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『親鸞 往還廻向論の社会学』 親鸞に関する論点整理に

2015.07.23 21:48|宗教
 著者の八木晃介は新聞記者だった人で、部落問題など反差別論を専門にしているとのこと。



 この本はテーマごとに親鸞の思想を論じていきますが、どれもが現代の問題と絡めて論じられています。著者が新聞記者だったからなのかもしれません。テーマに関しても賛否が分かれる場合、その両論を丹念に追っているのもその影響なのかもしれません。親鸞の文献は当然ですが、専門的な文献まで参考にされていますし、それらを細かく整理してかなりの分量が引用されます。親鸞の主著とされる『教行信証』がそれまでの経典などからの「引用の集大成」として出来上がっているからなのかもしれません。
 僕自身は親鸞については吉本隆明の本を通して学んだだけの素人ですが、著者の八木氏はそんな吉本の親鸞論に対しては批判的です。それは吉本の視点に違和感を覚えているからでしょう。たとえば『最後の親鸞』では吉本はこんなふうに記しています。

 〈知識〉にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに〈非知〉に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。 (『最後の親鸞』 ちくま学芸文庫 p.15より)


 吉本自身はそんなつもりはなくても、やはり知識人として大衆を導くような振舞いにも見えます。吉本は同じ本で「〈衆生〉は、専修念仏によって釣り上げるべき与しやすい存在でもなかった」などと記していて、こうした表現に著者はかなり辟易しているようです。反差別論の著作も多い八木氏からすれば、もってのほかというところなのだろうと思います。八木氏からすれば、親鸞は「具縛の凡愚・屠沽の下類」などと呼ばれる衆生と触れ合うことでその思想を深化させてきたということになるわけで、〈知〉を極め〈非知〉に向かって着地するという吉本の見方はまったくの正反対なわけです。

 それから吉本が引用ばかりの『教行信証』ではなく、弟子・唯円の聞き書きである『歎異抄』などを重視するのに対し、八木氏は親鸞の考えと唯円の考えを厳密に弁別して捉えようとしています。八木氏は、聞き書きはインタビュアーの視点が大きく影響するとして、唯円が聞き書きしたとされる『歎異抄』に関しては批判的です。
 そして、特に問題があると著者が考えるのは、『歎異抄』の第十三章です。著者が要約した大意をちょっとだけ引用すれば次のようになります。

 弥陀の本願は不思議にも全衆生を救済してくださる、とそう言って悪を恐れないのは本願ぼこりなので往生が不可能であるということ自体、本願を疑っていることであり、善悪の宿業を理解していないことである。よい心がおこるのも宿業が起因するからであり、悪事をおもうのも悪業のはからいである。故親鸞聖人の仰せによれば、兎や羊の毛の先につく塵ほどの罪も宿業によらぬものはないと知るべきだ、と。(p.330)


 「悪人正機説」とは、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という有名な言葉にあるように、善人よりも悪人こそが阿弥陀仏の本願により救済されるという考えです。そうするとわざわざ悪事を働こうとする者も出てきます。それは「本願ぼこり」もしくは「造悪無碍(造悪は往生の妨げにはならないという考え)」と言って非難されるわけです。しかし上記の文章では、その非難自体がさらに否定されています。最終的に「本願ぼこり=造悪無碍」は肯定され、悪事を働くことが推奨されるような形になっていると著者は解釈しています。
 この文章で「宿業」という言葉が使われているところにも問題があるようです。「宿業」とは過去生の業が現在の生を決定するということですが、親鸞には「業」という考えはあっても「宿業」という考えはなかったようです。「宿業」が持ち出されると、たとえば差別されるような立場にある者の生も、過去の業の結果として肯定されることになってしまうからです。
 また、著者は親鸞の「造悪無碍」に対する態度は曖昧だと言います。肯定的なときもあるし、否定的なときもあるようです。それを著者は、親鸞には二種の「造悪無碍」があると解釈してみせます。一つは権力に反対するような「造反有理」的なものであり、もう一つは盗みや殺しのような「放逸無慚(勝手気まま)」なレベルのものです。親鸞は前者のみを肯定的に捉えますが、唯円は後者まで含めてすべての「造悪無碍」までも肯定しているわけで、それは間違いだというのが著者の独自の論点になるのだろうと思います。
 親鸞の思想がテーマごとに様々な文献が引用され、素人にはかなり手ごわい内容ですが、色々な論点が整理されている部分があって読み応えがありました。

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)


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