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キルケゴール 『愛について』 神が愛の媒介である

2015.10.18 17:57|宗教
 この『愛について』(新潮文庫版)はキルケゴール『愛と生命の摂理』のなかの最初の5章とのこと。文庫用に編集されたものと思われます。また、『愛と生命の摂理』とは『愛のわざ』とも呼ばれる著作のことです。

 ここでの愛というのは、恋愛のことではありません。キルケゴールの言う愛は、神への愛ということになります。キルケゴールによれば愛の源泉には神への愛があり、それがなければ人間の恋愛などもないということになります。
 まず、キルケゴールは愛を語る詩人を批判します。詩人は寂しさが好きであり、「所詮詩人の歌わんとするものは己れ自らの生命の謎であるあの「かなしさ」を有ったものでなければなりませぬ故。花咲かねばならず、ああ、そして凋落せねばならぬ、もの」(p.16)だからだと言います。これは自然な状態を再確認することであり、それを美しく謳い上げることでカタルシスを得るようなものだからかもしれません。
 たとえば日本の和歌などもそうした詩人的なものでしょう。もしかすると創唱宗教ではない自然宗教だけの状態ならば、人間は詩人的なものに留まるのが普通なのかもしれません。しかし、キルケゴールは詩人を批判します。キルケゴールは「キリスト教の教え」「世間の教え」とは違うということを強調していますから、「キリスト教の教え」はごく自然の状態ではないというのは織り込み済みのことなのでしょう。
 また、人と人との恋愛を「自然のする愛」などとも呼んでいますから、人間の恋愛がごく普通のものであることは認めているわけですが、それに留まることもありません。キルケゴールは『反復』『誘惑者の日記』のような本を読めばよくわかるように、詩人のような文章を書くこともできるわけですが、ここでは教化的なものを意図しているようです。

 キリスト教の教えには「隣人愛」というものがあります。キルケゴールはこの教えに深く切り込んでいきます。「自然のする愛」が永遠のものとなるのでしょうか。そうではないというのがキルケゴールの考えです。「もし人が恋人か、友を探し求めるために、世の中に出かけて行きます、と多分彼は永い道を行かねばなりますまい。――徒らに行かねばなりますまい。全世界を歩きまわり、いや、徒労に歩き廻らねばならぬことでありましょう。」(p.90)人が誰かを愛するというときに、それが正しい選択なのか自分でもわからないし、不安に思うこともあるでしょう。「隣人愛」の教えはそうではありません。神に祈ったあとに戸を開けて初めて出会った人こそが隣人であり、隣人は人間全体のことだからです。
 「自然のする愛」は自分とその恋人に対する愛情であったり、さらにその家族への愛情などのことを指します。世間的には自らの周囲の人間を大切にする人は愛情に溢れた人間ということになるのかもしれませんが、結局は自分の範囲がちょっとだけ拡大しただけで、人間全体からすれば狭い範囲に留まるわけですから、キルケゴールからすれば利己的な愛に過ぎないことになります。
 かと言って「自然のする愛」を否定するわけではないようです。ただその方向性というか、その順序が異なるのかもしれません。

 神はこの様に単に全ての恋愛の関係に於いて第三者であるばかりでなく、本来はその唯一の恋の対象であること、従って妻の愛人は夫ではなく、神であり、妻は夫を通じて、神に対する愛に導かれてゆく。……(中略)……全ての恋愛の関係は三重の関係であることを思わねばなりませぬ。即ち、愛人と、恋人と、愛と。――愛とは即ち神に他なりませぬ。それ故に、「或る人を愛すること、」即ちその人を神に対する愛にみちびいてくることであり、「愛せられる」ことは即ち神に対する愛に於いて捧げられることなのであります。(p.208)


 夫も妻も神の方向を向いているわけです。そんなふうにして神への愛へと導かれていくことがキルケゴールの考える愛ということであり、神への愛が「自然のする愛」の媒介となっているということです。
 この部分を読んで、以前、大江健三郎氏がどこかで話していたことを思い出しました。「信仰を持つ者というのは同じ方向を見ている」というものであったように記憶しています。何となく印象に残っている言葉だったのですが、大江氏が意識していたのは、「神が愛の媒介である」と言うキルケゴールのことだったのだろうと、今さらながらに発見したような気持ちにもなりました。

キルケゴール著作集〈第16巻〉愛のわざ (1964年)


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