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『谷崎潤一郎と異国の言語』 「翻訳への欲望」という新たな視点

2015.05.31 22:37|文学
 前に取り上げた『映画とは何か』の翻訳者である野崎歓の谷崎潤一郎論。単行本は2003年に出たもので、先月文庫版が登場した。

谷崎潤一郎と異国の言語 (中公文庫)



 取り上げられる主な作品は「独探」「鶴唳」「ハッサン・カンの妖術」「人面疸」「卍」という5作品。「卍」を除くとあまり有名なものではないかもしれません。これは一般的には谷崎潤一郎の長い作家生活のなかではあまり注目されず、スランプなどとも言われる大正期の作品群が中心となっているからでしょう。
 僕は「潤一郎ラビリンス」というシリーズが刊行されたときにこれらの作品も一通り読んではいたのですが、ほとんど忘れていたのでいくつかは改めて読み直しました。そんな意味では谷崎作品の読書案内としても役に立つと思います。
 ごく個人的に「潤一郎ラビリンス」シリーズのなかで気に入っているのは、「天鵞絨の夢」(「潤一郎ラビリンス〈6〉異国綺談」)という作品です(竜宮城のような幻想的なイメージがとても好き)。

 著者は翻訳家として谷崎作品に新たな視点を導入しています。谷崎は東京生まれの東京育ちですが、この作品では「独探」はフランス、「鶴唳」は中国、「ハッサン・カンの妖術」はインド、「卍」では関西という、谷崎にとってのエキゾチシズムを感じさせるものが題材となっています。そうした異国や異国の言葉(関西弁も含め)が谷崎作品にとって重要な要素となっているわけです。また「人面疸」では映画が取り上げられますが、これは谷崎が映画という表現に注目して映画製作にも乗り出していたからで、谷崎にとっては映画も新たな言語として捉えられるからです。

 「卍」が初めて雑誌に登場したときは、現在読むことのできる形ではなかったとのことです。最初は標準語の語り口で描かれていたものが、連載を重ねるうちに関西弁の会話が増えていき、単行本として出版される際に書き直されて今のような形になったとのこと(これに関しては河野多惠子『谷崎文学と肯定の欲望』という評論あり)。
 著者が注意を促しているのは、最初に書かれた標準語の語り口の段階でも、すでに言文一致体という意味では翻訳を経ているということです。明治時代の言文一致運動によって、文語体は言文一致体へと変化してきましたが、谷崎はまだそれに不満を抱いていました(文末のヴァリエーションが貧弱なところ)。文語体から口語体という翻訳の意識と、それをさらに標準語(東京弁)から関西弁への翻訳をしているということで、そこには谷崎の「翻訳への欲望」(p.186)というものがあるのだと言います。
 谷崎の『文書読本』という本にも「文章とは何か」という章で、「現代文と古典文」「西洋の文章と日本の文章」という部分がありますし、『源氏物語』は生涯三度に渡って現代語訳をしたわけで、「翻訳への欲望」という新たな視点には納得させられる部分があると思います。

潤一郎ラビリンス〈6〉異国綺談 (中公文庫)


潤一郎ラビリンス〈11〉銀幕の彼方 (中公文庫)


潤一郎ラビリンス〈12〉神と人との間 (中公文庫)


谷崎文学と肯定の欲望 (1980年) (中公文庫)


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『ビートルズを聴こう』 彼らの曲と一緒に何度も読み返したい

2015.05.30 12:28|音楽
 副題に「公式録音全213曲完全ガイド」とあるように、ビートルズの曲のすべてについて語る本です。

ビートルズを聴こう - 公式録音全213曲完全ガイド (中公文庫)



 『ビートルズを聴こう』と謳っていますし、表紙には「Ticket to The Beatles」と記されていますが、ビートルズ入門篇というわけではなく、それなりにビートルズを知っている人向けの本であると思います。僕はリアルタイムで聴いた世代ではありませんが、若いときに洋楽を聴くようになるきっかけがビートルズでした。最近はさすがにちょっとご無沙汰していたところもあるのですが、ちょうどこの本が出たころポール・マッカートニーが来日したこともあり、ライヴに向けて全アルバムをおさらいしていたこともあって、この本に目が留まりました。
 著者のことなど何も知らずに読み始めると、ジョンのボーカルに「失神寸前」などとあって、里中という人物を女性ファンかと勘違いしてしまいました。里中哲彦は翻訳などをしている1959年生まれのおじさんでした。対談相手の遠山修司は1970年生まれのロック研究家だとか。
 この本はふたりの対談形式になっていて、それぞれの曲に対して1ページ程度の解説が加えられます。この分量がちょうどいい感じで、1曲1曲に耳を澄ましながら聴くのにぴったりです。だから読み始める(聴き始める)とどうにもやめられなくなって、寝る前にベッドのなかで読み始めたら次の日は寝不足になります。

