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『憲法の条件―戦後70年から考える』 希望的観測かもしれないが

2015.03.31 22:28|その他
 社会学者・大澤真幸と若手の憲法学者・木村草太との対談。

憲法の条件―戦後70年から考える (NHK出版新書 452)



 まず大澤は国がまともであるためには「法の支配」が絶対に必要な条件だとします。これはその国の権力の中枢にある人でさえも法には従わなければならないということです。これと逆なのが「人の支配」で、権力のトップにいる人の意思で社会をいかようにも動かせるような場合です。
 そして木村は法が法として機能するためには二つの条件があると言います。それは「固有名を使ってはいけない」ということと、「形式的な手続きによって成立する」ということです。具体的な誰か、たとえば「木村草太は借りたお金を返さなくていけない」では法とは言えないわけで、すべての人がその法の適用を受けるという可能性が開かれていなければならないからです。そして次の条件は、道徳的に問題がある法でも必要とされる手続きを経れば法になるということです。この「抽象性」「形式性」という2点が、法が法として機能するための不可欠な条件であり、こうした条件を満たす法が成立してはじめて「人の支配」ではなく「法の支配」が可能になります。

 こうした議論は、第4章で中心的に論じられることになる集団的自衛権が念頭におかれています。現政権がしていることはそうした条件をことごとく無視したものだからです。木村は「法解釈」の恐ろしさを危惧しています。法律はまず条文があって、それが何を定めたものなのか「解釈」し、「基準」を導きます。それを具体的な事案に「当てはめ(適用)」して、結論を出すという過程を経ます。こうした「解釈」「当てはめ」の場面では、人によって考え方の違いもあり「人の支配」が入り込んでくる余地が出てきます。まさに集団的自衛権においてもそうしたことがまかり通っているようです。
 木村によれば集団的自衛権を行使することは違憲であることは間違いないことのようです。しかも今回の解釈の仕方は集団的自衛権と言いながら、それを発動するのは日本が極度に危ないときだけに限定しているので、自分たちが危険なときだけ「集団的に自衛しよう」という奇妙な設定になっているのだそうです。そんな自分勝手な人とはあまり付き合いたくはないだろうと大澤は揶揄しています。

 法が法であるためには形式的な手続きを経ることが必要な条件であることが、この本では繰り返し論じられています。そうした手続きを経ることで、法の「内容」が他者の目によって精査されるからです。だから現政権や改憲派が集団的自衛権を行使したいのなら、そうした内容を含む条文を出して形式的な手続きを通過させればいいわけです(現政権がそれをしないのは、そうしたそれでは自分たちの思い通りにならないからなのでしょう)。また護憲派は反対するだけではなく、九条を保持する意志をはっきりと示すためにも、そうした内容を含む条文を形式な手続きにのせればいいわけです。
 大澤はアメリカの社会学者ロバート・ベラーの言葉を引いています。ベラーは、地球は世界大戦以降、もう戦争ができない状況になっていると言います。戦争をすることはもはや自滅でしかないわけで、大国同士が戦争するということはまずあり得ない。武器はもっているけれど、使わない限りで持っているのであって、長い目で見れば処分する方向に行くしかない。世界中がいずれ憲法九条をもつことになる。
 大澤はそうした「未来の他者」へ目を向けることを提案し、それが新たな物語をつくることになり、憲法に命を与えることができるのではと希望的な観測を語っています。多分、改憲派は理想論だと言うのでしょうが、僕は大澤のほうを信じたい気持ちです。世の中そんなに危なっかしい人ばかりじゃないはずでしょうし……。
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『友達・棒になった男』 こんな友達いらない……

2015.03.22 12:12|その他
 安部公房の代表的戯曲3編『友達』『棒になった男』『榎本武揚』を収録したもの(僕が買ったのは下のものと装丁が違いますが)。

友達・棒になった男 (新潮文庫)



