『「空気」と「世間」』 日本の息苦しさについて
2016.10.05 23:44|社会批評|
劇団『第三舞台』を主宰していた鴻上尚史氏の新書本(初版は2009年)。

「空気読めない」の略語「KY」が流行語になったほどなのに、その「空気」とは何なのかということは結構曖昧です。有名な山本七平氏の『「空気」の研究』はまさにその「空気」についての本ですが、「空気」は日本人にとって当たり前のものとされているからか、それを明確に定義するようなこともなかったように思います。というよりも明確に決められない鵺のようなわけのわからないものだからこそ、「空気」が力を持つことがあるということなのだろうと思います。
この『「空気」と「世間」』において著者・鴻上氏は、「空気」とは「世間」が流動化したものだと示しています。この説明はとてもすんなりと納得させるものがあるように思えます。
鴻上氏は先行する研究である阿部謹也氏の『「世間」とは何か』『日本社会で生きるということ』などの本から「世間」について整理します。西洋からの輸入物である「社会」という言葉は、「個人」という言葉と対となっています。日本にはそれまで「社会」という言葉も「個人」という言葉もなかったのだそうです。西洋にはキリスト教のような一神教があって、「個人」は神と1対1で向き合うことになります。そんな「個人」が契約を前提として集まって「社会」を形成します。一方の日本人が生きていたのは「世間」というものであって、西洋風の「社会」は存在しなかったのです。
「世間」の特徴として挙げられるものとして「共通の時間意識」や「差別的で排他的」というものがあります。小さな共同体では過去はもちろんのこと、明日も明後日もその先もそこで生きていくという了解がありますし、その共同体の者にとって同胞は仲間であり外部の者とは区別されて守られることになります。「世間」には、一神教のような明確な指針はないのかもしれませんが、周りの者がやっていることと同じことをしていけば生きていくことができたわけです。と同時に「世間」はそのしきたりを守りたくない者にとっては足かせにもなります。
しかし、この何十年かの間に「世間」は壊れつつあります。グローバル化した世界では移動することは簡単になり、「世間」というものも流動化していくことになるのです。それが「空気」と呼ばれることになるわけです。「空気」は「世間」よりも一層実体を伴わないものです。だからその「空気」を推し量ることも難しい場合もあるでしょうし、それに対抗しようとしても実体がないものだけに闘いようもないということになるわけです。
この本は山本七平氏と阿部謹也氏の本から著者が学んだことが、「社会」と「世間」と「空気」の関係としてわかりやすく整理されていて、とても示唆に富む本だったと思います。「空気」を「世間」と結びつけるというのは、言われてみれば説得力があると思うのですが、ほかでは聞いたことはなかったような気がします。
鴻上尚史氏の演劇は見たことがないのでよく知らないのですが、こうした本を書くというのは「世間」とか「空気」といったものに息苦しさを感じているからなのでしょう。僕自身も最近読んだ『コンビニ人間』とか『怒り』などに「世間」というものの息苦しさを感じて、この本を手にとりました。
では、そうした息苦しさに対する対処法ですが、たとえば『「空気」の研究』では「空気」の支配に対しては、「水を差す」ということによる抵抗が示されています。また『「空気」と「世間」』においても、「裸の王様」の話を題材に対処法が示されてはいます。しかし、どちらも「空気」とか「世間」に対しての万全たる対処法とは言えないようです。日本を覆う息苦しさはそう簡単に雲散霧消するようなものではないようです。

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「空気読めない」の略語「KY」が流行語になったほどなのに、その「空気」とは何なのかということは結構曖昧です。有名な山本七平氏の『「空気」の研究』はまさにその「空気」についての本ですが、「空気」は日本人にとって当たり前のものとされているからか、それを明確に定義するようなこともなかったように思います。というよりも明確に決められない鵺のようなわけのわからないものだからこそ、「空気」が力を持つことがあるということなのだろうと思います。
この『「空気」と「世間」』において著者・鴻上氏は、「空気」とは「世間」が流動化したものだと示しています。この説明はとてもすんなりと納得させるものがあるように思えます。
鴻上氏は先行する研究である阿部謹也氏の『「世間」とは何か』『日本社会で生きるということ』などの本から「世間」について整理します。西洋からの輸入物である「社会」という言葉は、「個人」という言葉と対となっています。日本にはそれまで「社会」という言葉も「個人」という言葉もなかったのだそうです。西洋にはキリスト教のような一神教があって、「個人」は神と1対1で向き合うことになります。そんな「個人」が契約を前提として集まって「社会」を形成します。一方の日本人が生きていたのは「世間」というものであって、西洋風の「社会」は存在しなかったのです。
「世間」の特徴として挙げられるものとして「共通の時間意識」や「差別的で排他的」というものがあります。小さな共同体では過去はもちろんのこと、明日も明後日もその先もそこで生きていくという了解がありますし、その共同体の者にとって同胞は仲間であり外部の者とは区別されて守られることになります。「世間」には、一神教のような明確な指針はないのかもしれませんが、周りの者がやっていることと同じことをしていけば生きていくことができたわけです。と同時に「世間」はそのしきたりを守りたくない者にとっては足かせにもなります。
しかし、この何十年かの間に「世間」は壊れつつあります。グローバル化した世界では移動することは簡単になり、「世間」というものも流動化していくことになるのです。それが「空気」と呼ばれることになるわけです。「空気」は「世間」よりも一層実体を伴わないものです。だからその「空気」を推し量ることも難しい場合もあるでしょうし、それに対抗しようとしても実体がないものだけに闘いようもないということになるわけです。
この本は山本七平氏と阿部謹也氏の本から著者が学んだことが、「社会」と「世間」と「空気」の関係としてわかりやすく整理されていて、とても示唆に富む本だったと思います。「空気」を「世間」と結びつけるというのは、言われてみれば説得力があると思うのですが、ほかでは聞いたことはなかったような気がします。
鴻上尚史氏の演劇は見たことがないのでよく知らないのですが、こうした本を書くというのは「世間」とか「空気」といったものに息苦しさを感じているからなのでしょう。僕自身も最近読んだ『コンビニ人間』とか『怒り』などに「世間」というものの息苦しさを感じて、この本を手にとりました。
では、そうした息苦しさに対する対処法ですが、たとえば『「空気」の研究』では「空気」の支配に対しては、「水を差す」ということによる抵抗が示されています。また『「空気」と「世間」』においても、「裸の王様」の話を題材に対処法が示されてはいます。しかし、どちらも「空気」とか「世間」に対しての万全たる対処法とは言えないようです。日本を覆う息苦しさはそう簡単に雲散霧消するようなものではないようです。
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