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『可能なる革命』 <革命>へと至る狭い通路

2016.12.03 19:13|社会学
 『不可能性の時代』などの大澤真幸氏の最新刊。

可能なる革命 (atプラス叢書)



 今さら「革命」なんて言葉を使ってもというツッコミは著者も当然意識しているようで、なぜわざわざそんな言葉を持ち出してきたのかというところからこの本は書き起こされています。
 かつて「革命」という言葉は、社会主義やその先にある共産主義の実現を目指す運動を意味していました。しかしソ連はすでになく、中国は社会主義市場経済などと謳い、資本主義を受け入れています。結局、資本主義は全世界を覆っていて、そこから外に出ることは不可能となり、今では「革命」などという言葉を使う人はいません。
 しかし一方で、この社会に何も問題はないと考えている人もいないわけで、日本でも政府与党も野党も「変革」だとか「改革」など、変化を求める言葉が叫ばれています。最も劇的な変化を思わせる「革命」という言葉だけは避けられることになっていますが、決して変化を求めていないわけではないわけです。
 この本での「革命」という言葉の捉え方は、「資本主義を否定する制度や社会の構築を目指す」という狭いものではありません。それは<革命>という表記で示されます。それが具体的にどのようなものになるのかははっきりとはしませんが、この本では<革命>への可能性へと開かれるための考えが検討されることになります。

 最初に投票はせずにデモに参加する若者のことが分析されています。反原発デモに参加するくらいだから政治に関心がないわけではないにも関わらず、自らの意思表示をする場面である選挙のことは忘れているというのはどういうことなのでしょうか? 著者は、反原発デモでは若者にとって「私的」なものが「公的」なものへと結びついていたとします。しかしそれ以外の政治の場は、若者にとって自分には関係ないものと見えていたということになります。重要なのは「私的」なものが「公的」なものと直接に結びつく場合があるということだと思います(どこか「セカイ系」のような匂いを感じますが)。
 さらにそういう例として著者が挙げるのは、オタクと呼ばれる人々です。原初のオタクである鉄道オタクは、鉄道という特殊な分野に耽溺する人々ですが、彼らは自分たちの住んでいる地方から、可能性に満ちた大都会である東京へと自らを結びつけてくれる鉄道というものに全世界を感じ取っていたのではないか。そんなふうに著者は論理を展開しています。
 別の言い方をすれば、鉄道オタクは鉄道のネットワークに普遍的な世界の全体を写像している、そんなふうになります。オタクは特殊な世界にのめり込むわけですが、そういう特殊な世界が実は普遍的な世界へとつながる可能性を秘めているということです。先ほどの「私的」なものが「公的」なもの結びつくのと似ているわけです。

 なぜこうした狭い通路が探られているのかといえば、かつては普遍的な理念や理想を指す「民主主義」とか「共産主義」とか「経済大国」といった言葉が素直に信じられた時代があったのかもしれませんが、現在はそうした時代とは違うからです。

 どのような理念、どのような理想、どのようなイメージをもってきたとしても、直接に、普遍的な魅力を発揮できないのだ。普遍性を標榜する、どのような理念・理想・イメージも、実際には、部分的であり、欺瞞的で、白々しいものに感じられる。ここにAという理念やイメージをもってきたとしても、普遍性Uを志向する者にとっては、「それは違う」「それに尽きるものではない」という感覚が、否みがたく生ずるに違いない。(p.234)


 こうした感覚を著者は「余剰的同一性X」と呼んでいます。普遍性を示す言葉では捕えきれなかった「何か」ですが、これの代理となるものが普遍的なものとはまったく関係ない「特殊なもの」になるのではないかということです。
 オタクのあり方に可能性を見出しているのはそういう意味合いです。もちろんオタクはあくまで例にすぎず、抽象的に言えば「普遍的なもの」へとつながるための「特殊なもの」というのが著者の問題意識となっています。こうしたテーマは『現代思想の時代 〈歴史の読み方〉を問う』という対談でも論じられていました。

 今回僕がまとめたのはやや抽象的な話になっていますが、この本は世間で注目を浴びたテレビドラマや映画やマンガを分析するものとなっています。『桐島、部活やめるってよ』での一種の主役の交替となる場面の分析は「なるほど」と思わせますし、『あまちゃん』については『不可能性の時代』の図式(理想⇒虚構⇒不可能性)にピタリと当てはまる読みをしてみせています。著者は宮藤官九郎脚本のドラマのなかでもこの『あまちゃん』をとても評価していて、僕自身は『あまちゃん』を一度も見たことがなかったのですが、ちょっと見てみたくなりました。

 今後の展開を予想させる言葉も示されていますし、この本には続編となるべき本が登場するものと思われます。次に検討されるのは『動物的/人間的 1.社会性の起原』などでも展開している<動物と人間>を巡る考察となる予定だそうですが、それがどのように<革命>とつながってくるのか興味は尽きないところです。

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