『映画時評2012-2014』 蓮實重彦による最後の映画時評
2015.08.25 19:37|映画|
蓮實重彦の『群像』に連載されていた映画時評の第2弾『映画時評2012-2014』(第1弾は『映画時評2009-2011』)。ちなみに蓮實重彦は「映画をめぐる時評的な文章を書くことは、この一冊をもって終わりとすると決めている」(p.354)とのことで、残念なことですが蓮實重彦の新作映画に対する批評は読めなくなることになりそうです。もっともほかの文筆活動をやめるわけではないでしょうが……。

月に一度の「映画時評」の部分は見逃してしまった作品もあってまだ読んでない部分もあるのですが、ほかの雑誌など掲載された対談をとても面白く読みました。特に関心を持って読んだのが、アンドレ・バザンに関して触れた部分です(対談相手は「週間読書人」で映画時評を担当している伊藤洋司)。というのも、最近バザンの映画批評集『映画とは何か』や『アンドレ・バザン 映画を信じた男』といった本を読んだばかりだったからです。
蓮實重彦のバザン批判はいささか複雑だと言います。「映画について思考するなら、絶対バザンは読んで欲しいと思うと同時に、バザンを批判せずにどうして映画など見てこれたのかという苛立ちをも覚えている」(p.332)からです。世間的なイメージとして蓮實重彦は『カイエ・デュ・シネマ』的な批評の密輸入業者みたいに思われているなどと自ら冗談めかして語っていますが、実は頑固な反バザン主義者だとも言います(それはバザンがジョン・フォードを正当に評価できなかったからだとか)。
バザンの映画批評はリアリズム論にあります。「写真映像の存在論」がミイラの話から始まっていたように、永遠の命を閉じ込める媒体として映画もあり、写真が示していた客観性を時間のなかで完成させたものが映画だと考えます。ごくわかりやすく言えば、映画は現実の再現としてあるという理念があるのだろうと思います。
一方で蓮實重彦は『「ボヴァリー夫人」論』でも「テクスト的な現実」ということ繰り返し説いています(「エンマ・ボヴァリー」とテクストに書いてなければそれは存在しない)。それは映画を論じるときもそれは同様です。小説では「テクスト的な現実」ならば、映画では「フィルム的な現実」です。その映画が映像や音として提示するフィクションがすべてであるという原理主義であり、映画は現実を閉じ込めるようなものではなく、フィルムに映し出されているものに向き合えというのがその主張です。バザンの批評とはまったく相容れないものですから、その部分だけでも批判点が生じてくることになるわけで、蓮實重彦のバザン批判はさすがに的を射ていると思います(僕が偉そうに言うことではないわけですが)。
そのほかにも作家・阿部和重と映画監督・青山真治を迎えての鼎談もあり、ここでは最近のハリウッド映画などを中心に色々と作品が斬られていきます。イーストウッド作品『アメリカン・スナイパー』に関してのイーストウッドの「幽霊化」という論点や、『インターステラー』のクリストファー・ノーランは演出ができないし活劇が撮れないといった真っ当な悪口もやはり読むべき価値があると思います。
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月に一度の「映画時評」の部分は見逃してしまった作品もあってまだ読んでない部分もあるのですが、ほかの雑誌など掲載された対談をとても面白く読みました。特に関心を持って読んだのが、アンドレ・バザンに関して触れた部分です(対談相手は「週間読書人」で映画時評を担当している伊藤洋司)。というのも、最近バザンの映画批評集『映画とは何か』や『アンドレ・バザン 映画を信じた男』といった本を読んだばかりだったからです。
蓮實重彦のバザン批判はいささか複雑だと言います。「映画について思考するなら、絶対バザンは読んで欲しいと思うと同時に、バザンを批判せずにどうして映画など見てこれたのかという苛立ちをも覚えている」(p.332)からです。世間的なイメージとして蓮實重彦は『カイエ・デュ・シネマ』的な批評の密輸入業者みたいに思われているなどと自ら冗談めかして語っていますが、実は頑固な反バザン主義者だとも言います(それはバザンがジョン・フォードを正当に評価できなかったからだとか)。
バザンの映画批評はリアリズム論にあります。「写真映像の存在論」がミイラの話から始まっていたように、永遠の命を閉じ込める媒体として映画もあり、写真が示していた客観性を時間のなかで完成させたものが映画だと考えます。ごくわかりやすく言えば、映画は現実の再現としてあるという理念があるのだろうと思います。
一方で蓮實重彦は『「ボヴァリー夫人」論』でも「テクスト的な現実」ということ繰り返し説いています(「エンマ・ボヴァリー」とテクストに書いてなければそれは存在しない)。それは映画を論じるときもそれは同様です。小説では「テクスト的な現実」ならば、映画では「フィルム的な現実」です。その映画が映像や音として提示するフィクションがすべてであるという原理主義であり、映画は現実を閉じ込めるようなものではなく、フィルムに映し出されているものに向き合えというのがその主張です。バザンの批評とはまったく相容れないものですから、その部分だけでも批判点が生じてくることになるわけで、蓮實重彦のバザン批判はさすがに的を射ていると思います(僕が偉そうに言うことではないわけですが)。
そのほかにも作家・阿部和重と映画監督・青山真治を迎えての鼎談もあり、ここでは最近のハリウッド映画などを中心に色々と作品が斬られていきます。イーストウッド作品『アメリカン・スナイパー』に関してのイーストウッドの「幽霊化」という論点や、『インターステラー』のクリストファー・ノーランは演出ができないし活劇が撮れないといった真っ当な悪口もやはり読むべき価値があると思います。
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