『〈仏教3.0〉を哲学する』 「青空としてのわたし」=「比類なき私」?
2017.01.10 20:34|哲学|
この本は「これからの仏教」を志しているふたりの禅宗の僧侶(藤田一照氏と山下良道氏)と、哲学者である永井均氏が鼎談したものをまとめたものとなっています。
この本の前には『アップデートする仏教』という藤田氏と山下氏の対談本があり、そのなかで登場したのが「仏教3.0」という考え方になります。これまでの日本の仏教は、たとえば葬式仏教などと揶揄されたりもし、われわれには縁遠いものとなっていました。しかもそれは日本の仏教業界内部でも同様で、日本の仏教は医療行為が行われていない病院のようなものなのだと言います。ここでは医者であるはずの僧侶も、患者であるはずのわれわれも仏教という医療行為を効果があるものだと信じていません。こんな状況にある日本の仏教をこの本では「仏教1.0」と呼んでいます。
それに対し90年代半ばから(地下鉄サリン事件以降)日本に入ってきたテーラワーダ仏教を「仏教2.0」と呼んでいます。「仏教2.0」では、瞑想についてのメソッドがとても詳細になっていて、医療行為がきちんと行われている病院となっているようです。
しかしその瞑想を学んできた山下氏曰く、本場のミャンマーなどで修業している僧侶たちもメソッドはあっても、瞑想の最後の段階までたどり着くことは難しいとのことです。というのはここでは瞑想する主体という問題があって、「仏教2.0」では「主体が入れ替わる」ということが抜け落ちているからうまくいかないのではないかと言います。
「主体が入れ替わる」とは、山下氏の用語で言えば、空に浮かんでいる「雲」のような存在だったわたしが「青空としてのわたし」となることです。「青空としてのわたし」とは瞑想によってたどり着く境地ということになります。これは独特な用語ですから、ほかの言葉で言い換えてみれば、たとえば『意識と本質』の井筒俊彦氏ならば「無分節」と言うのではないでしょうか。分節化された雲のような状態ではなく、無分節の青空のような状態こそが悟りの境地であり、その状態に主体が入れ替わることがなければ瞑想はうまくいかないようです。
日本の仏教は医療行為が行われていない病院のようなものだとは言いつつも、禅などの伝統がありますから「無我」ということはわれわれにとっては馴染みやすいものです。だからそうした伝統のもとに瞑想のメソッドが根付いていけば、仏教をさらにアップデートしていく「仏教3.0」となるのではないか。藤田一照氏と山下良道氏のふたりはそんなふうに「これからの仏教」を模索しています。
今回の鼎談ではその僧侶ふたりの間に『〈子ども〉のための哲学』『私・今・そして神――開闢の哲学』などの永井均氏が入り、仏教を哲学していきます。永井氏にとっては仏教の教説などは幼稚なものと思えるようですが、座禅や瞑想の実践に関しては関心を抱いていて、その縁でこの本が成立したようです。
永井氏の本は僕もいくつか読んでいて(『マンガは哲学する』は繰り返し読みました)、独自の哲学を展開していることは知っていましたが、仏教に対して接近していたことは今回初めて知りました。永井氏は「比類なき私」ということをその哲学の中心に置いていますが、それが仏教の瞑想において達成される境地と関連するのではないかと考えているようです。「比類なき私」をごく簡単に言えば、世界の現れ方を示したものだろうと思うのですが、それが「青空としてのわたし」という境地と同じことなのではないかというのです。
このあたりはとても興味深く拝読したのですが、いまひとつ理解できたとは言えません。というのも瞑想の境地などというものは言葉で理解するものではなく、実践するものだからなのかもしれません。藤田氏も山下氏もそれぞれに瞑想会のようなものを開催してその実践にも力を入れているようですが、一方で永井氏は禅が「不立文字」といって言葉で説明しないことを批判していますから、さらに今後もっとわかりやすい説明がなされることを期待したいとも思います。





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この本の前には『アップデートする仏教』という藤田氏と山下氏の対談本があり、そのなかで登場したのが「仏教3.0」という考え方になります。これまでの日本の仏教は、たとえば葬式仏教などと揶揄されたりもし、われわれには縁遠いものとなっていました。しかもそれは日本の仏教業界内部でも同様で、日本の仏教は医療行為が行われていない病院のようなものなのだと言います。ここでは医者であるはずの僧侶も、患者であるはずのわれわれも仏教という医療行為を効果があるものだと信じていません。こんな状況にある日本の仏教をこの本では「仏教1.0」と呼んでいます。
それに対し90年代半ばから(地下鉄サリン事件以降)日本に入ってきたテーラワーダ仏教を「仏教2.0」と呼んでいます。「仏教2.0」では、瞑想についてのメソッドがとても詳細になっていて、医療行為がきちんと行われている病院となっているようです。
しかしその瞑想を学んできた山下氏曰く、本場のミャンマーなどで修業している僧侶たちもメソッドはあっても、瞑想の最後の段階までたどり着くことは難しいとのことです。というのはここでは瞑想する主体という問題があって、「仏教2.0」では「主体が入れ替わる」ということが抜け落ちているからうまくいかないのではないかと言います。
「主体が入れ替わる」とは、山下氏の用語で言えば、空に浮かんでいる「雲」のような存在だったわたしが「青空としてのわたし」となることです。「青空としてのわたし」とは瞑想によってたどり着く境地ということになります。これは独特な用語ですから、ほかの言葉で言い換えてみれば、たとえば『意識と本質』の井筒俊彦氏ならば「無分節」と言うのではないでしょうか。分節化された雲のような状態ではなく、無分節の青空のような状態こそが悟りの境地であり、その状態に主体が入れ替わることがなければ瞑想はうまくいかないようです。
日本の仏教は医療行為が行われていない病院のようなものだとは言いつつも、禅などの伝統がありますから「無我」ということはわれわれにとっては馴染みやすいものです。だからそうした伝統のもとに瞑想のメソッドが根付いていけば、仏教をさらにアップデートしていく「仏教3.0」となるのではないか。藤田一照氏と山下良道氏のふたりはそんなふうに「これからの仏教」を模索しています。
今回の鼎談ではその僧侶ふたりの間に『〈子ども〉のための哲学』『私・今・そして神――開闢の哲学』などの永井均氏が入り、仏教を哲学していきます。永井氏にとっては仏教の教説などは幼稚なものと思えるようですが、座禅や瞑想の実践に関しては関心を抱いていて、その縁でこの本が成立したようです。
永井氏の本は僕もいくつか読んでいて(『マンガは哲学する』は繰り返し読みました)、独自の哲学を展開していることは知っていましたが、仏教に対して接近していたことは今回初めて知りました。永井氏は「比類なき私」ということをその哲学の中心に置いていますが、それが仏教の瞑想において達成される境地と関連するのではないかと考えているようです。「比類なき私」をごく簡単に言えば、世界の現れ方を示したものだろうと思うのですが、それが「青空としてのわたし」という境地と同じことなのではないかというのです。
このあたりはとても興味深く拝読したのですが、いまひとつ理解できたとは言えません。というのも瞑想の境地などというものは言葉で理解するものではなく、実践するものだからなのかもしれません。藤田氏も山下氏もそれぞれに瞑想会のようなものを開催してその実践にも力を入れているようですが、一方で永井氏は禅が「不立文字」といって言葉で説明しないことを批判していますから、さらに今後もっとわかりやすい説明がなされることを期待したいとも思います。
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