キルケゴール 『誘惑者の日記』 審美的な人生は否定されたのか?
2015.10.31 23:35|小説|
キルケゴールの『あれか――これか』という著作に収められた一篇です。昔からこの部分だけで出版されてきたもので、恋愛小説として読まれてきたものとのこと。
翻訳は桝田啓三郎。

たしかにコーデリアとの出会いから、彼女への愛を日記に書き付けていき、次第に彼女に接近していくあたりは恋愛小説のようです。キルケゴールの詩人としての才が存分に発揮された文章となっていて読ませるものがあります。それでも『誘惑者の日記』は単純な恋愛小説とも言い難いようにも思えます。主人公はコーデリアと婚約までした挙句に彼女を棄て去ってしまうわけで、これだけを読むとその展開は理解に苦しむようなところもあります。
それはこの一篇が『あれか――これか』という著作の一部となっているからでもあります。『あれか――これか』は未読なので詳しくはわかりませんが、キルケゴールの入門書などによれば「審美的な人生」(第一部)と「倫理的な人生」(第二部)の両面が描かれ、それに対してキルケゴールが「あれか――これか」という選択を迫ることになります。その審美的な例として登場するのが、『誘惑者の日記』という一篇になるわけです。ごく一般的にはその選択では「審美的な人生」は否定される側にあるようです。
そんなわけで「審美的な人生」を描くこの作品ですが、ここではドンファンのように多くの女性を渡り歩くのではなく、コーデリアひとりを相手にしてその恋愛における「インテレサントなもの」をすべて引き出すということが追求されています。「インテレサント」とは「著しく人の関心、興味、共感を呼び起こすような性質をもった」「著しい精神的な、つまり知的な、影響ないし感化をおよぼすような」という意味とのことです。主人公のコーデリアという女性に対する態度は、上から教え導くような感じであり、最後は「インテレサントなもの」を味わい尽くして棄ててしまったようにも見えます。
結局なぜコーデリアが棄てられればならないかはわからないわけですが、『誘惑者の日記』という一篇はキルケゴールの実人生におけるレギーネとの事件が元になっていることが重要になってくるようです。キルケゴールはレギーネという女性を愛していたようです。実際に婚約した瞬間はそうした普通の生活ができるとも考えたのかもしれませんが、すぐに憂愁の念に襲われます。その憂いはキルケゴールが「大地震」と呼ぶ出来事に発しているとは推測されますが、キルケゴール自身はそのことに関して書き記してはいないために謎となっているようです(『誘惑者の日記』にもそうしたことは記されていません)。
誘惑したコーデリアを棄ててしまうという展開は、キルケゴール自身の経験からきているわけですが、それをことさら悪意とも思える書き方で描いているのは、それをレギーネに読ませてキルケゴール自身が悪者となるという意図があったからのようです。つまり婚約破棄事件はキルケゴールに問題があっただけで、レギーネには何の責任もないということを宣言するためのものだったわけです。
こうした流れを追っていくと、たしかに「審美的な人生」は否定されているようにも思えます。しかし、翻訳者の桝田氏が「『誘惑者の日記』の意義をほんとうに理解した研究が皆無といっていいありさまなのである。」(p.532)と憂慮するように、そうした見方には疑問も残るようです。『あれか――これか』という著作の第一部は逆説的に読まれる必要があり、第二部の「倫理的な生活」のほうが人の目を欺くための隠れ蓑だと示唆しており、一般的に言われるような単純な書物ではないのだと言います。僕自身は未だ『あれか――これか』を読んでいないので何とも言えませんが、約70ページに渡る解説には説得力があったと思います。
翻訳は桝田啓三郎。

たしかにコーデリアとの出会いから、彼女への愛を日記に書き付けていき、次第に彼女に接近していくあたりは恋愛小説のようです。キルケゴールの詩人としての才が存分に発揮された文章となっていて読ませるものがあります。それでも『誘惑者の日記』は単純な恋愛小説とも言い難いようにも思えます。主人公はコーデリアと婚約までした挙句に彼女を棄て去ってしまうわけで、これだけを読むとその展開は理解に苦しむようなところもあります。
それはこの一篇が『あれか――これか』という著作の一部となっているからでもあります。『あれか――これか』は未読なので詳しくはわかりませんが、キルケゴールの入門書などによれば「審美的な人生」(第一部)と「倫理的な人生」(第二部)の両面が描かれ、それに対してキルケゴールが「あれか――これか」という選択を迫ることになります。その審美的な例として登場するのが、『誘惑者の日記』という一篇になるわけです。ごく一般的にはその選択では「審美的な人生」は否定される側にあるようです。
そんなわけで「審美的な人生」を描くこの作品ですが、ここではドンファンのように多くの女性を渡り歩くのではなく、コーデリアひとりを相手にしてその恋愛における「インテレサントなもの」をすべて引き出すということが追求されています。「インテレサント」とは「著しく人の関心、興味、共感を呼び起こすような性質をもった」「著しい精神的な、つまり知的な、影響ないし感化をおよぼすような」という意味とのことです。主人公のコーデリアという女性に対する態度は、上から教え導くような感じであり、最後は「インテレサントなもの」を味わい尽くして棄ててしまったようにも見えます。
結局なぜコーデリアが棄てられればならないかはわからないわけですが、『誘惑者の日記』という一篇はキルケゴールの実人生におけるレギーネとの事件が元になっていることが重要になってくるようです。キルケゴールはレギーネという女性を愛していたようです。実際に婚約した瞬間はそうした普通の生活ができるとも考えたのかもしれませんが、すぐに憂愁の念に襲われます。その憂いはキルケゴールが「大地震」と呼ぶ出来事に発しているとは推測されますが、キルケゴール自身はそのことに関して書き記してはいないために謎となっているようです(『誘惑者の日記』にもそうしたことは記されていません)。
誘惑したコーデリアを棄ててしまうという展開は、キルケゴール自身の経験からきているわけですが、それをことさら悪意とも思える書き方で描いているのは、それをレギーネに読ませてキルケゴール自身が悪者となるという意図があったからのようです。つまり婚約破棄事件はキルケゴールに問題があっただけで、レギーネには何の責任もないということを宣言するためのものだったわけです。
こうした流れを追っていくと、たしかに「審美的な人生」は否定されているようにも思えます。しかし、翻訳者の桝田氏が「『誘惑者の日記』の意義をほんとうに理解した研究が皆無といっていいありさまなのである。」(p.532)と憂慮するように、そうした見方には疑問も残るようです。『あれか――これか』という著作の第一部は逆説的に読まれる必要があり、第二部の「倫理的な生活」のほうが人の目を欺くための隠れ蓑だと示唆しており、一般的に言われるような単純な書物ではないのだと言います。僕自身は未だ『あれか――これか』を読んでいないので何とも言えませんが、約70ページに渡る解説には説得力があったと思います。
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