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『キェルケゴールの日記――哲学と信仰のあいだ』 日記という創作

2016.05.31 20:03|その他
 セーレン・キェルケゴールの日記について、鈴木祐丞氏が編集し翻訳したもの。

キェルケゴールの日記 哲学と信仰のあいだ



 キェルケゴールは「世界中でもっとも多量のインクを使った人」と称せられうるほどに多作な人だったとのことですが、そのなかの3分の1ほどが日記に費やされているそうです。この本はその膨大な日記のなかのほんの一部を抜粋したものです。編者は1884年の宗教的転機ということを中心に据えてこの本を整理しています。そして、それぞれの章ごとに日記と同じくらいの分量の詳細な解説がなされます。
 というのもキェルケゴールの日記は独自な言葉が使われていたりするために、キェルケゴールの研究者でもない素人が手当たり次第に読んでもわからないところがあるからです。その意味では解説を先に読んでから、日記に戻ったほうが最初はわかりやすいのかもしれません。
 たとえばこの日記には『誘惑者の日記』にも書かれていた「大地震」に関してより詳しく書かれている部分があります。

[…]大地震が起こったのはそのときだった。それは、すべての現象を解釈するための新たな誤ることのない法則を突然私に押し付けた、恐るべき変動であった。そのとき私が感づいたのは、父親の高齢が聖なる祝福ではなくてむしろ呪いであるということ、また、われわれ家族の者の例外的な精神的能力は、ただお互いを傷つけあうためだけに存在したのだということだった。父親の中に、われわれの誰よりも長生きしなければならない不幸な人を見たとき、彼が持っていた希望の墓の上に立つ墓標の十字架を見たとき、死の沈黙が私の周りに深まりゆくのを感じた。責めは家族みなに及ぶに違いない。神の罰は家族みなに降りかかるに違いない。私たちの家族は、神の全能の御手によって、消し去られてしまうことだろう。(p.43)


 これだけでは何が語られているのかよくわかりませんが、解説のほうにはキェルケゴールの父親ミカエルが少年時代に生活苦から神を呪ったというエピソードが示されているので、キェルケゴールの言う「大地震」というものが具体的に何を意味するのか明確になります。
 そのほかにも『誘惑者の日記』に登場するレギーネとの関係についてや、信仰のあり方についての葛藤などが追われていきます。ただ、キェルケゴールの日記は「ありのままの事実の記録とみなされるべきではない」(p.242)のだというのでちょっと混乱します。日記には通常なら書いた人の本心なり悩みなりが嘘偽りなく赤裸々に書かれるものと思いますが、キェルケゴールの場合は違うようです。
 日記ですから完全なフィクションではないようですが、キェルケゴールは出来事をリアルタイムでは書きつけてはいないようで、日記は彼によって再解釈され脚色された創作物ということになるようです。だからレギーネとのエピソードにも嘘が含まれているようですし、『死に至る病』の解説に書かれているようなキェルケゴールがせむしだったというような記載はどこにも見当たりません(「肉中の刺」という言葉はこの本にも出てくるのですが、それは「ルカによる福音書」に出てくる言葉として処理されています)。日記にはそうした自らの弱みについて書きそうなものですが……。
 そんなわけで創作として読むべきなのか日記として読むべきなのか迷ってしまうところもあるのですが、この日記に書かれている宗教的転機というものが何かしらドラマチックな構成をしていたとしても、キェルケゴールがそうした葛藤にあったことは事実なのだろうと思います。また、この本自体はキェルケゴールの特殊な用語――たとえば「反省のあとの直接性」「精神」「憂愁」などが丁寧に解説されてあったりもするので、キェルケゴールのほかの本の理解にも有用な本であると思います。
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『ドキュメンタリーは格闘技である』 今は亡き大物監督との対談

2016.05.07 12:44|映画
 『ゆきゆきて、神軍』などのドキュメンタリー映画監督の原一男の対談集。

ドキュメンタリーは格闘技である: 原一男 vs 深作欣二 今村昌平 大島渚 新藤兼人 (単行本)



 この本は原一男氏が主催していた「CINEMA塾」での対談をもとにしています。対談相手は深作欣二今村昌平大島渚新藤兼人といった大物監督たち。しかし、「なぜ今さら?」という気がしないでもないのは、大物監督たちがすでに鬼籍に入られてしまっているから。出版が遅れたのは、対談のテープ起こしはすでに済んでいて本にする準備中だったのに、原氏が誤ってそのファイルを消してしまったからだとか。本当か嘘かはわかりませんが……。
 ドキュメンタリーは記録映画などとも呼ばれ現実そのものを捉えたものだという考えもありますが、実際にはそんなことはありません。たとえば『A』などを撮った森達也氏は『ドキュメンタリーは嘘をつく』という本を書いていますし、フィクションである劇映画とドキュメンタリーの違いは曖昧なのかもしれません。
 そんな意味では、ドキュメンタリー映画監督である原氏が教えを乞う対談相手が劇映画を撮っている監督であることも特段不思議なことではないのかもしれません。ちなみに今村監督は『人間蒸発』を、大島監督は『忘れられた皇軍』というドキュメンタリー作品を撮っていますし、劇映画でもドキュメンタリーでも監督の意識に違いはないのかもしれません。
 大島監督は『忘れられた皇軍』(動画サイトで観ることができる)においてクライマックスとなる場面に関して、「メイク・ア・シーン」という言い方をしています。たとえば『戦場のメリー・クリスマス』で言えばデヴィッド・ボウイが坂本龍一にキスするシーンみたいなものだろうと思いますが、劇映画でもドキュメンタリーでもそうした瞬間が捉えられていなければダメだという意識ではまったく同じということなのでしょう。

 個人的には大島渚監督の作品が好きなので、大島監督との対談を興味深く読みました。大島氏には「劇映画は役者のドキュメンタリーである」(p.178)という名言もあるようで、この対談でも下手な役者はヘタに映ればいいと言い切っていますし、うまい役者がやった作品のほうがかえってインチキな作品になるとも言います。
 原氏は大島監督に役者に対する演出のつけ方について質問していますが、これは原氏がこの対談当時(1998年)劇映画を撮ろうと考えていたからで、それは実際に2005年の『またの日の知華』という作品に結実します。初めての劇映画のために先輩の大島監督から何かを引き出そうとして喰らいつくように質問をしていくあたりは、原監督が過去のドキュメンタリー作品でも見せていたしつこさにも思えました。

 『またの日の知華』は60年安保あたりから連合赤軍事件を経て、三菱重工爆破事件に至る時代のなかでひとりの女性の人生を描いていきます。独特なのは4章からなるこの映画のそれぞれの章の知華を演じるのが4人の女優だということでしょう(ブニュエルに似た趣向の作品がありましたが)。4人の女優がいれば、年齢的にもさまざまに違いがありますし、その演技の巧拙もいろいろです。原氏は大島監督の言葉をそのまま受け取ったように、ヘタな女優さんはヘタに映しているようにも思えました。そんな意味では劇映画というのは役者に影響されるところが大きいのだなあと改めて感じました。

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