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『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』 真理は自分で見つける?

2019.02.26 20:43|哲学
 著者はイェール大学の教授のシェリー・ケーガン
 ちなみに原書はもっと大部なもののようで、日本版はその後半部分を訳したものとのこと。前半の形而上学の部分は飛ばして、後半の価値論の部分のみとなっています。

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義



 タイトルにあるように「死」とは何かということについての講義録です。講義録だから語りかけるように書かれていて平易な文章となっていますが、その一方では厳密な書き方になっていると思います。
 著者は自分が考える死というものを説明し、読者に納得してもらおうと試みています。そこで著者の立場を整理しておけば、著者は魂のような存在を認めてはいません。われわれは身体がすべてであって、良くも悪くも死んでしまえば一巻の終わりということになります。また、ごく一般的に言えば死は悪いものとされていますが、では逆に不死が良いものであるかと言えばそうではないだろうというのが著者の見解です。

 厳密な書き方というのは、あくまで論理的に物事を検討していくというところです。たとえば著者は「誰もが独りで死ぬ」という主張について分析しています。普段の会話のなかでそんな主張がなされたならば、聞かされたほうとしては「まあ、そうだよね」とでも返すほかないような主張かもしれませんが、よく考えてみればこの主張はおかしいことがわかります。
 実際には病院のベッドの上で医者や家族に見守られて死ぬということもあるからです。ただ、この主張は死ぬとき孤独死の状態にあるということを言わんとしているわけでもないでしょう。おそらく「死んでいくのは自分であって、ほかの人ではない」ということを言わんとしているのだろうと思われます。しかし、それは死ぬこと以外だって同じです。自分がお腹が空いたとしたら、自分が食べなくてはならないわけで、隣の人が食べてくれれば空腹が満たされるわけではありません。食べるときだって独りとも言えるわけで、死ぬときだけが特別なことではありません。そんな意味で「誰もが独りで死ぬ」という言い方は、何かを言ったつもりになっているだけだというのです。
 著者はそうした厳密なやり方で死というものを考えていきます。死とはなぜ悪いのか。どんなふうに生きるべきか。自殺が合理的な行動と言える場合があるか、などなど。その結論に関して言えば、最初から「宗教的な権威には訴えない」と断っていたように、まったく突飛なものはありません。著者の論理に沿って進んで行けば、その結論には納得せざるを得ません。それでも真っ当すぎて凡庸なところに行き着いたようにも感じられました。というのも、この本を読み始めて直感的に考えていたところとさほど違いないところだったからです。とはいえ時に脇道に逸れながら、一つ一つ考え得る反論を潰しつつたどり着いたところでもあり、直感的にぼんやりと思い描いていたことよりも明確になったとは言えるかもしれません。
 著者もそうした意見は予想していたのか、最初にこんなふうにも記しています。

大切なのは、みなさんが自ら考えることだ。突き詰めれば、私がやろうとしているうちで最も重要なのは、死をしっかりと凝視し、私たちのほとんどがけっしてしないような形で死と向き合い、死について考えるよう促すことだ。(p.20)


 そんな意味ではとても誠実な本ということも言えるのかもしれませんが、気になることもあります。この本の裏表紙には「余命宣告をされた学生が“命をかけて”受けたいと願った伝説の講義」とあるのですが、この学生は実際に講義を受けてみてどう感じたのでしょうか。本のなかでは彼はイェール大学の学位を授与されて死んでいったともあり(P.213~214)、感動的なエピソードではあります。それでも彼はもっと決定的な答えを期待していたのではないかとも思ってしまいます。これまで先人の誰もが気づいていなかったような何か、たとえば「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」とでも言えるようなことを……。
 ただ冷静に考えてみれば、一言ですべて納得できるような真理なんてものがあったとしたら、かえって眉唾物とも言えるかもしれません。そんな意味ではやはりこの本の結論のように、堅実でありきたりでわかりきった材料で自分なりの納得の仕方を見つけるほかないというところに落ち着くのかもしれません。
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『根源への旅: 神話・芸術・風土』 ギリシアに思いを馳せつつ

