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『泰平ヨンの未来学会議』 人口過剰となった未来の姿

2015.09.30 20:06|小説
 スタニスワフ・レム「泰平ヨン」シリーズの1冊。
 1984年の深見弾氏が翻訳したものを新たに大野典宏氏が改訳したもの。
 今年6月に公開になった映画『コングレス未来学会議』に合わせて発売されたものと推測されます。

泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)



 スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』『虚数』を一度は読んだはずですが、正直あまり詳しくは知りませんでした。この『泰平ヨンの未来学会議』はそれらとはまったく違ったスラップスティック・コメディです。
 主人公は泰平ヨンですが、彼の一人称「私」で物語は進んでいきます。コスタリカで開催された未来学会議ですが、会場でテロが起きたりして大騒ぎとなります。しかし、「私」が滞在先のホテルで水を飲むと、そんないざこざを忘れて慈愛に満ちた心地になり、誰彼ともなく抱きしめたくなるような気分になってしまいます。
 これは軍がテロ鎮圧のために仕掛けたもののようで、そのほかの化学的な兵器で人々の意識をコントロールしていきます。そんな混乱状態のなか「私」も重症を負い、いつの間にかに黒人の若い女にその脳が移植されたりもします。そうなると「私」=「主人公ヨン」はいったい誰なのかわからなくなるわけですが、唖然としている間もなく「私」はコールドスリープで一気に未来の世界へとタイムスリップします。
 そんなこんなで全篇が悪夢のようでもあり読みやすい作品ではないですが、その一方でブラックユーモアに溢れてもいます。未来世界では不死になったために<生きる>を<生繰いくる>と書くとか、ダジャレめいた言葉遊びもちょっと笑わせます(翻訳者泣かせの部分だと思いますが)。

 『攻殻機動隊』のような義体というアイディアもありますし、『マトリックス』フィリップ・K・ディック作品みたいに現実は普段見えている世界とは別の姿として現れてきます。1971年に書かれた小説だということですから、多くの小説や映画にも出てくるようなアイディアもこの本が先取りしていた部分もあるのかもしれません。主人公ヨンがコールドスリープにかけられたときは、1ページに「無」とだけ記してあるような部分が続き、高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』なんかを思い出しました。
 映画版はなぜか実在の女優ロビン・ライトが主演で本人役を演じるということで、泰平ヨンは登場しないようですが、劇場では見逃したのでソフトが登場するのを楽しみにしたいと思います。

スタニスワフ・レムの作品
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『映画は絵画のように――静止・運動・時間』 アントニオーニと抽象絵画

2015.09.23 21:00|映画
 著者は以前に『黙示録――イメージの源泉』でも取り上げた岡田温司
 題名は「詩は絵画のように」というホラティウスの言葉をもじったもの。

映画は絵画のように――静止・運動・時間



 第Ⅰ章は総論になっていて、以降「影」「鏡」「肖像画」「彫刻」「活人画」などのテーマごとに論じられます(ちなみに第Ⅰ章にはアンドレ・バザンの名前が登場していて、ここでもバザンの影響を知らされます)。映画がいかに多くのことを先行芸術から学んできたかということがわかります。著者の専門は西洋美術史ということですが、かなり幅広い映画作品に関して触れられています。ただ古い作品も多いので、近所のレンタル店などでも見つけにくい作品が多いことが難点かもしれません。
 この本を読むと様々な映画監督が絵画から多くのことを学んで、それを映画に取り入れているということがわかります。たとえばヒッチコック『めまい』において、映像で肖像画を再現しているのだと言います。
 カメラが登場人物のマデリンの横顔を捉えると、それが静止画のようになるあたりのシークエンスがそうです。美術史のなかではプロフィールの肖像画はルネサンスのイタリアで盛んだったようで、それはコインの浮き彫りを模範としていて、そのモデルに記念碑的な性格を与えることができると評価されていたからです。ヒッチコックは肖像画への挑戦を映画のなかで行っているというわけです。

