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『ヒッチコック』 ヒッチコックを読み解く楽しみ

2015.04.30 20:39|映画
 2010年に相次いで亡くなった映画監督のエリック・ロメールクロード・シャブロルの記したヒッチコック論。
 訳者は木村建哉小河原あや

ヒッチコック



 トリュフォーがヒッチコックにインタビューを試みた、有名な『定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー』では、トリュフォーは序文のなかでこの本を引用しています。

ヒッチコックは、全映画史の中で最も偉大な、形式の発明者の一人である。おそらくムルナウとエイゼンシュテインだけが、この点に関して彼との比較に耐える。(……)ここでは、形式は内容を飾るのではない。形式が内容を創造するのだ。ヒッチコックのすべてがこの定式に集約される。我々が証明したかったのはまさにこのことである。(p.187)


 逆に、この本の『疑惑の影』を論じた箇所では、ロメールとシャブロルはトリュフォーの分析を借りてきたりもしています。『カイエ・デュ・シネマ』誌上で繰り広げられたヒッチコックを巡る論争には、そのほかにもアンドレ・バザンゴダールジャック・リヴェットなども登場し、この本はそうした論争を踏まえたものになっているようです。
 前提となる議論に関しては訳注にも丁寧に触れられていますし、訳者の後書きの前に付されている小河原あやの論考「ヒッチコック、新たな波――ロメール&シャブロル『ヒッチコック』の成立状況とその影響」にも詳しく解説されています。

 そのほかこの本で強調されていることは、ヒッチコックにおけるキリスト教(カトリック)の影響ということです。ヒッチコックの映画では、無実の罪を着せられた男が逃亡を図りながら真犯人を追い詰めるといった物語がよくあります。こうしたことをこの本では「罪責の移動」という言葉で表現されています。
 『私は告白する』を論じた部分では、「ヒッチコック映画の中で、キリスト教的観念あるいは象徴によって多かれ少なかれ印づけられていないものはただ一つもない。〈摂理〉の概念が仄見えるように流れており、そして、『三十九夜』のハネイの聖書や『レベッカ』における船の唐突な発見といった点在するいくつかの印に具現されている。」(p.136)といったようにキリスト教神学の観点から論じられます。ほかにも哲学や文学からの引用も多く、難解な部分も多く、一度読めばすらすらわかるようなものではないことも確かです。
 それでもヒッチコックの作品を観たあとに、この『ヒッチコック』とトリュフォーの『映画術』とをそれぞれ読み比べてみるのは楽しいことだと思います。僕自身この本を読みながら、それまで観ていなかったヒッチコック作品『山羊座のもとに』『下宿人』『マンクスマン』『殺人!』などを観て、それからまた本に戻って様々な分析を読み直しました。
 この『ヒッチコック』の分析はアメリカ時代の『ロープ』から『間違えられた男』あたりが中心となっていますが、今回初めて鑑賞したサイレント作品『下宿人』はいかにもヒッチコック的なスリラーで、ヒッチコックが物語をビジュアルで語ることのできる類いまれな監督だということを感じさせてくれる映画でした。

定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー


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『自由という牢獄』 神が存在しなければ、すべてが許されない?

2015.04.29 21:17|社会学
 大澤真幸の自由論には『<自由>の条件』がありましたが、この『自由という牢獄』は、これまでに雑誌に発表した論文「自由の牢獄」「責任論」「〈公共性〉の条件」と、第4章の書き下ろしを含めたものになっています。

自由という牢獄――責任・公共性・資本主義



 1989年に冷戦が終結し、その後ほかの社会主義政権も軒並み倒れました。社会主義が求める「平等」よりも、資本主義が標榜する「自由」のほうがよかったということが明らかになったわけです。したがって「冷戦以降の社会科学と社会思想の最大の課題は、自由な社会はいかなる条件のもとで可能か、ということに集約されるはずだ」(p.6)と大澤は言います。そして自由であるがゆえに選択肢が多すぎて、どれを選ぶこともできなくなります。そんな状況について論じたのが第1章の「自由の牢獄」(この言葉自体はミヒャエル・エンデの短編から)です。
 第4章「不・自由を記述する赤インク」では、自由を資本主義との関連で検討していきます。ここで大澤は以前より拡大している格差の問題に関して、今、巷で売れているというトマ・ピケティの本(『21世紀の資本論』)を引いて論じています。
 「資本分配率>労働分配率」というのがピケティの本の要諦らしいのですが、資本分配率のほうが大きいと富裕層に有利に働くため格差は拡大していきます。大澤はこれをマルクスの「剰余価値」の議論へ結びつけ、さらに「形式への欲望(貨幣への欲望)」の過剰というものだと論じています。

 次に大澤は「市場による道徳の締め出し」と呼ばれる現象に注目します。これはマイケル・サンデルの本にも登場する、ある実験から導き出されたものです(大澤はここでサンデルの本の書評もしています)。かなり大雑把に要約すれば、ある有意義な目的のための寄付を行うとして、そのときあるグループは寄付の重要性を説かれて送り出され、別のグループは集めた寄付の金額に応じて金銭的報酬も出ると告げられます。
 常識的な理解によれば、金銭的なインセンティブがあるグループのほうが寄付をより多く集めそうですが、実験の結果はそうではありませんでした。無報酬のグループのほうがより多くの寄付を集めたのです。
 寄付を集めるのは崇高な行為です。これは行為そのものが目的となっています。しかしそれに金銭的なインセンティブという手段(金を稼ぐために寄付を集める)が加わってしまうと、崇高な目的であった寄付を集める行為そのものがうまくいかなくなってしまうのです。

