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『レジナルド』 表紙のそれはエレキングではないらしい

2015.06.30 23:38|小説
 イギリスの小説家サキの短編集。
 翻訳は井伊順彦今村楯夫ほか。

レジナルド (サキ・コレクション)



 かなり昔に友達に借りたサキの短編集のなかでとても印象に残っていたのが、「開いた窓」という短編でした。幽霊の姿が迫ってくるような感覚があって怖かった、そんな印象ばかりが残っていて、詳細は忘れていたのですが、この短編集も表紙デザインのおどろおどろしい感じから、化け物が登場するような話かと思ってしまいました。
 実際は皮肉屋の青年レジナルドを主人公とする作品集で、化け物などはまったく登場しません。「生きとし生けるものすべてを馬鹿にする」(p.56)とか、「ニーチェの読みすぎで、倫理観を崩してしまったみたい」(p.42)などと評されるレジナルドは、まだ若い二枚目らしく、パーティなどに連れて行くと喜ばれるような人物ですが、彼が皮肉っぽく様々なものを斬っていきます。
 イギリス上流階級の生活は知りませんが、園遊会とか王立芸術院などと聞くとやはり退屈そうに感じられ、そんなあれこれをイギリス流のユーモアも交えて論評します。筋らしい筋はありませんが、レジナルドの悪罵を聞いているのはなかなか楽しいものでした。

 「レジナルドと陥りやすい罪――真実を言う女」という一編が気に入りました。レジナルドが一人語りで“真実を言う女”について語り出します。特定の誰かに向けて語っているような語り口もいい。
 “真実を言う女”は真実を言うことによって、「かならずや起こるだろうと予見していた、世にも恐ろしいこと」(p.100)に遭遇します。それは彼女の料理人が出て行ってしまったということ……。そんなことが“世にも恐ろしいこと”になるという上流階級の生活は、さぞかし退屈なものなんだろうと推察されます。

 それにしても池田俊彦という銅版画家の作品は何とも言えず不気味で、それでいて妙に愛らしい。この短編集にはその作品がいくつも収められています。作品と関係があるとは思えませんが、雰囲気は外していないような気もします。

池田俊彦の版画

 追記:似たようなテイストの『クローヴィス物語』もよかったです。このなかに「フィルボイド・スタッジ—ネズミの助っ人」という一編があり、“フィルボイド・スタッジ”という名前はどこかで聞いたようなと思ったら、ヴォネガット『チャンピオンたちの朝食』の架空の作者の名前だとか。それ以外の本のどこかでも見たような気がして、そこでは翻訳者の方が語感のおもしろさからこの名前を付けたのかと推察していたような気がするのですが、それが何の本だかは思い出せませんでした。ちょっと気になる名前なんですが……。

クローヴィス物語 (白水Uブックス)



サキ短編集 (新潮文庫)



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『死者との邂逅 西欧文学は死をどうとらえたか』 ラムジー夫人の死の場面でウルフが意識していたのは?

2015.06.28 15:26|文学
 著者は専修大学文学部の教授とのこと。これまでの研究の成果を素人にもわかりやすく解説してくれています。

死者との邂逅――西欧文学は死をどうとらえたか



三たび、そんなふうに、弟は手を差し伸べようとした。
だけど、そんな仕草に慣れていなかったので、
三たびとも手は下ろされて元の位置に戻り、
そのまま脇から動かなかった。


