『不安の概念』 悪魔的なるものとは何か?
2015.04.20 00:51|宗教|
キルケゴールの著作。訳者(斎藤信治)の解説によれば、この本の「悪魔的なるもの」に関する記述は、『死に至る病』の考察につながるものを含んでいるとのこと。
書かれていることは色々と引用したくなるような含蓄のあるものが多いと思いますが、正直に言うと、難解で歯が立たないという感じでもあります。僕はこの『不安の概念』に何度か目を通したのですが、全体を通すと一体どういうことなのかは判然とはしないような……。もちろん読者である僕の素養の問題が大きいのですが、もう一度読み返せばまた違ったものを感じるだろうし、他の人はまた違った読み方をするんじゃないかとも思います。以下に記すことは、個人的な覚え書きということになります。

まず第1章では、無垢な人間がなぜ罪あるものとなるのかという点が論じられます。旧約聖書によれば、アダムの罪によって人間は楽園から追放されたことになっています。その前の人間という存在(というか、その前のアダムとイヴ)は善悪の区別を理解しません。したがって「ただ善悪を知るの樹の実は汝これを食うべからず」(創世記)という言葉すらも理解していません。食べるなと言われるものを食べてはいけないということもわからないからです。人間はそんな無垢な状態にありました。
キルケゴールはそんな「無垢」という言葉を、「無知」とも言い換えています。そしてそのような状態のうちには、争うべき何ものもないわけで、平安と安息があるわけですが、それとともに「無」があるのだと言います。その「無」がどのように作用するかといえば、「不安」をつくりだします(「不安の無」という言葉が出てきますが、このことと同じ?)。こうした「不安」が原罪の前提であり、アダムの第一の罪を通じて罪はこの世に来たったのだと言います(ただ、この世に罪が入り込んでくるところには質的な飛躍があるとのこと)。そしてさらに「自由の可能性」と「不安」との関係についても示唆が与えられます。
第4章の「悪に対する不安」と「善に対する不安(悪魔的なるもの)」という部分は、抽象的に感じられ何度読んでもうまくつかめなかったところなのですが、勝手に自分なりに解釈するとこんなふうに思えました。
まず「悪に対する不安」ですが、これはキリスト教を信じてはいても、たまに悪に魅入られるようなときがあり、これはそうした不安という意味ではないかと思います。このときの不安は、信教という無限の可能性が開かれているわけで、その人が自由である分まだマシなものです。
一方で「善に対する不安(悪魔的なるもの)」とは、キリスト教の教えを信じようとはしないで自分のなかに閉じこもってしまっている不安です。こういう場合、その閉じこもっている人は自ら可能性を有限なものにしてしまっていて、聖書のなかでキリストが悪鬼に近づいたとき悪鬼が叫んだように「汝と我と何のかかわりあらんや」という状態にあります。善なるものが手を差し延べてもそれを拒絶してしまうのです。そうした閉じこもった人の「不安」は不自由なものだけにより性質が悪いということになります。
僕は信仰心を持つわけではありませんが、自分で可能性を限られたものにして、かえって不自由になっているというのはわかるような気もします。とにかくまとまった感想が書けるほど理解に至っていないような感じで、また折に触れて読み返してみたいと思います。
書かれていることは色々と引用したくなるような含蓄のあるものが多いと思いますが、正直に言うと、難解で歯が立たないという感じでもあります。僕はこの『不安の概念』に何度か目を通したのですが、全体を通すと一体どういうことなのかは判然とはしないような……。もちろん読者である僕の素養の問題が大きいのですが、もう一度読み返せばまた違ったものを感じるだろうし、他の人はまた違った読み方をするんじゃないかとも思います。以下に記すことは、個人的な覚え書きということになります。
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緒 論
第1章 不安が原罪の前提であり、同時にそれは原罪をその根源の方向に遡って解明するものである、ということ。
第2章 原罪の結果としての不安
第3章 罪の意識を欠いているということがそれ自身罪なのであるが、そういう罪の結果としての不安
第4章 罪の不安、乃至は、個体における罪の結果としての不安
第5章 救済の手段として、信仰と結びついている不安
まず第1章では、無垢な人間がなぜ罪あるものとなるのかという点が論じられます。旧約聖書によれば、アダムの罪によって人間は楽園から追放されたことになっています。その前の人間という存在(というか、その前のアダムとイヴ)は善悪の区別を理解しません。したがって「ただ善悪を知るの樹の実は汝これを食うべからず」(創世記)という言葉すらも理解していません。食べるなと言われるものを食べてはいけないということもわからないからです。人間はそんな無垢な状態にありました。
キルケゴールはそんな「無垢」という言葉を、「無知」とも言い換えています。そしてそのような状態のうちには、争うべき何ものもないわけで、平安と安息があるわけですが、それとともに「無」があるのだと言います。その「無」がどのように作用するかといえば、「不安」をつくりだします(「不安の無」という言葉が出てきますが、このことと同じ?)。こうした「不安」が原罪の前提であり、アダムの第一の罪を通じて罪はこの世に来たったのだと言います(ただ、この世に罪が入り込んでくるところには質的な飛躍があるとのこと)。そしてさらに「自由の可能性」と「不安」との関係についても示唆が与えられます。
第4章の「悪に対する不安」と「善に対する不安(悪魔的なるもの)」という部分は、抽象的に感じられ何度読んでもうまくつかめなかったところなのですが、勝手に自分なりに解釈するとこんなふうに思えました。
まず「悪に対する不安」ですが、これはキリスト教を信じてはいても、たまに悪に魅入られるようなときがあり、これはそうした不安という意味ではないかと思います。このときの不安は、信教という無限の可能性が開かれているわけで、その人が自由である分まだマシなものです。
一方で「善に対する不安(悪魔的なるもの)」とは、キリスト教の教えを信じようとはしないで自分のなかに閉じこもってしまっている不安です。こういう場合、その閉じこもっている人は自ら可能性を有限なものにしてしまっていて、聖書のなかでキリストが悪鬼に近づいたとき悪鬼が叫んだように「汝と我と何のかかわりあらんや」という状態にあります。善なるものが手を差し延べてもそれを拒絶してしまうのです。そうした閉じこもった人の「不安」は不自由なものだけにより性質が悪いということになります。
僕は信仰心を持つわけではありませんが、自分で可能性を限られたものにして、かえって不自由になっているというのはわかるような気もします。とにかくまとまった感想が書けるほど理解に至っていないような感じで、また折に触れて読み返してみたいと思います。
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