fc2ブログ
07 | 2015/08 | 09
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
プロフィール

moyai

Author:moyai
興味の範囲はごく限られ、実用的なものはほとんどないかも。

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

カウンター

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログランキング

ランキングに参加しました。

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

『国家がよみがえるとき』 フィンランドの起業事情など

2015.08.31 22:39|社会学
 社会学者・古市憲寿とフィンランドの社会学者・トゥーッカ・トイボネンとの共著。共著というよりはふたりは編集が主で、フィンランドの学者たちによるフィンランドについての論文・エッセイがまとめられたものになっています。フィンランドという国そのものから、フィンランドの「教育」「若者」「イノベーション」などのテーマが論じられています。

国家がよみがえるとき 持たざる国であるフィンランドが何度も再生できた理由



 フィンランドにはアキ・カウリスマキという有名な映画監督がいますが、彼の映画を見ればフィンランドが理解できるかと言えばそんなことはないわけで、それは黒澤明の映画を見て日本がわかったつもりになるのと同じように浅はかなこと。もちろんフィンランドが北欧の国というくらいは知っていますが、それ以外はほとんど何も知りませんので、その点では学ぶことの多い本でした。
 北欧の国ということでどことなくオシャレなイメージがありますし、福祉国家というのもまったくの間違いではないようですが、現実のフィンランドはそんなイメージばかりが当てはまるわけではないようです。古市氏がわざわざフィンランドについて学んでいるのは、フィンランドがこれまで何度も挫折し、その度に復活してきた国だからです。
 フィンランドは歴史的にロシアやスウェーデンの支配下にありました。第二次大戦ではそれまでの経緯からロシアと戦うことになり、それはそのままドイツと組む形ともなり、日本と同じ枢軸国として敗戦を迎えることになったようです。それから80年代に好景気を迎え、90年代に不況に入りますが、ここでフィンランドは教育改革とIT化を進め、ノキアという電気通信会社は携帯電話の市場占有率トップになります(現在ではマイクロソフトに売却されてしまいましたが)。

 古市氏は『僕たちの前途』「起業という生き方」について論じていましたが、今回の本もフィンランドが「起業大国」となった点に関心を抱いているようです。
 「福祉国家体制が起業の敵となる」という見解もあるようです。最低限の生活が保証されていれば、わざわざチャレンジしないということでしょうか。しかし、実際にセーフティネットに頼らざるを得ない人は起業を考えたりはしないという考えもあります。たしかに起業する人は成功を夢見ているわけですから、セーフティネットの有無は関係ないような気もします。しかし、フィンランドでは起業で失敗してもそれを貴重な経験として認めるようなところもあるようで、失敗しても最低限の生活は保証されているし、さらに再チャレンジの場もあるということです。日本は再チャレンジなど難しそうですから、そんな意味ではフィンランドで起業に対する敷居が低くなるのもわかります。日本はやはりフィンランドに学ぶべきところも多いようです。
 ただ、日本が起業によって立ち直ることになればそれはいいことですが、それは一部の限られた人のことであって、それ以外の人はどうなんだろうかとも感じます(これは『僕たちの前途』でも感じたことですが)。イノベーションによって国が全体的に底上げされてよくなるということなのかもしれませんが、ひどく他力本願のような気もします。
 それにしてもセーフティネットがあるとも思えないアメリカで起業率が高いのは一体どういうことでしょうか? これはまた別の要因があるのでしょうが……。
スポンサーサイト



『映画時評2012-2014』 蓮實重彦による最後の映画時評

2015.08.25 19:37|映画
 蓮實重彦の『群像』に連載されていた映画時評の第2弾『映画時評2012-2014』(第1弾は『映画時評2009-2011』)。ちなみに蓮實重彦は「映画をめぐる時評的な文章を書くことは、この一冊をもって終わりとすると決めている」(p.354)とのことで、残念なことですが蓮實重彦の新作映画に対する批評は読めなくなることになりそうです。もっともほかの文筆活動をやめるわけではないでしょうが……。

映画時評 2012-2014



 月に一度の「映画時評」の部分は見逃してしまった作品もあってまだ読んでない部分もあるのですが、ほかの雑誌など掲載された対談をとても面白く読みました。特に関心を持って読んだのが、アンドレ・バザンに関して触れた部分です(対談相手は「週間読書人」で映画時評を担当している伊藤洋司)。というのも、最近バザンの映画批評集『映画とは何か』『アンドレ・バザン 映画を信じた男』といった本を読んだばかりだったからです。
 蓮實重彦のバザン批判はいささか複雑だと言います。「映画について思考するなら、絶対バザンは読んで欲しいと思うと同時に、バザンを批判せずにどうして映画など見てこれたのかという苛立ちをも覚えている」(p.332)からです。世間的なイメージとして蓮實重彦は『カイエ・デュ・シネマ』的な批評の密輸入業者みたいに思われているなどと自ら冗談めかして語っていますが、実は頑固な反バザン主義者だとも言います(それはバザンがジョン・フォードを正当に評価できなかったからだとか)。
 バザンの映画批評はリアリズム論にあります。「写真映像の存在論」がミイラの話から始まっていたように、永遠の命を閉じ込める媒体として映画もあり、写真が示していた客観性を時間のなかで完成させたものが映画だと考えます。ごくわかりやすく言えば、映画は現実の再現としてあるという理念があるのだろうと思います。
 一方で蓮實重彦は『「ボヴァリー夫人」論』でも「テクスト的な現実」ということ繰り返し説いています(「エンマ・ボヴァリー」とテクストに書いてなければそれは存在しない)。それは映画を論じるときもそれは同様です。小説では「テクスト的な現実」ならば、映画では「フィルム的な現実」です。その映画が映像や音として提示するフィクションがすべてであるという原理主義であり、映画は現実を閉じ込めるようなものではなく、フィルムに映し出されているものに向き合えというのがその主張です。バザンの批評とはまったく相容れないものですから、その部分だけでも批判点が生じてくることになるわけで、蓮實重彦のバザン批判はさすがに的を射ていると思います(僕が偉そうに言うことではないわけですが)。