2019.02.04 20:23|哲学
 著者の立野正裕氏は明治大学文学部名誉教授とのこと。
 この本の出版は昨年の6月ですが、収録されている文章は1970年代から80年代にかけて書かれたものとのこと。

根源への旅: 神話・芸術・風土



 僕はこの本の第一部の「根源の人間」という部分が気になって何度か読み返したのですが、ここで論じられているのはニーチェが発したとされる問題です。それは「人間は存在する。だがなんの意味もない。存在は無である。この無をどのようにして人間は耐えるのか。」(p.29)というものですが、いつの間にかにこの第一部をニーチェの『悲劇の誕生』の注釈のように読んでいました。というのもニーチェが『悲劇の誕生』で書いたことを、より丁寧に言葉を補って書かれているように感じられたからです。
 ニーチェの文章は論理の飛躍があったり比喩的な表現が多用されるために、豊富な知識にも感受性に欠けるごく普通の読者としては煙に巻かれてしまう部分もあります。しかし「根源の人間」には、ニーチェが読者が当然知っているべきこととして書かないような部分も説明されていて、「根源の人間」を読んでから『悲劇の誕生』に戻ると、ニーチェの難解な文章も多少はわかりやすくなるような気がします。
 たとえば「シレノスの叡智」に関することは、僕が読んだ中公クラシックス版の「『悲劇の誕生』(西尾幹二訳)では23pから26pあたりに書かれていますが、「根源の人間」のほうにはこんなふうに説明されています。

 ギリシア人は、シレノス的ペシミズムに圧倒されて打ちひしがれた人生を送るためには、あまりにも生本能の強烈な民族であった。かといってシレノス的認識をなかったものにしてしまうためには、かれらの洞察力はあまりにも透徹しすぎていた。そこから、生きたいという欲求と生の無意味さの認識とのあいだに抜きがたい矛盾が生まれる。この矛盾が募り募って、ついにことがらを逆転させるにいたった。すなわちギリシア人はあろうことか、シレノスの認識を逆転させてしまった。
 「人間にとって最善のこと、それはこの世に生を享けぬことだ。人間にとって次善のこと、それは享けた生をすみやかに捨て去ることだ」というこの定式は、いまや次のように書き換えられる。「人間にとって最悪のこと、それは必滅の運命を免れないということだ」
 ここから生への執着が一挙に正当化される。 (p.84~p.85)


 もちろん「根源の人間」に書かれているのはニーチェの注釈だけではありません。ウィキペディアによれば『悲劇の誕生』は「造形芸術をギリシャの神アポロン、音楽芸術をディオニュソスに象徴させ、悲劇(および劇文学)を両者の性質をあわせ持った最高の芸術(文学)形態であるとした」などと要約されます。
 このアポロン的原理とディオニュソス的原理の対立が、「根源の人間」では様々な別の対立で言い換えられていきます。たとえばこの関係はアポロンの竪琴と牧羊神パーンの縦笛の対立にも表れています。というのもパーンとディオニュソスには密接な関係があり、サテュロスたちと同様にディオニュソスの従者であるからです(先ほどのシレノスも同様です)。さらにドーリス的なものとプリュギア(またはトラキア)的なものの対立、つまりはギリシア的なものと非ギリシア的なものとの対立であることが読み解かれていきます。
 ここで竪琴と縦笛の対立というように音楽の話になっているのは、『悲劇の誕生』も正式なタイトルは「音楽の精神からの悲劇の誕生」だからなのでしょう。それからあらゆる芸術において秀でていたギリシアも器楽だけは発達しなかったのはなぜかという問いに対しては、音楽は魂に直接働きかけるから為政者たちが封じ込めた可能性があると推測するあたりはとてもスリリングだったかと思います。
 立野正裕氏の本は初めてだったのですが、映画の本なんかも書いているようですので、そちらのほうも気になるところです。

悲劇の誕生 (中公クラシックス)


悲劇の誕生―ニーチェ全集〈2〉 (ちくま学芸文庫)