柄谷行人 『哲学の起源』 イソノミアの可能性
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ギリシアの哲学と言えば、例えば、始原物質(アルケー)についての議論があります。哲学の教科書などにも登場しますが、現代の科学からすれば間違っていると思えるし、なぜそれが重要なことなのかピンと来ません。タレスは「万物は水」であるとしました。アナクシマンドロスは「無限定なもの」。アナクシメネスは「空気」。ヘラクレイトスは「火」。エンペドクロスは「火、空気、水、土」だと言いました。哲学以前の考えだからそんなことにこだわっているのかと、哲学に疎い僕はぼんやりと思っていたわけですが、柄谷氏はそこに別の視点を与えています。
自然哲学に関して重要なのは、何が始原物質であるかということではなく、むしろそれが自ら運動するということなのである。(p.97)
タレスをはじめとする自然哲学者は、神々に依拠することなく世界を説明しようとした。(p.93)
ミレトス派が物質の自己運動を考えたのは、物質の背後に何かを想定すること。つまり製作者(デミウルゴス)としての神々を否定するためであった。(p.99)
物質が自ら運動するというのは呪術的な感じがしますが、ここでは物質と運動が不可分離であり、物質に運動をもたらす神々が斥けられ、その背後に運動の原因はないということが重要です。呪術的な考え方を斥けるためにこそ、自ら運動するような始原物質を考えたのだとか。柄谷氏によれば、「量子力学は、ある意味で、質料と運動は不可分離だというイオニア派の考えを回復した」ものなのだそうです。
すなわち、量子(光や電子のような微粒子)は粒子(質料)であると同時に波動(運動)である。(p.110)
さらに第5章ではソクラテスについて詳しく論じています。ソクラテスは本を残しませんでした。プラトンによってその哲学は伝えられています。柄谷氏は、プラトン自身の考えとソクラテスの考えを弁別します。プラトンが目指した哲人王の考えは、実はピタゴラスのものでありソクラテスには縁遠いのだとか。ソクラテスが目指したのは、統治そのものの廃棄であり、“イソノミア(無支配)”であるのだとします。
柄谷氏のNAMでの運動や『トランスクリティーク――カントとマルクス』『世界共和国へ――資本=ネーション=国家を超えて』『世界史の構造』という流れを考えれば、この『哲学の起源』もギリシア哲学の再考だけに終わるものではないでしょう。柄谷氏は“イソノミア(無支配)”に、交換様式Dの可能性を探っているのです。
イオニアでは、人々は伝統的な支配関係から自由であった。しかし、そこでは、イソノミアはたんに抽象的な平等性を意味したのではない。人々は実際に経済的にも平等であった。そこでは貨幣経済が発達したが、それが貧富の格差をもたらすことがなかったのである。(略)イオニアでは、土地を持たない者は他人の土地で働くかわりに、別の都市に移住した、そのため、大土地所有が成立しなかったのである。その意味で、「自由」が「平等」をもたらしていたといえる。(p.25)
なぜイオニアには“イソノミア”が存在したのでしょうか? イオニアは植民してできたポリスです。だからアテネのような氏族社会とは異なる自由がありました。しかし、それはフロンティアがあったからこそ可能だったものです。例えば、アメリカの開拓時代にもそうした自由がありました。遊動性を可能にするには空間の拡張が必要です。そして、かつてのアメリカにもフロンティアがあった。不平等が生じたら個人は移動すればよかった。だから不平等が生じずに“イソノミア(無支配)”が存在したのです。
現在、自由‐民主主義は人類が到達した最終的な形態であり、その限界に耐えつつ漸進して行くしかない、と考えられている。しかし、当然ながら、自由‐民主主義は最後の形態などではない。それを越える道はあるのだ。(p.27)
柄谷氏はイソノミアに自由‐民主主義を越えるもの、資本=ネーション=国家を揚棄するものを見出しているのですが、「いまの時代のフロンティアとは何か」については触れていません。それは今後の著作に期待したいところです。
僕には柄谷氏の議論が学問的に正しいのか判断することはできません。それでも柄谷氏の著作はいつも何らかの発見的(heuristic)なもの――これは柄谷氏が自分の著作について形容した言葉ですが――があるのは確かだと思います。