 そのほかにも作家・阿部和重と映画監督・青山真治を迎えての鼎談もあり、ここでは最近のハリウッド映画などを中心に色々と作品が斬られていきます。イーストウッド作品『アメリカン・スナイパー』に関してのイーストウッドの「幽霊化」という論点や、『インターステラー』のクリストファー・ノーランは演出ができないし活劇が撮れないといった真っ当な悪口もやはり読むべき価値があると思います。

映画時評2009-2011


『テロルと映画 スペクタクルとしての暴力』 テロリスム廃絶のための映画論

2015.08.17 20:01|映画
 著者は『ルイス・ブニュエル』(第64回芸術選奨文部科学大臣賞)などの四方田犬彦

テロルと映画 - スペクタクルとしての暴力 (中公新書)



 著者によれば、「テロリスムが人間に向かって何かを訴えるときには、つねに映像メディアを媒介として、スペクタクルの形態をとる」といいます。戦場における破壊行為や個人的な怨恨による殺人などはテロリスムと呼ばれるには不充分であり、映像メディアを通して不特定多数の目に触れることでテロリストのメッセージを伝達しえたときにテロリスムとして成立するということです。
 そんな意味では、911での世界貿易センタービルの崩壊は世界に強烈なメッセージとして伝わりました。そして、そんなスペクタクルをテレビ画面で見せつけられた多くの人は、それをハリウッド映画で観たようなものだと感じました。映画は「テロリスムが本来的に抱いているスペクタクル性を借り受けることで、産業として発展してきた」のです。
 著者によれば「忠臣蔵」や「新撰組」といった作品は、日本では度々取り上げられる題材もテロリスムということになるようです。「忠臣蔵」は人形浄瑠璃や歌舞伎の演目でしたが、その後は何度も映像化され年末の風物詩のようにもなっていますが、たしかにテロリスムの一種なのかもしれません。この場合どうしても観客はテロリスト側になるであろう赤穂浪士に肩入れして見てしまいますが……。

 著者がテロリスムを描いたフィルムを大雑把に分類したものは以下のようになります。

A 民族国家成立時に実際になされたテロリスムを、〈原初の殺人〉として神話化するフィルム。(例:グリフィス『國民の創生』)
B テロリスムを社会秩序と安全を脅かす悪とみなし、その駆逐と排除の過程をエンターテインメントとして提示するフィルム。(例:ジョン・マクティアナン『ダイ・ハード』)
C 懐古趣味。テロリスムの盛行を時代の背景として用い、政治的イデオロギーが摩滅した後の現在の時点から、ノスタルジアに耽るフィルム。(例:マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ『輝ける青春』)
D テロリスムの不可能性と不可避性を同時に見つめる、きわめて真摯な意図のものに製作されたフィルム。


 この本で取り上げられるのは、主にDに分類されるものです。特に、第4章から第7章までは4人の映画監督について検討しています。ブニュエル若松孝二ファスビンダーベロッキオの4人です。そして終章では「哀悼的想起としての映画――テロル廃絶に向けて」において、映画がテロリスムの廃棄のためになしうることの可能性を探っています。この終章部分はやや抽象的で、僕にはすんなり入ってこないところもあったのですが、4人の映画監督の作品分析はそれぞれ教わるところが多かったように思います。
 4人のなかで唯一未だ精力的に活動しているマルコ・ベロッキオ『夜よ、こんにちは』(2003年)は、イタリアで起きたアルド・モーロ元首相誘拐暗殺事件をもとにしています。しかし事件の正確な再現を目論んだものではありません。事件を引き起こした「赤い旅団」の一人の女性キアラは監禁した元首相の世話係ですが、仲間を裏切って元首相を逃亡させる夢を見ます。加えて、そうした事件のすべてがなぜか彼女が読んでいる脚本のなかにすでに書かれています。
 一般的なテロリズムを描いた映画は事件を正確に後世に伝えることを目的としてきましたが、ベロッキオのアプローチはそれとは異なります。歴史的報道資料と夢や想像的な光景を並置することで、「過去にあったと認識されてきたものとはまったく異なった光景を提示」し、理想的な政治のヴィジョンを問うことになっているのだといいます。以前に『夜よ、こんにちは』を観たとき、事件のすべてが脚本のなかに書かれているといエピソードがいまひとつわからなかったのですが、この分析を読むと腑に落ちるような気もします。

夜よ、こんにちは [DVD]