 某サイトの知恵袋というコーナーでは、どこかの誰かが安部公房は「共同体からの逃亡の果てに、何が起こるのか」を追求したのだと書いています。たしかに『燃えつきた地図』『砂の女』なんかはそんな感じもあります。
 安部公房の戯曲のなかでも傑作とされる『友達』では、ある日突然、ひとり暮らしの男の家に9人の家族が闖入してくるという設定となっています。この戯曲では、主人公は共同体から逃げているわけではなく、単に気軽なひとり暮しで彼女との同棲なんかを夢見ていたわけですが、突然共同体のほうが突然部屋に押し入ってくるわけです。
 闖入してくる家族たちは孤独を悪いことだと考えています。「糸がちぎれた首飾り」は糸を結びなおして首飾りを元通りにしなければならないのと同じように、孤独な迷い子となり彷徨っている都会の若者には、彼らの善意という紐帯が必要だというわけです。
 みんなが友達になれれば素晴らしいことです。友達ができれば励ましあうこともできるわけですから。しかしここでのつながりは有無を言わせない強引なものであり、主人公は当然のごとく彼らを追い払おうとしますが人数に押し切られます。彼ら家族は隣人愛の精神から助け合うことを当然だと考え、部屋の主である主人公からの反論を許しません。何を言っても多数派である家族たちの言い分が通ることとなり、主人公はそんな家族たちに巻き込まれていくことになります。
 最後にはどういう意図かはわかりませんが、主人公は殺されてしまうことになるわけでなかなか不条理な作品となっています。主人公に毒を盛る次女は「さからいさえしなければ、私たちなんか、ただの世間にしかすぎなかったのに……(p.117)」などともらします。世間の側としては逆らわない従順な友達を求めているわけで、大多数の側が少数派の誰かを知らぬ間に殺しているという状況は不条理でも何でもなくよくあることと言えるのかもしれません。
 ただこの作品がそうした「共同体と個人の関係」だけを描いたものなのかどうかはよくわかりません。そんなふうにも読むことはできますが、それではあまりに作品を矮小化しているようにも思えます。たとえば『棒になった男』という作品では、デパート屋上から降ってくる棒が擬人化したように描かれます。この作品は「飛び降り自殺をした男」のことだとかも言われるようですが、それだけではないような気もします。また、同じ『棒になった男』のなかの一景「鞄」のなかの「鞄のなかに入った先祖」というイメージも何だかよくわからないのですが、妙に気になる感じもします。

『私の男』 父と娘、ふたりの愛の理由

2015.03.04 20:16|小説
 桜庭一樹の直木賞受賞作。
 先月DVDが発売された同名映画(主演は二階堂ふみ浅野忠信)がとても素晴らしかったので……。父と娘の愛というテーマはそれだけでかなりきわどいものです。しかも娘はまだ年端のいかない少女。映画では実際の役者が演じるわけで、当然のことながら色々な制約があって映像化できない部分が出てきます。原作小説ではどこまで踏み込んで書かれているのかが気になって手に取りました。

私の男 (文春文庫)



 映画版は花という少女が子供のころから始まり、その父である淳悟との関係の行く末を、順を追って描いていきます。一方で小説では、ふたりのあやしい関係がほのめかされ、過去の殺人などいくつかの謎が提示されます。そして時間を遡りながら謎を解き明かしつつ、ふたりがそうなるに至る原因を探っていきます。

第1章 2008年6月 花と、ふるいカメラ
第2章 2005年11月 美郎と、ふるい死体
第3章 2000年7月 淳悟と、あたらしい死体
第4章 2000年1月 花と、あたらしいカメラ
第5章 1996年3月 小町と、凪
第6章 1993年7月 花と、嵐


 小説『私の男』の章立てはこんなふうです。第3章は淳悟が一人称の語り手となっていくわけですが、「俺は」という一人称が使われるのは、ほかの章と比べるとかなり少ないですし、ましてや自分の内面について語りだすこともありません。
 そしてこの小説では美郎と小町という、花と淳悟以外の登場人物が一人称の語り手になっていることも重要かもしれません。ふたりだけの関係ならば――外部の社会など無視してしまえるのならば、近親相姦というものが悪いのか否かは自明のものではないからです。近親相姦のタブーはどこの社会でもあるそうですが、何が原因でタブーとされているのかは見解の一致をみないとも言われるそうです。
 だからふたりが好き好んでそうしているのならば、何も問題はないのかもしれません。ただ、ほかの人から見ればそうではありません。そんなわけでふたり以外の部外者の目によって、ふたりの関係の異常性が明らかにされます。かつて淳悟の恋人であった小町は、花を自分から淳悟を奪った憎むべき存在と考えますが、実は淳悟の闇を感じるに至り、花こそが被害者なのだと感じるようにもなります。映画よりは原作小説のほうが、淳悟の闇の部分は強調されていますが、それは時間を遡っていく小説の構成にもよるのでしょう。

映画版『私の男』 主演の二階堂ふみと浅野忠信はどちらも素晴らしかった。

 最後の章に描かれるような性愛描写は一般的には怖気をふるうものだろうとも思います。ただセックスはふたりにとってはひとつになることだとも強調されています。

わたしは自分を産んだ女の人とこのからだが、むかし、へその緒で一つに結ばれていたなんてなんだかぴんとこなかった。だけども自分とおとうさんとは、足のあいだから黒いおそろしい根が生えて、ひとつにつながっているように感じられた。(p.260)


 花は父・淳悟ともひとつになり、母親ともかつてひとつでした。花にとって淳悟は「私の男」であり、また淳悟にとって花は「俺のもの」であり、自分の血を受け継いだ「血の人形」でもあります。そして、淳悟は花に対して「おかあさん」とも呼びかけるわけで、ここではかなり倒錯的なあり方ではありますが家族という血の結びつきだけが支えになっています。
 もともと何か欠損していたからそうなってしまったのかもしれません。淳悟が抱えていた闇や孤独感といった何かが、この世にほかにいない血のつながった存在――たとえそれが娘であったとしても――それと決して離れたくないし、ひとつになりたいというちょっと普通ではない想いになるのかもしれません。最後に描かれるふたりの姿は暗いだけではないのですが、その原因を考えると何だか暗澹とした気分になります。

私の男 [DVD]