『思想としての法華経』 あるがままにものごとを見るということ
2015.11.30 22:30|宗教|
この前取り上げた『ほんとうの法華経』がとてもよかったので、植木雅俊氏の本を。
東京工業大学の集中講義「思想としての法華経」をまとめたもの。

法華経の教えは寛容を尊ぶものですが、植木氏はなかなか手厳しいところがあるようです。先達の犯した間違いに関しても容赦なく指摘し、法華経の教えを正しく伝えることを目指しています。仏典を漢訳だけではなくサンスクリットの原典に遡って参考にして厳密に分析していますから、素人が読むには結構骨が折れる部分もあるかと思います。そんな意味では『ほんとうの法華経』は入門としては最適だし、植木氏の法華経の読み方の要点を把握し対談を進めていた、聞き手の橋爪大三郎氏の役割が重要だったことにも気づかされたりもします。
序章の「『法華経』との出会い」では、物理学を学んでいた植木氏が仏教研究者になっていく経緯などが追われています。学生時代、当時はまだ盛んだった学生運動家たちから「だから何なのだ」と詰め寄られると返答できなかった植木氏は、「自分で考える」ということを突き詰めていくうちに仏教に出会います。そんなふうに自分が納得するまで考えるという姿勢があるからこそ、翻訳の間違いなどに関しては厳しく指摘するという姿勢も生まれてくるのだろうと思います。
『思想としての法華経』の議論はかなり詳細で厳密ですが、対談『ほんとうの法華経』にそのエッセンスはかなり盛り込まれているように思えます。そんななかちょっと独自でよりわかりやすく感じられたのは第9章の「五十展転の“伝言ゲーム”」です。
植木氏が考える仏教の根本には「あるがままに見る」ということがあります。通常、人は様々な色眼鏡に毒されたりしていて「あるがままに見る」ことができません。仏教では随機説法と言って人を見て法を説いたり、方便を使ったりします。また覚りの内容に関して様々な言い方をするわけですが、釈尊の教えの根本にあるのは「あるがままに見る」ことであることに変わりはありません。植木氏はこんなふうにまとめています。
「十二因縁」や「四聖諦」という言い方は具体的ですが、「あるがままに見る」という言い方は普遍的で応用が利きます。なぜそういう言い方をするかといえば、そのほうが中心的な思想がきちんと伝わるからということになります。そうでなければ2500年も前の釈尊の教えが今に伝わるのは難しいのかもしれません。とても納得させる議論だと思います。
ちなみに『ほんとうの法華経』でも詳しく取り上げられていた不軽菩薩に関して調べていたら、松岡正剛の千夜千冊にはドストエフスキーが不軽菩薩を知っていたならば「すぐに大作の中核として書きこんだはず」とありました。たしかに不軽菩薩の存在は『白痴』のムイシュキンあたりを思わせるものがあります。
東京工業大学の集中講義「思想としての法華経」をまとめたもの。
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法華経の教えは寛容を尊ぶものですが、植木氏はなかなか手厳しいところがあるようです。先達の犯した間違いに関しても容赦なく指摘し、法華経の教えを正しく伝えることを目指しています。仏典を漢訳だけではなくサンスクリットの原典に遡って参考にして厳密に分析していますから、素人が読むには結構骨が折れる部分もあるかと思います。そんな意味では『ほんとうの法華経』は入門としては最適だし、植木氏の法華経の読み方の要点を把握し対談を進めていた、聞き手の橋爪大三郎氏の役割が重要だったことにも気づかされたりもします。
序章の「『法華経』との出会い」では、物理学を学んでいた植木氏が仏教研究者になっていく経緯などが追われています。学生時代、当時はまだ盛んだった学生運動家たちから「だから何なのだ」と詰め寄られると返答できなかった植木氏は、「自分で考える」ということを突き詰めていくうちに仏教に出会います。そんなふうに自分が納得するまで考えるという姿勢があるからこそ、翻訳の間違いなどに関しては厳しく指摘するという姿勢も生まれてくるのだろうと思います。
『思想としての法華経』の議論はかなり詳細で厳密ですが、対談『ほんとうの法華経』にそのエッセンスはかなり盛り込まれているように思えます。そんななかちょっと独自でよりわかりやすく感じられたのは第9章の「五十展転の“伝言ゲーム”」です。
植木氏が考える仏教の根本には「あるがままに見る」ということがあります。通常、人は様々な色眼鏡に毒されたりしていて「あるがままに見る」ことができません。仏教では随機説法と言って人を見て法を説いたり、方便を使ったりします。また覚りの内容に関して様々な言い方をするわけですが、釈尊の教えの根本にあるのは「あるがままに見る」ことであることに変わりはありません。植木氏はこんなふうにまとめています。
「十二因縁」などは、「あるがままに」見た結果ではないか。すなわち「如実知見」という眼差しで、人の悩みや苦しみの生じ方を見れば「十二因縁」となり、その眼で善と悪の二元的対立を見れば、両極端に偏らない「中道」という在り方となり、修行の在り方を見れば、「八正道」となり、苦の生成と消滅の因果の在り方を見れば、「四聖諦」となっただけで、そこに一貫しているのは「あるがままにものごとを見る」見方である。(p.344)
「十二因縁」や「四聖諦」という言い方は具体的ですが、「あるがままに見る」という言い方は普遍的で応用が利きます。なぜそういう言い方をするかといえば、そのほうが中心的な思想がきちんと伝わるからということになります。そうでなければ2500年も前の釈尊の教えが今に伝わるのは難しいのかもしれません。とても納得させる議論だと思います。
ちなみに『ほんとうの法華経』でも詳しく取り上げられていた不軽菩薩に関して調べていたら、松岡正剛の千夜千冊にはドストエフスキーが不軽菩薩を知っていたならば「すぐに大作の中核として書きこんだはず」とありました。たしかに不軽菩薩の存在は『白痴』のムイシュキンあたりを思わせるものがあります。
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