 にもかかわらず市場では金銭的なインセンティブが優位になるのはなぜかと大澤は問います。ここで「自由」の問題が関わってきます。第1章にもあったように選択肢があまりに多い場合、それ自体が「目的」となるような行為を人は選ぶことができるのかということです。つまりは「自由の牢獄」というわけです。
 さらに大澤は『カラマーゾフの兄弟』のなかの「もし神が存在しなければ、すべてが許される」という有名なフレーズからヒントを得て、「自由」について論じています。伝統社会は「神が存在するがゆえに、(いくつかのことが)禁止されている」状態です。これをもとにして前件に「神の存在/不在」を置き、後件に「禁止/許容」を置くと三つの変異版ができます。

①神が存在しなければ、すべてが許される 
           (例:『カラマーゾフの兄弟』)
②神が存在するならば、すべてが許される 
           (例:オウム真理教)
③神が存在しなければ、すべてが許されない 
           (例:「自由の牢獄」、ひきこもり)

 どちらかと言えば③のようにひきこもりがちな人間として、こうした議論も何となくわからないでもないような気もします。

『不安の概念』 悪魔的なるものとは何か?

2015.04.20 00:51|宗教
 キルケゴールの著作。訳者(斎藤信治)の解説によれば、この本の「悪魔的なるもの」に関する記述は、『死に至る病』の考察につながるものを含んでいるとのこと。
 書かれていることは色々と引用したくなるような含蓄のあるものが多いと思いますが、正直に言うと、難解で歯が立たないという感じでもあります。僕はこの『不安の概念』に何度か目を通したのですが、全体を通すと一体どういうことなのかは判然とはしないような……。もちろん読者である僕の素養の問題が大きいのですが、もう一度読み返せばまた違ったものを感じるだろうし、他の人はまた違った読み方をするんじゃないかとも思います。以下に記すことは、個人的な覚え書きということになります。

不安の概念 (岩波文庫)



 緒 論
 第1章 不安が原罪の前提であり、同時にそれは原罪をその根源の方向に遡って解明するものである、ということ。
 第2章 原罪の結果としての不安
 第3章 罪の意識を欠いているということがそれ自身罪なのであるが、そういう罪の結果としての不安
 第4章 罪の不安、乃至は、個体における罪の結果としての不安
 第5章 救済の手段として、信仰と結びついている不安


 まず第1章では、無垢な人間がなぜ罪あるものとなるのかという点が論じられます。旧約聖書によれば、アダムの罪によって人間は楽園から追放されたことになっています。その前の人間という存在(というか、その前のアダムとイヴ)は善悪の区別を理解しません。したがって「ただ善悪を知るの樹の実は汝これを食うべからず」(創世記)という言葉すらも理解していません。食べるなと言われるものを食べてはいけないということもわからないからです。人間はそんな無垢な状態にありました。
 キルケゴールはそんな「無垢」という言葉を、「無知」とも言い換えています。そしてそのような状態のうちには、争うべき何ものもないわけで、平安と安息があるわけですが、それとともに「無」があるのだと言います。その「無」がどのように作用するかといえば、「不安」をつくりだします(「不安の無」という言葉が出てきますが、このことと同じ?)。こうした「不安」が原罪の前提であり、アダムの第一の罪を通じて罪はこの世に来たったのだと言います(ただ、この世に罪が入り込んでくるところには質的な飛躍があるとのこと)。そしてさらに「自由の可能性」と「不安」との関係についても示唆が与えられます。

 第4章の「悪に対する不安」「善に対する不安(悪魔的なるもの)」という部分は、抽象的に感じられ何度読んでもうまくつかめなかったところなのですが、勝手に自分なりに解釈するとこんなふうに思えました。
 まず「悪に対する不安」ですが、これはキリスト教を信じてはいても、たまに悪に魅入られるようなときがあり、これはそうした不安という意味ではないかと思います。このときの不安は、信教という無限の可能性が開かれているわけで、その人が自由である分まだマシなものです。
 一方で「善に対する不安(悪魔的なるもの)」とは、キリスト教の教えを信じようとはしないで自分のなかに閉じこもってしまっている不安です。こういう場合、その閉じこもっている人は自ら可能性を有限なものにしてしまっていて、聖書のなかでキリストが悪鬼に近づいたとき悪鬼が叫んだように「汝と我と何のかかわりあらんや」という状態にあります。善なるものが手を差し延べてもそれを拒絶してしまうのです。そうした閉じこもった人の「不安」は不自由なものだけにより性質が悪いということになります。
 僕は信仰心を持つわけではありませんが、自分で可能性を限られたものにして、かえって不自由になっているというのはわかるような気もします。とにかくまとまった感想が書けるほど理解に至っていないような感じで、また折に触れて読み返してみたいと思います。