり繰りであるという強い思いがある。だから、たとえ芸者が主人公であっても、その暮しを描こうとしたら金の話は欠かせない。これは黒澤明にも小津安二郎にもない成瀬巳喜男の映画の大きな特色である。庶民の暮しを描くことの多かった木下惠介でさえ、成瀬のように金の話ばかり語るようなことはしていない。(p.44)


 成瀬映画ではいつも劇中に出てくる物の金額というものを明確にするのだそうです。たしかに『乱れる』でも、高峰秀子扮する主人公は、酒の値段を10円単位で客とやりとりしていました。そんなふうですから淀川長治さんは成瀬巳喜男を「貧乏くさい監督」などとも評していたようです(笑いながらですが)。
 成瀬巳喜男は松竹にいたときに、「小津は二人いらない」などと言われてほかの会社に移ることになるわけですが、似ているようでふたりの巨匠はまったく違います。成瀬の『流れる』でも『乱れる』でも具体的な働く姿が描かれるわけですが、小津安二郎の映画ではたとえば笠智衆はデスクに座ってはいますが、ただ判子を押してみたりするだけです。
 また、著者は作品の背景などについても丁寧に解説してくれます。『流れる』は芸者たちの話ですが、「三業のなかでは、料亭のほうが芸者置屋より力が強い」(p.34)などと解説されます。三業というのは、料理屋・芸者置屋・待合のことで、料亭の女将である栗島すみ子(当時の大スター)のもとへ、芸者置屋の山田五十鈴が金を借りに行くことになるわけです。背景にはそうした三業の力関係があるということで、芸者遊びなんかしたことのない今の人間としてはとても作品理解の役に立ちます。

 成瀬巳喜男といえば日本映画の巨匠と呼ばれながらも、黒澤明や溝口健二や小津安二郎ほど有名でもなければ、接する機会も少ないような気がします。近くのレンタル店にもなぜか1本のソフトも置かれていないことに気づいて驚きました。僕自身も有名な『浮雲』は何度か観ていますが、それを含めて10本程度は観たはずですが、学生時代に並木座なんかで観たもので、それほど記憶に残っているわけでもありません。
 この本で取り上げられている作品の多くがなかなか観ることが出来ないというのもちょっと残念なことです。『おかあさん』などは著者がお気に入りの作品のようで、何度も触れられるのですが観る機会はなさそうです。
 それから「郊外農家の人びと」という回で取り上げられる『鰯雲』という作品には、とてもよかったというおぼろげな記憶があります。カラー作品でラストの鰯雲のシーンがとても素晴らしかったような気がするのですが、この作品ももう一度観るのは難しそう。ぜひともこうした作品もレンタル店あたりで気軽に観ることができるような環境になればいいと思うのですが……。

追記:you tubeでは『銀座化粧』がアップされていて今回初めて観ました。銀座の路地の雰囲気がとてもよくて、やっぱり貧乏くさいところはあるのだけれど、前向きで楽しい作品でした。ここでは脇役だけれど、『杏っ子』では主役を務めていた香川京子さんがここでもとても可憐でした。

成瀬巳喜男 THE MASTERWORKS 1 [DVD]


成瀬巳喜男 THE MASTERWORKS 2 [DVD]


スポンサーサイト



『奇跡を考える 科学と宗教』 モーゼは魔術師だったのか?

2015.02.08 18:28|その他
 著者の村上陽一郎は科学史家・科学哲学者。僕も学生時代の教科書か何かで、著者の文章を読んだことがあったような……。

奇跡を考える 科学と宗教 (講談社学術文庫)



 現在公開中の映画『エクソダス:神と王』は、モーゼを主人公とする映画です。有名な1956年の『十戒』と同様に、旧約聖書の「出エジプト記」が原作となっています。この『奇跡を考える』の導入部分でも「出エジプト記」でのエピソードが、「奇跡」を考える上での出発点となっています。
 モーゼは神の命令によりユダヤ人を解放させるために奇跡を行います。最初はエジプト王の前で杖をヘビに変えるのですが、エジプト王直属の魔術師が同じことをやってみせることになるわけで、「奇跡」「魔術」がどう違うのかというのが問題になるわけです(外見上は見分けがつかない)。

 この本の第1章では、プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、ケプラー、ベーコン、デカルト、ニュートンなどの考えを追いながら、西洋において「奇跡」というものが理性によって締め出されることになる過程を辿っていきます。
 第1章の最後に論じられるピエール・ベールの箇所では、「神の働きは、自分の創造した自然の内部に限定され、そこに閉じ込められた、言い換えれば、自然そのものでしかないような形でのみ、理解されることになった。」(p.109)とまとめられています。
 ちなみに『エクソダス』では、「10の奇跡」が描かれますが、それらは自然現象として説明されることになります。科学万能主義が支配的な現在からモーゼの物語を解釈すれば、そうならざるを得ないということなのかもしれません。たとえば紅海が真っ二つに割れる奇跡は、隕石の落下による引き波により海が渡れるようになったと説明されるわけです(そのあとは大津波がやってきて、追ってきたエジプト軍は飲み込まれるというスペクタクルが展開します)。

 神が自然そのものでしかないという理神論的な考え方の先に、「科学」というものが誕生することになるわけですが、科学史家である著者は決して「奇跡」を否定するものではないようです。第2章は「神の言葉・人間の言葉」と題されていますが、この章では「言葉」という側面から、宗教的な知識と自然科学の知識を比較していきます。
 スコラ学では「神は二つの書物を書いた」という言い方があるそうです。一つは「聖書」であり、もう一つは「自然」です。神は別の言葉で同じことを記しているわけで、それが「聖書」であり「自然」ということになります。しかし理神論的な考えのもとでは神は排除されることになり、「自然」と「聖書」とは別のものになっていきます。

神の言葉  

自然 ⇒ 自然の言葉(数学) ― 明証的
聖書 ⇒ 人間の言葉(通常の言葉) ― 多義的・象徴的


 そうなると「聖書に書かれていることは、多義的で、象徴的で、如何ようにも解釈できるから、信頼することができない。これに反し、自然の言葉は、人間の言葉のように多義性や象徴性を持たない「数学」であるから、それによって記述される自然の姿(科学的世界)は明証的で信頼がおける。」(p.136)ということなります。「奇跡」のように「数学」の言葉で書くことができない出来事は否定されることになるわけです。
 ただ間違ってはいけないのは、もともと科学が成立しているのは、科学が扱う範囲を限定しているからです。科学は数学で書けないような自然というものを、科学の扱う範囲ではないと決めているということです。だから「奇跡」という現象も科学の扱う範囲ではないだけの話で、「奇跡」が存在しないということにはなりません(ここで著者は『ルルドへの旅・祈り』という本を引用しています)。
 本当の「神の言葉」は人間にはわかりません。「神の言葉」を「人間の言葉」で何とか表現しようとするものの、それはやはり「あまりに人間的」なものにしかなりません。神は超越的な存在だからです。

超越者ではない人間が、ある場合に、超越を知り、超越を理解し、超越を信じる(それが人間の限界の内部での話であったとしても)ことがあり得る、ということこそ、真に「奇跡」というべきことなのではあるまいか。(p.156)