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『アンドレ・バザン 映画を信じた男』 映画批評はつらいよ?

2015.07.31 23:58|映画
 バザンの映画評論集『映画とは何か』の翻訳者である野崎歓が、アンドレ・バザンについて論じた文章を中心にした1冊。

アンドレ・バザン:映画を信じた男



 ちょっと前に取り上げた『映画とは何か』でアンドレ・バザンが繰り広げた映画批評という営み、それらはひとつひとつ重要なものだと思いますが、その批評が生まれてくることとなった周辺の事情に関しては現在の読者としては不案内です。バザン本人が詳しく説明するわけではないために、なぜそうした批評の言葉が選ばれているのかわかりにくい部分もあります。
 第二次大戦後のフランスでは「レクラム・フランセ」という雑誌が映画ジャーナリズムにおいては重要な位置を占めていたようです。サルトルなども文章を寄稿していたというこうした雑誌などで様々な映画批評が繰り広げられ、それはのちに「カイエ・デュ・シネマ」につながってもいくようです。
 そうした時代の流れがあり、業界の空気のようなものも存在したのだろうと思います。たとえば当時『市民ケーン』はフランスでは古い批評家たちに貶されていたようです。昔のサイレント作品のほうがもっと素晴らしいものがあったというような文脈で……。だからその頃『市民ケーン』褒めることは映画批評家としての立場を危うくするものでした。「『市民ケーン』の弁護は自らの評判を落としかねない、勇敢なとさえいうべき企て」(p.22)だったと言います。それでもバザンはそれをやってのけました。
 今では『市民ケーン』を褒めることは当たり前すぎることですが、当時のフランスでは違ったようです。この本はバザンの映画論『映画とは何か』を読むだけではわからない空白の部分を補うようにも読める本となっています。ただ『映画とは何か』の新訳と同時期に、この『アンドレ・バザン 映画を信じた男』が本としてまとめられたのは偶然だったようですが……。

 新作映画を時評していくという作業は、映画評論家としては怖いものなのかもしれません。その新作がその後どんなふうに評価されるのかもわからないままに、自分の信じる評価を示さなければならないわけですから。よくある映画のベスト10なんかですら、評者のセンスが問われるような部分があるわけで、時評家としてはその時代に総スカンを喰らっている作品を擁護するというのはやはり勇敢なことだったのだろうと思います。
 バザンが映画批評の世界にもたらした影響がどのようなものなのかはよくわかりませんが、たとえばロッセリーニの映画についての評言で、「大事なのは証明することではなく、ただ示すことなのである」(p.72)といった言い方はどこかで聞いたような批評の言葉にも思えました。もしかするとそれはバザンの影響だったのかもしれません。
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『オオカミ少女はいなかった』 心理学におけるガラクタ掃除

2015.07.27 00:14|その他
 心理学は何となく胡散臭いものと感じられるところがあります。実際は否定されているにも関わらず何度も甦ってくる「神話」みたいなものがたくさんあるからです。この本は当の心理学者(鈴木光太郎)がそんなガラクタ掃除を試みたものです。
 軽い読み物ふうの題名となっていますが、中身は学術書寄りの部分もあるのかもしれません。参考文献が多数挙げられていますし、原典を当たることが大切だということを何度も述べていますし……。

増補 オオカミ少女はいなかった: スキャンダラスな心理学 (ちくま文庫)


  僕は「サブリミナル効果」に関しては、不勉強もあって何となくそんな効果があるものと信じていたのですが、どうやら実験自体があやしいものとのこと。ただ、マス・メディアが騒ぎ出して自主規制なんかに走ったりしたものだから、その効果を確認する方向には進まずに、危なっかしい「神話」みたいなものになってしまったようです。一度火がつくとそれを消そうと思っても如何ともしがたくなってしまうようです。
 ただ、そうした「神話」も人々の直観にはまっているからというところもあります。たとえば「なぜ母親は赤ちゃんを左胸で抱くか」という部分では、母親の約8割が赤ちゃんを左胸に抱くという事実に関して触れられています。絵画の聖母子像などを調べても約8割が左胸に赤ちゃんを抱いているそうです(僕はそれすら知りませんでしたが)。こうした事実に関してソークという心理学者が唱えた説は「心音説」というものです。赤ちゃんは胎内で心臓の音を聴いていたから、生まれてからも心臓に近い位置に頭を持っていきたがるというものです。
 これは厳密に言えば実験等で確認できた説ではないということですが、何となく直観的には腑に落ちるものがあるからか、未だに俗説としては広まっているようです。人が感じる直観もあてになる場合とそうでない場合があるのかもしれません。この本のなかでは「なぜ母親は赤ちゃんを左胸で抱くか」ということに対する答えは出ていません。未だ信用に足るような答えを心理学やそのほかの学問も出せていないのです。
 そのほかの題材もその説の胡散臭さに関しては示されますが、はっきりとした答えが提示されるわけではないところが学問的な厳密さということなのかもしれません。有名な「オオカミ少女」の話に関しても、かなり捏造が入っているようですが、真相はあくまでも推測で語られるくらいで、読み物としてはモヤモヤ感が残るかもしれません。