 序文に引用されている印象的な詩です。この詩のイメージがこの本の通奏低音のようになっているようにも思えます。これはバーナード・オドナヒューという人の「テル・コナートゥス(三たび試みて)」という詩ですが、この題名がラテン語なのは、この詩が古代ローマの詩人ウェルギリウス『アエネーイス』を踏まえているからです(実はその『アエネーイス』もさらに前のホメロス『オデュッセイア』を模倣したもの)。
 『オデュッセイア』や『アエネーイス』は、冥界で愛する人と遭遇し、愛しさゆえに抱擁しようとすると、その腕は愛する人の身体をすり抜けてしまいます。バーナード・オドナヒューの詩は、現代の農村が舞台で、共に酪農を営む姉弟の死別が描かれます。病に蝕まれていく姉に弟は手を貸そうと三たび試みるわけですが、「そんな仕草に慣れていなかったので」手を引っ込めてしまうという情景が悔恨の念を誘います。
 『オデュッセイア』や『アエネーイス』の場合は生者と死者の邂逅の場面ですが、「テル・コナートゥス」の場合は死別する前の場面です。著者は「現代においてはもはや、生きて肉体を備えた者同士でしかコミュニケーションは成り立たないことを示している」(p.8)と言います。この本は西欧文学史のなかに繰り返し登場する死別の場面に注目して、それぞれの時代の死生観の違いを考察したものです。

 取り上げられる作品は、古代・中世ではダンテの『神曲』やボッカッチョ、近代では『ハムレット』『クリスマス・キャロル』、現代ではウルフ『灯台へ』やジョイスやプルーストなどです。
 『オデュッセイア』の時代には死後の世界は存在するものの、「死者は等しく空しい存在となる」(p.19)と考えられていたようです。『アエネーイス』や『神曲』の時代には冥界がもっと具体的なイメージで描かれているように思えます。特に中世のカトリックの教えである煉獄というものの存在がそうです。著者によれば、煉獄の特徴は「現世との結びつきの強さ」にあり、「現世の人々の助力により、浄罪の期間を短縮されたり、その苦痛を軽減されたりすると考えられ、それゆえ死者は生者とひとつの聖なる共同体をなしているとされた」(p.108)のだとか。
 それが近代の『ハムレット』のころになると、変わってくるようです。ハムレットの前に姿を現す亡霊は煉獄から出現するものとされていましたが、宗教改革を経てイギリスではカトリックの教えである煉獄の存在も否定されます。そうなると最後の審判が下るまでは、「眠っている」という考え方も登場します。

生か死か、それが問題だ。
どちらが気高いと言えようか、
心のなかで、暴虐な運命の投石や矢にじっと耐えることか、
押し寄せる苦難に武器をとって
立ち向かい、けりをつけることか。死ぬ――眠る、
それだけのことだ。
(中略)
眠る、おそらくは夢を見る――そこだ、つまずくのは。
この世のしがらみを脱ぎ捨てても
死の眠りのなかでどんな夢を見るかわからない。


 こんなふうにハムレットにとっては死後の世界は明確ではありません。来世は「未知の国」となったというわけです。『ハムレット』は主人公の死で終わります。死後の世界への言及はほとんどありません。中世においては、死後魂が救われるかどうかが問題だったと言いますが、近代では死そのものが悲劇的と捉えられるようになったようです。著者は「死の終局性によって、近代悲劇は誕生した」(p.130)と記しています。

 さらに現代のヴァージニア・ウルフ『灯台へ』では、来世そのものがないような世界観になっていきます。『灯台へ』のラムジー夫妻はウルフの父と母がモデルとなっています。父レズリーは不可知論者として死者の復活に慰めを見出したりせず、その悲しみを引き受けることを潔しとしました(これは逆に言えば、復活に慰めを見出さない分、死別のショックともろに向き合うことにもなったようです)。
 この時代は、ダーウィン『種の起源』も登場するなどして、神がすべてを創世したとか、死者の復活を素朴に信じられるほど人々も無知蒙昧でなかったわけですが、一方で様々な病を根絶するほど医療が進歩していたわけではありません。その分、抵抗力のない子供たちは簡単に死んでいくような時代だったわけで、不可知論者として生きていくことはきついことだったと思われます。ウルフが創造したラムジー夫人も不可知論者として、何げない日常の家族の交流の瞬間に永遠性を見出すほかありません。
 僕は『灯台へ』が好きで何度か読んでいるのですが、現代のわれわれもそうした死生観のなかにいるわけで、共感させられる部分があるのかもしれません。ちなみに著者によれば、ラムジー夫人の死の場面や、ラムジーが三たび靴ひもを結び直すという場面に『アエネーイス』の影響が見られるということです。登場人物がウェルギリウスを読んでいるあたりにも仄めかされているわけで、なるほどと納得させられました。著者・道家英穂氏の20年来の成果とのことで学ぶことの多い本だと思います。

