茂木健一郎 『生命と偶有性』 「クオリア」と「偶有性」の関係は?
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それは、私たちの生が容易には予測できないものであるということである。もちろん、何もかも確かなものが一切ないということではない。私たち人間の脳は、環境と相互作用しながら、その中にある確かな「法則性」を必死になってつかもうとする。確実なものはある。その一方で、不確実さも残る。確実さと不確実さが入り混じった状態。これが「偶有性」である。
「偶有性」とはまた、現在置かれている状況に、何の必然性もないということである。たまたま、このような姿をして、このような素質を持ち、このような両親の下に生まれてきた。他のどの時代の、どの国で生まれてきても良かったはずなのに、偶然に現代の日本に生まれた。そのような「偶有的」な存在として、私たちはこの世に投げ出されている。(p.7~8)
ここに引用した「まえがき」の部分で、ほとんどこの本の内容は語り尽くしたようなものです。それに続く本文は、それを茂木氏が集めたさまざまなエピソードで言い換えたものです。たとえばスピノザの神について。神にとってはすべてが必然的なものであり、偶然に起きることなどありません。しかし人間は異なります。「ある特定の人間は、存在することもあり得るし、存在しないこともあり得る」のです。そんな意味で人間は「偶有的」な存在だということです。
茂木氏は「偶有性」という考えが自分にとって重要なものとして現れた瞬間を語ります。そして茂木氏が研究対象としているもうひとつの概念「クオリア」と同等のものとして位置づけます。しかし、この本ではその関係性がよくわかりません。茂木氏も手探りで考えながらこのエッセイを記している部分があり、無理やり「偶有性」というテーマに結び付けているように思える箇所もあります。
さて、ここでは「クオリア」と「偶有性」の関係を考えてみたいと思います。以下、僕自身の勝手な解釈です。
ここではやはり大澤真幸氏の著作に戻るとわかりやすい気がします。大澤氏は、「偶有性」とは他でもありうるということだとします。今、僕はこうしてブログを記していますが、テレビを見ながらビールを飲むことも可能です。あるいはAKB48みたいなかわいい女の子とデートすること可能かもしれません。その意味でこうしてPCに向かっていることは「偶有的」です。大澤氏はさらにはその前提として、僕が僕であることがまるごと「偶有的」であり、僕がまるごと他者となることもあり得るのだと言います。大澤氏はそれを「根源的偶有性」と呼んでいます。
私が他者であったかもしれないということは、私がこの私であるという単独性に対立しているように見えるかもしれませんが、僕の考えでは、そういう単独性と(根源的)偶有性は、不即不離につながっている。むしろ、同じことの二面だと思っています。(『自由を考える 9・11以降の現代思想』 p.76)
ほかでもないこの僕がほかの僕でもあり得るというのが「偶有性」ですが、ほかの僕の可能性があればこそ、今のこのほかならぬ僕の「単独性」が意識されるのではないでしょうか(これは永井均氏の哲学に出てくるような問題なのかもしれません)。
ここで大澤氏が「単独性」という言葉で示しているものは、「クオリア」の問題とよく似ています。茂木氏は「クオリア」を『生命と偶有性』のなかでこんなふうに整理しています。
クオリアは本来、私秘的なものである。私が感じている「赤」が、他の人が感じている「赤」と果たして同じであるのかどうか。同じであるという保証はどこにもないし、それを確認する方法もない。(p.231)
「クオリア」とは個々人の主観に依拠するために、僕が感じている「赤」と茂木氏が感じている「赤」は同じものという保証はありません。そうした独特の質感は私秘的なものですから、茂木氏が「赤」と感じるものが僕には「橙」と感じられる可能性もあります。これは「偶有性」とはちょっとズレるかもしれませんが、他者との完全なる感覚の共有は不可能なのかもしれません。しかし、だからこそ僕自身の「クオリア」が独自のもの(単独のもの)として浮かび上がるでしょう。そして、これは「単独性」が強く意識されるために、「偶有性」が考えられなければならないという構図と似ているのではないでしょうか? こうした意味で「クオリア」と「偶有性」が結びついてくるのではないでしょうか。もちろんこれは茂木氏の考えとは関係のないことですが……。