 第8章は心理学の世界では有名なジョン・ワトソンの話になっています。ワトソンについては、学生時代に心理学の授業で習いました。僕の通っていた大学は行動主義心理学の先生が多かったようで、ワトソンの名前も何となく聞き覚えていました。彼は行動主義心理学の始祖とされ、アメリカの心理学学会の会長も務めた人物です。心理学の教科書には必ず彼の名前が載っています。しかし、そんなワトソンもその後は色々とあったらしく、学生との不倫といったスキャンダルもあって、42歳で学会を去ることになったようです。その後のワトソンが広告業界でも成功していたという事実は、この本の主旨とはズレますが「人生いろいろ」といった感じでおもしろいエピソードでした。

『親鸞 往還廻向論の社会学』 親鸞に関する論点整理に

2015.07.23 21:48|宗教
 著者の八木晃介は新聞記者だった人で、部落問題など反差別論を専門にしているとのこと。



 この本はテーマごとに親鸞の思想を論じていきますが、どれもが現代の問題と絡めて論じられています。著者が新聞記者だったからなのかもしれません。テーマに関しても賛否が分かれる場合、その両論を丹念に追っているのもその影響なのかもしれません。親鸞の文献は当然ですが、専門的な文献まで参考にされていますし、それらを細かく整理してかなりの分量が引用されます。親鸞の主著とされる『教行信証』がそれまでの経典などからの「引用の集大成」として出来上がっているからなのかもしれません。
 僕自身は親鸞については吉本隆明の本を通して学んだだけの素人ですが、著者の八木氏はそんな吉本の親鸞論に対しては批判的です。それは吉本の視点に違和感を覚えているからでしょう。たとえば『最後の親鸞』では吉本はこんなふうに記しています。

 〈知識〉にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに〈非知〉に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。 (『最後の親鸞』 ちくま学芸文庫 p.15より)


 吉本自身はそんなつもりはなくても、やはり知識人として大衆を導くような振舞いにも見えます。吉本は同じ本で「〈衆生〉は、専修念仏によって釣り上げるべき与しやすい存在でもなかった」などと記していて、こうした表現に著者はかなり辟易しているようです。反差別論の著作も多い八木氏からすれば、もってのほかというところなのだろうと思います。八木氏からすれば、親鸞は「具縛の凡愚・屠沽の下類」などと呼ばれる衆生と触れ合うことでその思想を深化させてきたということになるわけで、〈知〉を極め〈非知〉に向かって着地するという吉本の見方はまったくの正反対なわけです。

 それから吉本が引用ばかりの『教行信証』ではなく、弟子・唯円の聞き書きである『歎異抄』などを重視するのに対し、八木氏は親鸞の考えと唯円の考えを厳密に弁別して捉えようとしています。八木氏は、聞き書きはインタビュアーの視点が大きく影響するとして、唯円が聞き書きしたとされる『歎異抄』に関しては批判的です。
 そして、特に問題があると著者が考えるのは、『歎異抄』の第十三章です。著者が要約した大意をちょっとだけ引用すれば次のようになります。

 弥陀の本願は不思議にも全衆生を救済してくださる、とそう言って悪を恐れないのは本願ぼこりなので往生が不可能であるということ自体、本願を疑っていることであり、善悪の宿業を理解していないことである。よい心がおこるのも宿業が起因するからであり、悪事をおもうのも悪業のはからいである。故親鸞聖人の仰せによれば、兎や羊の毛の先につく塵ほどの罪も宿業によらぬものはないと知るべきだ、と。(p.330)


 「悪人正機説」とは、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という有名な言葉にあるように、善人よりも悪人こそが阿弥陀仏の本願により救済されるという考えです。そうするとわざわざ悪事を働こうとする者も出てきます。それは「本願ぼこり」もしくは「造悪無碍(造悪は往生の妨げにはならないという考え)」と言って非難されるわけです。しかし上記の文章では、その非難自体がさらに否定されています。最終的に「本願ぼこり=造悪無碍」は肯定され、悪事を働くことが推奨されるような形になっていると著者は解釈しています。
 この文章で「宿業」という言葉が使われているところにも問題があるようです。「宿業」とは過去生の業が現在の生を決定するということですが、親鸞には「業」という考えはあっても「宿業」という考えはなかったようです。「宿業」が持ち出されると、たとえば差別されるような立場にある者の生も、過去の業の結果として肯定されることになってしまうからです。
 また、著者は親鸞の「造悪無碍」に対する態度は曖昧だと言います。肯定的なときもあるし、否定的なときもあるようです。それを著者は、親鸞には二種の「造悪無碍」があると解釈してみせます。一つは権力に反対するような「造反有理」的なものであり、もう一つは盗みや殺しのような「放逸無慚(勝手気まま)」なレベルのものです。親鸞は前者のみを肯定的に捉えますが、唯円は後者まで含めてすべての「造悪無碍」までも肯定しているわけで、それは間違いだというのが著者の独自の論点になるのだろうと思います。
 親鸞の思想がテーマごとに様々な文献が引用され、素人にはかなり手ごわい内容ですが、色々な論点が整理されている部分があって読み応えがありました。

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)