灯台へ (岩波文庫)


『ビートルズの真実』 あっという間に読んでしまう550ページ

2015.06.09 23:24|音楽
 『ビートルズを聴こう』の著者コンビ(里中哲彦遠山修司)の本。

ビートルズの真実 (中公文庫)



 ビートルズ結成に至るまでの4人それぞれの生い立ちから始まって、ビートルズとしての成功と解散、さらにその後の4人のソロ活動までを辿っていきます。とにかくかなり細かい部分まで調べ上げられています。里中氏は遠山氏に対して「ビートルズ以上にビートルズに詳しい」みたいなことも言っていますが、たしかにキャヴァーン・クラブの階段が何段だったかなんてビートルズのメンバーは気にしたこともないと思いますが、この『ビートルズの真実』にはそんなことも書かれています。
 巻末には参考文献が色々と挙げられていて、そこからの引用も多いようです。僕はそのほかのビートルズ本を読み漁るほど熱狂的なファンとは言えませんのでよくわかりませんが、もしかするとこの本のなかで初めて明らかにされるものは少ないのかもしれません(僕自身は初めて知ることもかなり多かったですが)。参考文献に挙げられている『ポール・マッカートニー―メニー・イヤーズ・フロム・ナウ』を今少しずつ読んでいますが、ここから引用されている部分も多いようです。
 ただポールの本は800ページというボリュームなので、よほどのファンでなければという印象もあります(ただこの本にはジョンの曲だとされてきた「In My Life」に関して、それを否定するようなポールの言葉があるのだとか)。一方で『ビートルズの真実』は、著者のふたりが4人の評伝や雑誌のインタビューに至るまでかなり網羅的に参考にして、おもしろい部分をまとめ上げているのだろうと思います(なかにはかなり細かい部分もありますが)。加えて対談形式であってふたりの掛け合いで進んでいくところがこの本を読みやすくしています。

 『ビートルズを聴こう』を読んで、あまり市場に出回っていないという映画『Let It Be』をネットの動画サイトで観ていたのですが、4人の関係が寒々しい感じで寂しい限りでした(ポールとリンゴがピアノを連弾するあたりは楽しいけど)。それでも『ビートルズの真実』を読むと、解散後の70年代後半にはポールがニューヨークのジョンの住むダゴタ・ハウスに度々訪れて、突然やってくるポールにジョンがあきれたなんてエピソードもあって、何だか妙に嬉しくなったりもしました。ポールの『ラム』ジョンの『イマジン』での中傷合戦と言われているものも、著者たちによれば世間が勝手にそう見ているだけで、本人たちはからかいあっているだけなんだとか。
 それから『ビートルズを聴こう』ではジョージに対しては結構辛辣な部分がありました(シタールに走ったのがまずかったとか色々と)。それでも『ビートルズの真実』では、ジョージがボブ・ディランたちと組んだトラヴェリング・ウィルベリーズ「Handle With Care」が傑作として挙げられていたりもします。多分、僕がリアルタイムでビートルズのメンバーの曲を聞いたのはこの曲でした(ロイ・オービソントム・ペティを知ったのも)。そんな意味でも懐かしさも感じました。(追記:よく考えたらその前に「Got My Mind Set On You」がありました。これもジョージです。)
 シリーズ2冊を読んでの感想ですが、ビートルズはやはりミュージシャンですから、その人となりよりも音楽自体に魅力を感じますから、曲そのものに関して論じている『ビートルズを聴こう』のほうがおもしろかったし、何度も読み返したくなる要素があると思います。



ポール・マッカートニー―メニー・イヤーズ・フロム・ナウ