 ビートルズの解説本は多いようです。昔、何かで読んだ知識では、たとえば「I Feel Fine」の冒頭の音は電気系統のトラブルだとされていましたが、現在では意識的につくられたものだとわかっているとのこと(p.297)。それからアルバム『Help!』のジャケット写真は手旗信号でそのスペルを表現したとされていましたが、これも間違いだったらしい(p.94)。ビートルズに関する研究みたいな趣きもあります。
 そのほかにもビートルズが革新的だった部分、1曲1曲の聴きどころ、コーラスグループとしての魅力とか、様々の情報が詰め込まれています。知らなかったことや解説を読んで発見した部分も数多くあります。ポールの曲「What You're Doing」はあまり注目したことがなかった曲ですが、妙に気になる曲になりました。
 里中氏はジョン・レノンが大好きなようで、ジョンに対する評価は高く、「Twist and Shout」には「圧巻です。ジョンの比類なき声。天下無双にして空前絶後。声それ自体に、こぼれるような魅力がある。生意気で、荒々しくて、セクシー。かつ説得力もある。」(p.30)と手放しの褒めっぷりです。こうした部分も同感ですが、遠山氏はとても冷静に知識を披露しつつも、『ABBEEY ROAD』のB面の解説では「ポールのやる気と創造力がなかったら、ビートルズは『サージェント・ペパー』のあとで解散していたというのは間違いのないところ。そしてリーダー・シップを発揮するポールは、メンバーから辛辣な言葉を浴びせかけられた。ですが、ポールが傷つきながらも楽曲づくりに励んだという事実はやすやすと忘れられてしまった。」(p.249-250)と語っています。このあたりはポールのメドレーを聴きながらだと涙を禁じえません。
 実はこの本の前にはこのふたりの著者による『ビートルズの真実』という本も出ているようです。そちらもぜひ読んでみようと思います。

『映画とは何か』 アンドレ・バザンの考える映画のリアリズム

2015.05.24 19:57|映画
 『カイエ・デュ・シネマ』を創刊したアンドレ・バザンによる映画批評集。翻訳は野崎歓大原宣久谷本道昭

映画とは何か(上) (岩波文庫)


映画とは何か(下) (岩波文庫)



 翻訳者がバザンの独創と解説するのは、「十九世紀の写真術発明以来、写真の弱点をみなされがちだったその機械的性格のうちにこそ、芸術史上、類例のない重要さがあると正面から主張したこと」(下巻 p.266)だと言います。
 エジプトのミイラは王が永遠の命を保つためのものでした。肉体の永続が死後の生を保証するものと考えられていたからです。しかし、そうした願望はエジプト王だけでなく、誰もが抱くものでしょう。さすがに永遠の命は無理だとしても、誰かの思い出を記録するとしたら、肖像画よりは写真のほうがリアルなものとして感じられます。そして写真よりも映像(映画)のほうがよりリアルなものとして感じられるでしょう。
 バザンは映画のリアリズムを「死にあらがい、時間の破壊作用に抗して、今ある現実の姿をそのままに留めたいという、人間の根源的な「リアリズム」への欲望をかなえるものとしてとらえる」(下巻 p.266)ものと考えます。

 写真はその瞬間性ゆえに、一瞬の時間しかとらえることができず、その意味では不完全な技術だ。対象の時間を型取りしつつ、さらにその持続の痕跡までもつかみ取るという異様なパラドックスを実現したのが映画なのである。(上巻 p.251)


 この本の上巻には絵画・写真・演劇・小説などと映画との関係が論じられます。それぞれの分野にはそれぞれの特性があるわけで、誕生としては一番遅い(若い)芸術である映画がそれらの先行芸術から学ぶところや独自なところなどを論じていて、とても興味深いものがあります。

 「映画言語の進化」という論考では、オーソン・ウェルズ『市民ケーン』の革新的な部分を論じています。それまでのモンタージュでは、映像が示す意味は限定的なものとなります(「禁じられたモンタージュ」という論考はとても明解)。
 たとえば「男の顔」が「死んだ子供」の映像と結び付けられたならば、その男の表情は悲しみを湛えたものとして理解されます。代わりに「男の顔」が「肉感的な女性の裸」の映像と組み合わせられれば、その表情から性的欲望を感じるでしょう。
 しかし現実には曖昧さがあります。『市民ケーン』は「画面の深さ」を利用します。妻スーザンの自殺未遂の場面では、画面手前に薬のビンがあり、中心には倒れたスーザンがいて、奥にはそれを発見するケーンが、ワンショットで描かれています。そのすべてに焦点が合っているため、観客はそのどこに目をやってもいいわけで、バザンは言うには映画のイメージの構造の中に曖昧さを導入したということになります。これも新たなリアリズムの形態です。
 またこうした動きと時代的に並行してあったのがイタリアのネオリアリズモで、この本の下巻の大部分はロベルト・ロッセリーニヴィットリオ・デ・シーカを擁護する文章で占められています。デ・シーカ『自転車泥棒』は、僕は昔テレビで観て、単純にいい話だと感動した記憶がありますが、映画史のなかで読み解くバザンの批評は読み応えがあります。
 こうしたバザンの活躍が『カイエ・デュ・シネマ』のグループを中心とした批評家たちの活躍につながるわけで、前回とりあげたロメールシャブロル『ヒッチコック』を生み出し、ヌーヴェル・ヴァーグへも結びついていきます。なぜ今までこの本の翻訳が絶版となっていたか不思議な感じもします。