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『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンII』 慈悲はどこから?

2020.04.29 19:39|宗教
 ふたりの禅宗の僧侶(藤田一照氏と山下良道氏)と、哲学者である永井均氏が鼎談したのが『〈仏教3.0〉を哲学する』でした。この本はその続編のような位置づけとなっています。

〈仏教3.0〉を哲学する バージョンII



 本書は前著の議論を受け継ぎつつ展開していくことになりますから、なるべくなら前著を読んでおいたほうがわかりやすいかもしれません。ちなみに、「〈仏教3.0〉とは何か」ということを、本書でのまとめ方から説明しておくと、まずは〈仏教1.0〉は本来的なことばかり言っている仏教ということになります。本来的に人間は仏になれる云々といったものですが、悟りに至るための方法論が欠けているようです。
 次の〈仏教2.0〉というのはアメリカなどで実践されてきたもので、プラグマティックと言っていいのかもしれません。ここでは本来的云々の話はなく、現実社会で役に立つものとして、瞑想の方法論が確立されています。「マインドフルネス」と言われるものがそのいい例だとされます。
 〈仏教1.0〉は本来的なことばかりに偏り、〈仏教2.0〉は現実的なことだけになってしまっている。どちらも忘れていることがあるんじゃないか、というのが本書のふたりの僧侶の考え方で、これまでの仏教を乗り越えるような新しい仏教を〈仏教3.0〉と名付けたということになります。

 前著でもいまひとつ理解できなかった部分が本書によってすんなりわかるようになるというわけではありません。というのも自分は瞑想というものを実践しているわけでもないので、その辺の理解が足りないのかもしれません。それでも何となく興味だけはあってこの本にも手を出したわけですが、個人的に「慈悲の瞑想」を巡ってのふたりの僧侶の考え方の違いが興味深いものに感じました。
 「慈悲の瞑想」というのは、「ヴィパッサナー瞑想」をする際に、セットとして行われることになっているようです。「ヴィパッサナー瞑想」が物事をあるがままに観察するという意味合いで、瞑想らしいものと感じられるわけですが、それとセットになっている「慈悲の瞑想」というものが、「私は幸せでありますように」から始まって「生きとし生けるものが幸せでありますように」と唱えるものであることが不思議にも感じました。瞑想というよりは、祈りの言葉のようにも思えるからです。
 もともと悟りというものは個人的なものなのでしょう。だからこそそれを他人に伝えることは途轍もなく難しい。「梵天勧請」のエピソードにもあるように、最初はゴータマ・ブッダも悟りを広めることを躊躇ったともされています。本書では永井氏が触れていることですが、「沈黙の仏陀」と言われる「パッチェカブッダ」の存在もあるわけですが、そんななかでゴータマ・ブッダだけは人々にそれを伝道することを選択したことになるわけですが、そこに関わってくるのが「慈悲」ということになるのだと思います。

 本書でふたりの僧侶(藤田一照氏と山下良道氏)の見解が分かれるように見えるのは、瞑想における慈悲との関わりです。本書では内山興正老子というふたりの師匠筋に当たる人が書いた「自己曼画」というものが前作に続いて参照されています。「自己曼画」は内山興正老子の著作『進みと安らい: 自己の世界』に詳しく掲載されているようです。

第一図 屁一発でも貸し借り,ヤリトリできぬ自己の生命
第二図 各々のアタマはコトバによって通じ合う
第三図 コトバによって,通じ合う世界がひらかれる
第四図 アタマが展開した世界の中に住む人間
第五図 アタマが展開する世界の根本には「わが生命」があったのだ!
第六図 「ナマの生命体験」と,「ナマに生命体験される世界」と,それぐるみの自己


〔新装版〕進みと安らい??自己の世界



 この言葉だけを見てもわかりづらいわけですが、通常の現実世界は第四図のことを指しています。ここでは人々は欲望に駆られ、何かを追ってみたり何かから逃げようとしたり、主義や主張によってグループを形成しようとします。しかしこの状況はキツいわけで、そこから瞑想によって抜け出すことが仏教の教えということになります。そして、そこから抜け出した段階が第五図と言えるかもしれません。ここでは第四図の状態が虚妄であり、頭が作り出した幻想だと気づくことになります。
 この第四図から第五図への移行の部分が何度も議論に上がるところで、良道氏は第五図はメタの位置に立つのではなく、別の世界へと出ることなのだと言いますが、一照氏は「出る」というのは言い過ぎなんじゃないかと反論します。
 ふたりの違いは永井氏の整理によれば、超越的でプラトン的なのが良道氏で、哲学者として超越論的でカント的なのが永井氏、現実の大地から離れない一照氏はアリストテレス的ということになります。
 良道氏は第五図の位置には慈悲が備わっているのだと主張するのですが、なぜ突然慈悲が出てくるのかと一照氏は問いかけます。しかし、ここでも永井氏の助けによってふたりの見解の相違が整理されることになります。
 第四図では人間たちは欲望に駆られ何かを追い求め、他人に対して常に嫉妬を覚えるような状態にあります。しかし瞑想によって第五図に到達することができれば、そうした欲望や嫉妬からも自由になることができます。今まで第四図の時にネガティブな状態にあったものが、第五図に至りそれが消えると、他者に対してもっとフラットに向き合えることになり、それが慈悲のように感じられるということではないだろうか。永井氏がそんなふうにまとめると、一照氏も、「自己中心性、自己愛のようなものが消えている状態が慈悲だと言われるのなら受け止められます。(p.243)」と語り、ふたりの僧侶の間に生じていた溝が解消されたようです。僕自身も「慈悲の瞑想」が「ヴィパッサナー瞑想」とセットとして実践されている意味合いがようやく理解できたようにも感じられました。

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