 個人的に興味深く読んだのは第Ⅶ章「さながら抽象画」です。というのも、ここではミケランジェロ・アントニオーニ監督の作品が取り上げられているからです。著者はアントニオーニの作品を抽象絵画との関連で論じています。『情事』のラストシーンは画面の半分が壁で遮られていて、確かに抽象絵画のような雰囲気があります。また、『砂丘』のラストの爆発シーンは、ジャクソン・ポロックの絵画と関連させられます。爆発で粉々に飛び散っていく破片が、ポロックのドロッピングに譬えられているのです。
 それから『太陽はひとりぼっち』という作品の有名なラストのシークエンスついて(僕はこの作品がお気に入りの1本なので)。正直に言えば、この作品のラストがよくわかるかと言えばそういうわけでもないのですが、なぜか惹かれるものがあります。わからないけれど惹かれるという言い方では何の説明にもなりませんが、たとえば吉田修一の小説『東京湾景』でのこの作品の解釈にも違和感があります。
 ふたりが「いつもの場所で」と待ち合わせたあとで、延々とふたりが登場しない「いつもの場所」が映し出され、結局ふたりは会わないままで終わる。もちろんこれでも間違いではないのでしょうが、妙に狭い解釈のような気がします(もちろん『東京湾景』は小説ですから、作者の解釈とは違っているのかもしれませんが)。
 著者の岡田氏が『東京湾景』について触れているわけではありませんが、アントニオーニの作品に関して「あまりにももっともらしく聞こえるような読み込みは禁物である、すべては開かれたまま宙吊りにされている」(p.259)と記しています。それからある美術史家の言葉を引いています。「抽象絵画の特徴は、単に表象再現から解放された表現のみにあるのではなくて、解釈への抵抗、言語化の拒絶のうちにある」(p.269)のだということです。そんなわけでやはりアントニオーニ作品は一筋縄ではいかないようですが、もう一度アントニオーニ作品を観直してみたくなりました。

ミケランジェロ・アントニオーニの映画

アンドレ・バザンに関しての鼎談

2015.09.14 19:56|映画
 現在書店に並んでいる「キネマ旬報」の最新号に、『アンドレ・バザン:映画を信じた男』刊行記念座談会という記事が掲載されています。

キネマ旬報 2015年9月下旬号 No.1698



 『アンドレ・バザン:映画を信じた男』は以前にこのブログでも取り上げたものですが、その刊行記念ということで著者・野崎歓を中心に四方田犬彦中条省平が加わってアンドレ・バザンに関しての鼎談をしています。
 三人は蓮實重彦の教え子とのこと。四方田氏は元弟子というか、蓮實氏とは袂を分かつことになったわけですが、そのあたりの理由も感じさせる部分もあります。バザンに対する態度にもふたりの見解の違いが出ているからです。
 というのも『アンドレ・バザン:映画を信じた男』から四方田氏が読み解くアンドレ・バザンは「映画を介して全世界に憧れた人」ということになるわけで、蓮實重彦が『映画時評2012-2014』「フィルム的な現実」を見よと論じているのとはまったく異なっているからです。どちらが正しい(?)のか僕にはよくわかりませんが……。
 また、中条氏も似たようなことをドゥルーズ『シネマ』を援用してまとめています。ドゥルーズは映画のアングルの採り方にはふたつあると言っています。「ヒッチコックはスクリーンを絵画の枠のように見立てて、その中に必要なものをすべて詰め込んでいく。それは完結した宇宙になっている。その対極にいるのがジャン・ルノワールで、野崎さんはマスクと言っていますが、世界の一部分だけを切り取ることで、その外側にある広がりを示そうとした」
 5ページほどの短い記事ですが、バザンに関してとてもわかりやすく解説されていて、とてもおもしろく拝読しました。